リヴ地球へ
異世界側の拠点にある三十二型の黒い画面――
ポータルの前に立つと、ナオキはひとつ深く息を吐いた。
画面は光らず、揺らがず、何も映していない。
けれどその向こうには、確かに“地球の空気”が沈んでいるのが分かる。
この世界の澄んだ空気とは違う、どこか乾いた人工的な匂い。
そして、胸の奥でほんの少しだけ疼く“帰れる場所”の感覚。
(……さて。言うか)
迷いを押し込むみたいに息を吸い、後ろへ声を投げた。
「……なあ、リヴ」
木箱を開けて薬草をまとめていたリヴの肩が、ぴくりと小さく跳ねた。
呼ばれた瞬間の反応で、ナオキはもう彼女の緊張に気づく。
リヴはそのまま小走りで近づいてきて、
けれど途中で足をすっと緩め、呼吸を整えるように胸に手を当てた。
帽子の下の耳が、わずかに後ろへ傾いている。
「どうしたの。そんな顔して」
細い眉が寄る。
リヴの声には、ほんの少しだけ“何かを察した人”の響きがあった。
「いや、その……今日はさ。地球に来てみるか?」
その一言で、リヴの時間が止まった。
まばたきも忘れたように瞳が大きく開き、
足はその場に縫いつけられたみたいに動かない。
指先がきゅっと縮み、胸元にそっと押し当てられる。
風が吹き抜け、リヴの銀髪をそっと揺らす。
でも、リヴの体だけは石像のように固まっていた。
「わ、わたしが……ナオキの世界に?」
震えた声は、驚きよりも“恐れ”の色が濃い。
ナオキは肩をすくめ、なるべく柔らかく言葉を返す。
「短い時間だけな。安全なところだけ見せる。散歩みたいなもんだ」
リヴは胸の前で手をぎゅっと握りしめ、
帽子のつばがかすかに揺れるほど首を振った。
「む、むり……怖い。
もし切れちゃったら……身体が半分こになるんでしょ……?」
想像しているのだろう。
ポータルの“切断”という危険性を、
まるで絵本の残酷な一場面みたいに思い浮かべたのかもしれない。
「そう思うのも無理ないけどね」
ナオキは苦笑し、頭をかいた。
リヴの耳はぴんと立つでもなく、下がるでもなく、不安定に震えている。
「まあ……無理に来なくてもいいか」
その一言で、リヴの耳がぴくんと跳ねた。
だが、次の瞬間――
まったく別方向の言葉に反応を示す。
「もし地球でリヴと美咲さんが鉢合わせしたら、面倒なことになるし」
リヴの体が、ほんの少し前に傾いた。
まるで、自分でも気づかないうちに一歩踏み出したみたいに。
「……ミサキ?」
「ん?」
「ミサキって……だれ?」
声の温度が変わる。
恐怖とは違う色。
自分でも理由の分からない、胸の奥のざわつきを抱えた声。
ナオキは一瞬だけ言葉を探し、視線をそらした。
「地球側の知り合い。気さくで、ちょっと口が達者で……まあ、そんな感じの人だ」
リヴはわずかに頬をふくらませ、
黒い画面をじっとにらむように見つめた。
「……ナオキが、よく会う人?」
「会うというか……お店の常連だし、よく連絡を取る相手ではあるな」
リヴは胸元の布をつまむ手に力をこめた。
恐怖は消えていないのに、その瞳に別の光が混じり始めている。
――嫉妬。
それと、自分でも整理できない気持ちが絡み合い、
リヴの息が少し荒くなる。
「……じゃあ。行く」
「え?」
「なんか、もやもやする。やだ」
ナオキは飲み込んだ笑いを必死に押し殺した。
「そ、そういう理由で決めるのか……?」
「ちがうよ。ちが……うけど……」
リヴはうつむき、
そっとナオキの袖をつまんだ。
指先は小刻みに震えている。
それでも、離そうとはしなかった。
「ナオキが誘ってくれたから。行くの」
その小さな声は、恐怖をかき消すようにまっすぐだった。
ナオキの胸の奥が、じんわり温かくなる。
「……じゃあ、行こう。リヴ、地球へ」
リヴは喉の奥で小さな音を立て、
吸った息をひとつ、ゆっくり吐き出した。
「……うん」
それでもまだ怖いのだろう。
指先が震え、足がためらいを見せている。
ナオキはリヴの肩に軽く触れ、落ち着かせるように言った。
「リヴ、先に行け。一人ずつだ。十秒で切れる。覚えてるな?」
リヴは何度も頷くが、瞳が揺れたままだ。
「ナオキは……?」
「すぐ追いかける。向こうで俺を見てればいい。
戻ったり、ポータルに首を突っ込むなよ」
「……分かった」
深呼吸をひとつ。
リヴは短い助走をつけ、
画面の前に立ち止まり、
そっと目を閉じ――
そして踏み込んだ。
吸い込まれるように、ふっと姿が消える。
風も音も残さず、まるで光が消えるみたいに。
「……お、おい。早すぎ……」
向こう側には、
きょとんと立ちすくむリヴの姿。
さっきまでの恐がりようが嘘のように、
両目をぱちぱち瞬かせている。
ナオキは苦笑しながら、後を追った。
ポータルを抜けた瞬間、
リヴは足の裏から伝わる“ちがう世界の感触”に小さく息をのんだ。
地面――いや、床は滑らかで冷たい。
石畳とも木とも違う、均一で人工的な平らさ。
空気は澄んでいるのに、どこか乾いている。
草や土の匂いがない代わりに、柔らかい洗剤の香りが漂っていた。
蛍光灯の光が、リヴの銀髪を白く照らした。
「ここが地球の……ナオキの部屋……」
リヴはゆっくりと一歩踏み出した。
動きは慎重なのに、瞳だけは輝いている。
その姿を見て、ナオキは少し肩の力を抜いた。
「大丈夫だろ? 怖くないか?」
「……うん。ちょっとだけ、足が変な感じするけど……」
リヴはそろそろと足の裏を確かめ、つま先を上げ下げした。
その仕草は、小動物のように慎重で、少しだけくすぐったい。
「この地面……なんか、ふわってしてる。森みたいに沈まないけど、硬くもない……」
畳の感触を確かめるように、足の指をゆっくり動かす。
そのたびに、きゅっ……と乾いた草の匂いがふわりと立った。
「これ……草の匂い……? でも地面じゃないんだよね」
リヴはそっと膝をつき、畳の表面を指でなぞった。
初めて触れる感触に指先がぴくりと震える。
「うん。そっちの家の床は土や木だからな。
これは“畳”っていって、日本の昔からある床材。
地面じゃなくて、ちゃんとした部屋の床なんだ」
「へぇ……」
リヴは指を鼻先に近づけ、もう一度そっと匂いを確認する。
「ほんとに草みたい……。だけど柔らかい。
木の床みたいに冷たくないし……土みたいに沈まないし……ふしぎ」
畳の感触を確かめるように、両手で軽く押してみる。
その度に、きゅ、きゅ、と小さく沈む音がリヴの耳に届く
「……あったかい。地球の床って、森より静かだけど……優しいね」
「優しいって言い方すんのリヴくらいだよ……」
ナオキは苦笑するが、どこか安心もする。
彼女の第一声が“恐怖”じゃなく、“驚きと感想”だったからだ。
リヴはもう一度、足裏で畳を押した。
さっきまでこわばっていた肩の力が少し抜けている。
「ポータル抜けたら、すぐナオキの家なんだね……。
うん……思ってたより、怖くないかも」
「それは良かったよ」
ナオキは心底ほっとして言った。
リヴは興味の向くまま視線を部屋の隅々へ移していく。
まずベッド。
ふわりと沈む白い布。
その上に整えられた枕。
リヴは慎重に手を伸ばし、端をつまんだ。
指が沈む柔らかさに、ふわっと息を漏らす。
「ふかふか……。これ、ナオキが寝てる場所?」
「まあ、そうだけど……その言い方はやめてくれ」
「だって……落ち着く匂いがする」
「だからやめろって」
ナオキは耳まで熱くなり、視線をそらした。
リヴはそんな反応が面白いのか、ふわっと笑った。
その笑顔が、さっきまでの恐怖をどこかに押しやったように明るい。
次に机の前へ移動する。
パソコンの黒い画面に顔を近づけ、
自分の姿が映っているのに気づいて目を丸くした。
「絵が……写ってる。わたし?」
「鏡みたいなもんだろ、それは。電源入れてないから」
「触ってもいい?」
「見るだけ。壊れたら泣く」
「ふふ。見るだけ」
言いながら、リヴは画面に映る自分を左右に揺らしてじっくり見比べている。
帽子のつばが画面に触れそうでヒヤヒヤする。
(……頼むから触らないでくれ)
ナオキは心の中で何度も手を合わせた。
リヴは机の上の紙の束、ボールペン、無造作に置かれたリモコンをして、
「地球の道具って、小さくて綺麗だね」
「まあ……そう見えるのか」
「うん。形がすごく整ってる。森で落ちてる枝とは全然ちがう」
その比較に、ナオキは笑うしかなかった。
「枝と比べるのはやめてくれ……」
リヴは気にせず、部屋の中央に戻る。
壁に掛けられたカーテンを指でつまみ、そっと引いた。
夜の街の灯りが、一気に部屋へ流れ込んだ。
道路を走る車のライトが、
まるで白い川の流れのように行き交っている。
遠くでネオンが揺れ、風に揺られる木の影が黒く揺れる。
リヴは、吸い込まれるようにその光景を見つめた。
「……わあ……」
小さな吐息がこぼれた。
「外の光が……動いてる。星が歩いてるみたい」
「車のライトだよ。馬車みたいなもんが、夜も走るんだ」
「馬車……夜も……?」
「地球は夜でも働く人が多い。店もある。光は絶えない」
「へぇ……」
リヴは目を細め、遠くの光を追った。
「地球の夜って、きれいなんだね。
わたしたちの世界の夜は……あれはそれで好きだけど、
こんなに明るくはならないもの」
「そうかもな。向こうは明かりが少ないし」
リヴは窓ガラスに指を触れ、外の光が揺れて見えるのをじっと眺めた。
「明るいって……安心するんだね。なんだか、不思議」
その囁きは、ナオキの胸の奥にやさしく染み込んだ。
「……本当はもっと前から、連れてきたかったんだよ」
その声に、リヴはゆっくり振り返った。
驚いたようにまばたきが増える。
「ナオキが……?」
「怖がるかなって思ってさ。
でも……いつかは見せたいと思ってた。
ここが、俺の暮らしてる場所だって」
少し照れくさい。
でも、それ以上に伝えたい気持ちが勝った。
リヴは何も言わないまま、
指先で胸元を押さえ、ゆっくりと呼吸を整えた。
沈黙が落ちる。
けれどその沈黙は、怖さではなく――満ちている。
やがて、リヴの長いまつげの端に光が滲んだ。
「……ごめん。本当に怖かったんだよ」
リヴの声は震えていた。
「地球がじゃなくて……」
「うん」
ナオキは続きを待った。
リヴは胸に手を当てたまま、ぎゅっと指を握りしめた。
「もし……ナオキの世界に行って、
ナオキが……いなくなったらって思ったら、
足が動かなかった」
ナオキの息が一瞬止まった。
そんなに不安にさせていたのか。
そんなに自分を信じてくれていたのか。
「ばか。どこにも行かないよ、俺は」
言うと、リヴは小さく笑い、涙を拭った。
その顔は、泣き笑いのようにあたたかい。
「……知ってる。でも……言ってほしかった」
ナオキは一歩近づき、帽子越しにそっと頭に手を置いた。
リヴは目を閉じ、その手に額を預けた。
「言うよ。何度でも言う。
俺はここにいるし、お前を置いて行ったりしない。絶対に」
リヴは胸の奥の震えをゆっくり鎮めるように、
ナオキの手の下で深く息を吸った。
「……来てよかった。
ここ、ナオキの世界……すごくあったかい」
その声は、世界に馴染んでいく魔法みたいに優しかった。




