美咲、違和感の正体に触れる
施術を終えた美咲は、ベッドの端に腰を下ろしたまま、ゆっくりと息をついた。
さっきまで重たかった肩が軽くなり、手首から肘にかけての肌はしっとりと落ち着いている。自分の腕なのに、どこか別物のように柔らかい。乾燥でざらついていた感覚が、薄い膜のように剥がれ落ちて、内側から本来の肌が浮かび上がったようだった。
「……なんか、本当に疲れが飛んだ感じする。肌もすべすべ」
美咲は腕をそっと撫でながらつぶやいた。手首の骨のあたり、カサついていた部分が、いまはしっとりとしている。
「合う人には、相性がいいみたいなんですよ」
ナオキは淡々と答える。
その落ち着いた声が、奇妙なくらい美咲の“気づき”を刺激した。
「そういえば、この前の後輩。ひどい手荒れだった子、覚えてる?」
「ええ。最初は触れただけで手が冷えてましたね」
美咲は苦笑して腕を組む。
「ここ来たあと、あの子、“すごく良くなった”って喜んでたよ。手洗いの回数も多い部署だから、いつもガサガサだったのに」
「冷えが抜けると、皮膚のほうが先に楽になろうとするんでしょうね」
「ふふ。相性がいいって言ってたわよ?」
「そうでしたか。なら……よかったです」
ナオキは変わらない調子で言う。
それがまた、ひどく自然で、嘘の匂いがまったくしない。
美咲はしばらく腕を見つめた。ライトの光を受けた腕は、普段より少し明るく見え、その光を纏ったまま呼吸しているようだった。
「あとね、眠れないって言ってた友人……覚えてる?」
「はい。初めて来た日、かなり緊張していましたね」
「その子、びっくりしてたよ。ここ来てから寝れるようになったって。弱ってる人がよく言うリップサービスとかじゃなくて、本当にって顔してた」
「落ち着けば、眠りも変わるものです」
「……ナオキくんは本当に、特別なことはしてないって言い続けるんだね」
美咲は腕をさすりながら、小さく笑う。
でもその笑みの奥にあるのは、疑いじゃない。むしろ逆だ。
ほぼ確信した人間の目。
ほんのわずかな呼吸の変化や、サロンの空気の柔らかさに、彼女はナオキが思っている以上に敏感だった。
美咲は立ち上がり、袖口を触れながらぽつりとつぶやいた。
「……不思議。本当に、不思議だよ」
言葉はゆっくりと落ちる。
押しつけがましさも、疑いの棘もない。
ただ、ひとりの看護師としての“経験”から導かれた、静かな手応えだけがそこにあった。
美咲が話題を変えるように軽く息を吐くと、指先がそっと自分の腕へ触れた。そこには、さっきオイルを置いただけとは思えないほど、しっとりとした柔らかさが戻っている。
「……ほんとに、不思議なんだよね。ここ来ると、体の深いとこから変わる感じする」
「無理に変えることはしてませんよ。身体が自分で動いてくれるときだけです」
「うん、わかってる。でも……それが一番すごいんだよ?」
美咲の声は、柔らかいのに芯があった。
「だってさ、自分の身体が“戻りたかった場所”に、自然に戻してもらってるみたいなんだよ。無理矢理じゃなくて」
「戻りたい場所、ですか」
「そう。人ってさ、本当は自分で整える力があるんだって思うけど……毎日忙しいと、それを思い出す暇もないじゃない?」
その言葉に、ナオキはうっすらと頷いた。
「だから……こういうそっと思い出させてくれる場所って、ほんと貴重なんだよ」
美咲の微笑みで、サロンの空気が少し明るくなった気がした。
夕方の光が反射し、壁にやわらかい影が揺れている。
「あとね、あの後輩がさ……帰ってからずっと言ってたよ?
“あそこ、なんか変だけど……あったかくなる店でした”って」
「……変なんですか」
「いい意味でね。なんか、優しいけど、どこか普通じゃないって感じ?」
「褒めてるんですよね、それ」
「もちろん。あの子ね、普段あんまり人に弱み見せないんだけど……帰り道、泣いたらしいよ」
「え……」
「なんか、ほっとしたって。心が、ちゃんと呼吸したって」
その言葉を聞いた瞬間、ナオキの胸の奥がわずかに熱を帯びた。
「……よかった、です」
その言葉はとても静かだったが、確かな温度があった。
「あとね——」
美咲は、ほんの少しだけ表情を引き締めた。
「眠れなかった友達の話、覚えてる?
自律神経やられたかもって泣きついてきた子」
「はい。初めてここに来たとき、相当緊張してましたよね」
「そうそう。あの子ね……ここ来た日から“眠れるようになった”の。
もうびっくりよ。私も心底驚いたけど」
「落ち着いたんでしょうね」
「うん。身体も心も、一緒に“休んでいい”って言われたみたいだったって」
それは誇張でなく、救われた人の実感そのものだった。
「ナオキくん、本当に……特別なことはしてないって言い続けるんだね」
「本当にしてないですよ。僕はただ……触れたり、香りを置いたりしてるだけです」
「あー、やっぱり誤魔化してる」
「誤魔化してません」
「してるよ。だってね——」
美咲はゆっくりと立ち上がり、腕を軽く伸ばした。
血色が良くなり、疲れの影が薄れている。
「ここに来る人、みんな同じこと言うんだよ?
“来る前と帰る時で、世界の色が違う”って」
ナオキは返す言葉を失った。
「施術でも、技術でも、刺激でもない。
もっと根っこの部分で……呼吸が戻るって」
それは、否定しても消えない事実のようだった。
「……僕は、ただその日の状態に合わせて……」
「うん、わかってる。あなたはきっと、それ以上言わない」
美咲は責めるでも詮索するでもなく、ただ静かに笑った。
「うん。ここに来て助けられた人たち、みんなね……
“ただのサロンじゃない”って口を揃えて言うんだよ」
胸元を指で押さえながら続ける。
「心の奥がふっと緩む感じ。
助けてもらったってより……“呼吸を返された”みたいな……そんな変な感覚」
「……そう言ってもらえるのは、ありがたいです」
「うん、ありがたがっていいと思うよ? だって実際、助かってるんだから」
そして——。
扉に手をかけた美咲は、ふと動きを止めた。
「……ねぇ、ナオキくん」
呼ばれた瞬間、空気がひとつ張った。
「はい?」
ナオキはタオルを畳む手を止め、顔を向けた。
美咲の目は優しく、そして鋭い。
疑う目ではない。
だが、もう“知っている”目だ。
「前に……夜勤で一緒だった時のこと、覚えてる?」
その言葉が落ちた瞬間、ナオキの指がわずかに止まった。
「……肘の傷のこと、ですか?」
美咲は静かに頷き、肘に指を添えた。
「そう。あの時さ、倒れた患者さんを支えたときに、私、肘ざっくり切ったでしょ?
あの深さなら、普通は数日ズキズキして眠れないのに……」
息を吸い、ゆっくりと言葉を置く。
「あなたが“ちょっとだけ”塗ったあの軟膏……
次の日には痛みが全部なくなって、跡も残ってないの」
サロンの隅で、ガラスがかすかに鳴った気がした。
「……普通じゃないよ。あんなの」
ナオキの胸の奥で、何かが揺れた。
「今日ここでいろんな人を見て……やっと確信したよ」
「……確信、ですか」
美咲は一歩だけ近づき、言葉の芯を真っ直ぐ届ける。
「うん」
「ナオキくん、何かやってるよね?」
追及ではない。
守る側の声だった。
「……僕は何もしてません。ただ……合う人には勝手に変化が出るだけです」
美咲は優しく微笑んだ。
完全に味方の笑みだった。
「大丈夫。怖がらせたいわけじゃないんだよ。ただね——」
言葉を切り、視線を合わせる。
「あなたの秘密、人を助けるほうの秘密でしょ?」
喉の奥で息が鳴る。
否定したかったわけじゃない。ただ、自分からは言えなかっただけだ。
「安心して。あの約束、私はまだちゃんと守ってるよ。
これからも守る。あなたが嫌じゃない限りね」
軽やかに笑って扉へ向かい、振り返る。
「次来たときさ、もうちょっと“その秘密”、見せてよね!」
「……少しだけ、って何なんですか」
「私こう見えてね、好奇心めっちゃ強いんだから。
ナオキくんの“普通じゃない優しさ”、もっと知りたいの!」
美咲は笑いながら外へ消えていった。
扉の閉まる音が遠のき、サロンには“確信の余韻”が漂った。
すべて理解した上で、それでも受け入れてくれた人の、やさしい気配。
(……完全にバレてるのに、少し嬉しいな……)
ナオキは深く息を吐いた。
けれど胸の奥には、ほんのわずかに——信じてもらえた安堵が灯っていた。
窓の外では夕暮れが深まり、街の影が伸び、人の声が沈んでいく。
サロンの中だけが、どこかあたたかな場所のように感じられた。
ナオキは照明を少しだけ落とした。
光と影が柔らかく混ざり合う。
それはまるで異世界の焚き火が鎮まるときの、あの優しい暗がりに似ていた。
「……明日も、誰か来るのかな」
誰に聞かせるでもなくつぶやく。
それだけで、心が少し軽くなる。
特別な力なんて意識しなくていい。
ただそこにいて、必要なときに少しだけ手を貸す。
それくらいが、ちょうどいい。
ランプの光が小さく揺れた。
今日という日にそっと蓋をするように。
サロンの空気は静かに落ち着き、
ナオキの胸の奥にも、穏やかな夜の気配が満ちていった。




