夜の街と小さな光の店
アパートの玄関に立ったとき、リヴの胸は静かに高鳴っていた。
この扉の向こうには、自分の知る世界とはまるで違う“夜”が広がっている。森の夜でも、ヴェルンの石畳の夜でもない。ナオキが長い時間を過ごしてきた、地球の夜。
扉ひとつ隔てただけなのに、そこは別の世界のはずだ。
それを思うだけで、胸の奥がくすぐったくなるような落ち着かないような、不思議な感覚に満たされる。
「大丈夫か?」
鍵を手の中で回しながら、ナオキがやわらかく声をかけた。
「うん……大丈夫。だけど、少し緊張してる」
正直に答えると、ナオキは「そっか」と短く笑う。その笑顔だけで、不安の半分は消えていった。
鍵の金属音が小さく鳴り、扉がゆっくりと開いていく。
次の瞬間、ひんやりとした空気が頬をなでた。
森の夜とは違い、湿った匂いがない。
いつも森で感じていた草や土の匂い、木の皮のざらつきの匂い、遠くで動く生き物の気配……そのどれもが、この空気には含まれていなかった。
「……匂いがしない」
思わずつぶやく。
「しないか?」
ナオキが軽く首を傾げる。
「うん。森の夜は、夜になると匂いが増えるの。土も草も、森そのものが呼吸してるみたいで……。
でもここは……何も変わらない。夜になっても昼のままみたい」
「街だからな。自然より、人工のものの方が多いんだ」
ナオキは扉を押さえたまま説明する。
「空気が乾いてるし、森みたいな匂いはあんまりしないと思う」
「人工……」
リヴはその言葉を胸の中でゆっくり転がした。
自分が知るもののどれとも違う概念。けれど嫌ではない。むしろ、その意味をもっと深く知りたくなるような響きがあった。
そっと外へ足を踏み出した瞬間、胸が跳ねる。
「……固い」
足裏に伝わる感触が、予想と全く違った。
森の土でも、人の通る石畳でもなく、ただひたすらに均一で、揺れも沈みもない。
地面と話せない。
それがリヴには不安だった。
「大丈夫か?」
ナオキがそばへ寄る。
「うん……ただ、足が場所を教えてくれないの。森だと、踏んだ場所で湿ってるか乾いてるか、根があるか……すぐに分かるのに。
ここは何を踏んでも同じで、体がまだ“どこにいるか”決められない感じ……」
「なるほどな。確かに、こっちの道はみんな似た感触だよ」
ナオキはリヴの歩幅に合わせて歩き出した。
「慣れなくて当然だよ。ゆっくりでいいから」
「うん。ゆっくり歩くね」
リヴはもう一歩踏み出した。
地面は硬いが、足音は吸い込まれたように小さい。
「音も……ないんだね」
「夜は特に静かだな。人もそんなに通らないし」
「森は夜こそ賑やかだよ。風とか、虫とか、鳥もいたりして……。
静かな夜って、ちょっと怖いね。でも……なんだか落ち着く不思議な感じもある」
「リヴが感じる通りでいいよ」
ナオキは否定しない。ただ受け止めるだけの自然な声だった。
ふたりが住宅街へ出ると、街灯が視界に入ってきた。
地面よりずっと高い位置から、白い光が周囲を照らしている。ゆらめかず、風にも揺れず、ただ静かに明るかった。
「……あれ、空の星より明るい……」
リヴは立ち止まり、見上げた。
「火じゃないのに、こんなに明るいの? しかも消えない……」
「火は使ってない。仕組みで光を作ってるんだよ」
「仕組みで……光……?」
リヴは軽く息を呑む。
「森だと、光るものは火か月か星だけなのに。
人の作った光って……こんなに強いんだね。
夜が押し返されるみたい」
街灯の下に入ると、自分の影が細く長く伸びているのが見えた。
影がはっきりしすぎていて、夜の中にいる気がしない。
「夜なのに……全部見えるんだね」
「明るいからな」
ナオキが笑う。
「影が濃くないと、夜って感じしないだろ?」
「うん。でも……怖くないよ。この光」
リヴは目を細める。
「森の夜は、何が隠れてるか分からないから緊張するけど……。
この光は、隠れてるものを減らしてくれる。
夜を怖がらなくてもいいよって、言われてるみたい」
「それはよかった。ここは安全だからな」
ふたりはゆっくりと歩く。
リヴはあたりをずっと見回していた。
家の窓から漏れる温かい光。ベランダの金属。電柱。電線。
すべてが初めて見るものばかりで、そのたびに小さく息を吸う。
「ねえナオキ、あの上に伸びてる線は何?」
指さしたのは電線だ。
「電気を流す線だよ。光とか音とか、いろいろ動かすのに使ってる」
「電気って……雷の力?」
リヴが目を丸くする。
「まあ、似てるけど……雷そのものじゃない。小さくして使ってる」
「そんなことできるの?」
リヴは素直に驚いた。
「雷は木を割ったり、地面を焦がしたり……すごく強いものなのに。
それを小さくして、こんな線に流すなんて……」
「便利だからな。光も動くものも、ほとんどこれで動いてる」
「……すごい」
リヴは本気で感心したように呟いた。
「森の“自然の力”じゃなくて、人の“考えた力”で世界が動いてる感じ。
怖いけど……わくわくする」
「わくわくしてくれるなら嬉しいよ」
ナオキは横目で、リヴの表情を確認する。
興奮している。
緊張もしている。
でも、それ以上に好奇心が勝っている。
地球の夜は、リヴの胸を確かに動かしていた。
ふたりが少し広い通りへ出ると、遠くから低い音が響いてきた。
車が走る音だ。
「……何か近づいてくる?」
リヴは身構える。
「大丈夫。車の音だよ」
「車……って、あの何かが動いてる音なの?」
音の種類が森と違いすぎて、リヴは戸惑った。
「森の獣とは違うぞ」
ナオキは苦笑しながら説明する。
「人が乗る“動く箱”みたいなものだよ。あとで見えるよ」
「動く箱……?」
リヴは想像しようとして、すぐに諦めた。
「全然想像できない。でも……楽しみになってきた」
ナオキがその気持ちを肯定するように、横でゆっくり頷いた。
「楽しみなら、それが一番だよ。
怖かったら言ってくれれば、すぐ戻るし、ゆっくり進むこともできる」
「怖いのもあるけど……それより知りたい。
ナオキが生きてきた世界を、ちゃんと見たいの」
リヴは胸に手を置きながら、まっすぐ言った。
その言葉がナオキの胸に静かに響いた。
「ありがとう。じゃあ、一緒に見ていこう」
手を伸ばしかけて、しかし触れずに歩き出すナオキ。
リヴもその横に自然と並ぶ。
地球の夜が、彼女の心を揺らし続けていた。
少し広い通りへ出たところで、リヴは立ち止まった。
道の先に、淡い白い光がゆっくりと揺れているように見えたからだ。
「……あれ、何?」
光を指差す声は、少しだけ震えていた。
「あれは車のライトだな。こっちに来てる」
「ライト……?」
リヴは光に目を凝らす。
森では光は炎か星だけ。遠くから近づいてくる光といえば、松明か、月光を反射する何かしかありえない。
だが、目の前の光は炎のように揺れず、月のような冷たい青白さでもなかった。
地面をまっすぐ照らし、その後ろに影を引きながら移動してくる。
「動いてる……でも風も匂いもない。どうして……?」
「すぐ見えるよ。もう少ししたら近くを通るから」
「近くを……? こっちに?」
想像のつかなさが、リヴの胸をざわつかせる。
やがて光は大きくなり、形を帯びていく。
金属でできた箱のようなものが、昼間の獣とは違う唸り声を上げながら地面を滑るように近づいてくる。
「あれが……動く箱……?」
リヴの声は完全に呆然としていた。
「そう。車っていうんだ。人が乗ったり、物を運んだりする」
車が横を通り過ぎる瞬間、空気がわずかに圧され、冷たい風が後から追いかけてきた。
森の獣が走り抜けるときの風とも違う。
火の熱気のように強いものでもない。
ただ、金属と油の匂いがわずかに混じった、人工の風が通り過ぎた。
リヴはその風に、ほんの一瞬だけ身をすくめた。
「今の……生き物じゃないのに、走ってた」
「まあ……そうだな」
ナオキは笑いながらも、リヴの反応を丁寧に見守っている。
「ただの道具だよ。生き物じゃない。仕組みで動くんだ」
「仕組みで……あんなに速く?」
リヴは呆けたように車の後ろ姿を見送った。
「獣より速かった……。でも息もしてないし、鳴いてもいないのに……あんなに大きいのに……」
「初めて見ると驚くよな。俺も初めて森の大きな獣見たとき、逆にびっくりしたけど」
「そっか……ナオキも、逆の驚きをしたんだね」
リヴは少し笑って、それからまた周囲をゆっくり見回した。
町並みは静かだった。
夜の住宅街は、昼間の喧騒よりも整って見える。
家々は四角い形で並び、窓には温かな光。
ベランダには金属の柵があり、風に揺れて音を立てることはない。
森の家々とは全く違う、人工的な規則性があった。
「家が……全部似てる」
「似てる?」
「うん。森の家って、材料や作る人や土地で形が変わるでしょ。木の太さとか、石の色とか。
でも……この家たちは、同じ形に見える。高さとか、壁の色とか、窓の位置とか……全部揃ってるみたい」
「確かに似てるかもな。整えて建てることが多いから」
「整える……」
リヴは家の並びをまじまじと見つめる。
「人が“世界の形”をそろえてるみたいだね。
森は自然が決めるけど、ここは人の決まりで形が揃う……すごいね」
「褒められてるのか褒められてないのか、微妙だな……」
ナオキが笑うと、リヴもつられて少し笑った。
だがすぐに、リヴはあるものを見つけて足を止めた。
「ナオキ……あれ、光ってるよ!」
指差した先。
家の玄関の前に、小さな丸い明かりが灯っていた。
まるで家が自分で火をともしているような、柔らかい光。
「ああ、玄関灯だよ。家の前を明るくするために付いてる」
「家が……光るんだ……」
リヴは言葉を失ったようだった。
「森じゃ、家が光るなんて絶対ありえない。
夜になったら、炉の火か、窓に置いた灯りだけ……。
建物そのものが光るなんて……怖いけど、綺麗……」
「怖いか?」
「怖い。でも……嫌じゃない」
リヴはそっと胸に手を置く。
「この世界の夜は、怖いっていうより、知らないことだらけで……胸がどきどきする。
暗闇が少なくて、全部見えちゃうのに……なんでだろう……怖さよりも、知りたいが強いの」
「いいと思うよ、その感じ方。無理しなくていいからな」
ナオキは穏やかに言う。
「リヴがどきどきしてても、大丈夫だよ。俺がそばにいる」
その言葉に、リヴの胸の奥が少し温かくなった。
しばらく歩くと、道が少し明るくなってきた。
遠くに、別の種類の光がぽつんと浮かんでいる。
街灯よりも強く、温度のない白い光。
「……ナオキ、あれ……何?」
リヴの声は自然と小さくなる。
「あれがコンビニの光だよ。もう少しで着く」
「コンビニ……」
リヴは新しい単語を口の中で転がす。
それが何を意味するのか、まだ分からない。
だが、明かりの質が今までと明らかに違う。
建物の中からあふれる光。
まるで夜そのものを押しのけるような、強い白光。
リヴは歩みを止めた。
「……建物が……昼みたいに光ってる……」
驚きが声にそのまま乗る。
「そうだな。夜でも明るくて、人が使えるようになってる」
「夜なのに……明るいの?」
リヴは月を見上げ、そしてまた建物の光に視線を戻す。
「夜は暗いのが普通なのに……ここは明るさを夜から奪ってくるみたい……
なんだろう……胸がぎゅってなるけど、逃げたくはない……」
「大丈夫だよ。ゆっくりでいい」
「うん……でも、行きたい」
リヴは小さく息を吸った。
「怖いけど、それ以上に……ワクワクする。
ナオキが毎日見てる世界なんでしょ?
ちゃんと見てみたい」
ナオキは静かに頷いた。
「じゃあ、一緒に行こう」
ふたりはゆっくりと、光の方へ歩き出した。
リヴの胸はまだ高鳴っていた。
夜の匂いも、風も、地面の感触も、すべてが違う。
だが――その違いが、そのまま“新しい世界に来た実感”になっていた。
そしてついにふたりは、光の建物の正面へとたどり着いた。
リヴは、光に照らされている建物を前に立ち尽くした。
近づくにつれ、胸の奥がずっとざわざわしていたが、目の前に立つと、そのざわめきは完全に形を持った“衝撃”になった。
「……本当に光ってるんだ……」
その声は小さく震えていた。
目の前の建物は、森の夜では絶対に見られないほど明るい。
しかも、その明るさが「火」ではない。
燃えていない。揺れない。
光の色は白く、少し冷たいのに、なぜか安心するような均一さがあった。
そして何より、建物そのものがまるで昼のように輝いている。
中の光が外へこぼれ、地面まで明るく照らしている。
「ねえナオキ……本当に、夜なの?」
「夜だよ。ほら、空見てみ」
ナオキに言われて空を見上げる。
暗い空に月が浮かび、星がかすかに光っている。
間違いなく夜だ。
でも――目の前の建物は夜をまったく受け入れていなかった。
「夜が……ここだけ止まってるみたい」
リヴはぽつりと言った。
「夜なのに、昼みたい……。
こんな場所があるなんて、思ってもみなかった……」
「ずっと開いてる店だからな。明かりが消えないんだ」
「ずっと……?」
リヴは驚いてナオキを見た。
「夜の間ずっと? 火も使わないで? 人がいなくても?」
「ああ。人がいなくても明るいよ」
「そんなこと、ありえるの……?」
リヴは胸を押さえた。
森では考えられない。
暗闇は夜の主であり、火が消えれば世界全体が眠る。
建物さえも夜を受け入れて静まるはずだ。
なのに――この建物は眠らない。
「怖い……」
だがその言葉の直後、彼女は言い直すように続けた。
「でも、見たい。怖いけど……ちゃんと見たい。
だって、ここはナオキの世界なんだもん」
ナオキはリヴの表情を見て、そっと言う。
「怖さはあっていいよ。そのままでいい。でも、もし進みたいなら……俺が隣にいる」
「……うん」
リヴは深く息を吸い込み、建物のもっと近くへ足を進めた。
コンクリートの地面は、さっきよりもずっと明るい。
建物の白い光が地面に反射し、空気の色を変えている。
リヴは何度も足元を確かめた。
森の地面とは違いすぎて、踏むたびに不安が湧くが、それ以上に興奮が押し寄せてくる。
「建物の壁が……透明なんだね」
リヴの視線はガラス張りの正面へ向けられていた。
「ガラスだよ。中を見えるようにしてる」
「ガラス……」
リヴはすぐに近づき、指先をそっと触れさせようとして、途中で止めた。
「森の窓とは全然違う……。
薄い板なのに、こんなに大きくて割れないの……?」
「割れにくいガラスだな。強いやつ」
「割れにくい……そんなガラスがあるんだ……」
リヴは軽く震える声で呟いた。
「ガラスって、割れやすいものだと思ってた。
こんなに大きな板が割れずに立ってるなんて……すごい……」
その時、建物の正面に並ぶ光の帯がふっと変化した。
明るさはそのままだが、看板がじんわりと光って見える。
「ねえナオキ……あの上の光、なんなの?」
「あれが店の看板だよ。名前が光ってる」
「名前が光る……」
リヴは思わず笑いながら、半歩下がって看板を仰いだ。
「森だったら、木の板に絵を描いて吊るすくらいなのに……ここは名前まで光るの……。
本当に……違う世界なんだなあ……」
ナオキは横目でリヴを見て、やさしく言う。
「驚きすぎて疲れてないか?」
「ううん、疲れてない。むしろ……胸がいっぱいで眠れなくなりそう」
リヴの目は、初めて世界を見た子どものように輝いていた。
だがその輝きの裏には、不安も残っている。
建物にあと三歩ほど近づけば、自動ドアが感知して動くだろう。
それを知らないリヴは、その存在すら予想できていない。
ナオキはリヴの様子を確かめて、静かに言った。
「もう少し近づくと……ちょっと驚くかもしれない」
「驚く……?」
リヴは不安そうに眉を寄せた。
「この建物、さっきから全然眠らないし……光ってるし……。
これ以上何があるの……?」
「うん。まあ……近づけば分かるよ」
「ナオキ、ちょっと怖い言い方しないで……」
リヴは思わず袖をつまみかけて、すぐに離した。
「怖いものじゃないよ。ただ、初めて見ると驚くってだけだ。
逃げたくなるようなものじゃない」
「……なら、行く」
リヴは小さく頷き、ゆっくりと建物の正面へ歩を進めた。
光に包まれるにつれ、胸がまたどきどきと高鳴る。
森とは違いすぎる夜の光が、リヴの胸に新しい鼓動を生んでいた。
そして――自動ドアの前に辿り着いた。




