サロン編(5):肌が息をする夕暮れ
午後の光はゆっくりと傾き、サロンの床へ長い影をひとつ落としていた。ナオキは施術台のタオルを整え、窓際に置いた観葉植物の葉をそっと撫でた。一日のうちで最も静かな時間帯だった。
店の前の通りを行き交う人の声も遠く、空気が落ち着きはじめる浅い夕暮れ。ナオキはこの時間に扉が開く音を聞くたび、少しだけ身構える。朝や昼にふらりと訪れる人とは違い、夕方に来る人は、だいたい何かを迷い続けたあとでここにたどり着くからだ。
扉の上のベルが揺れ、かすかな音が店内に落ちた。
入ってきたのは二十代後半ほどの女性だった。
痩せすぎてはいないが、頬のあたりに疲れが滲んで見える。
マスクを外すと、赤く荒れた跡が首元へ続いているのがわかった。
「すみません……」
彼女は小さく頭を下げた。
声は細いが、丁寧な響きがあった。
ナオキはゆったりと笑みを返し、受付へ案内した。
「どうぞ、無理なさらずに。ゆっくりで大丈夫ですよ」
そのひと言で、女性の肩からほんのわずかに力が抜けたように見えた。
(こんなに緊張していたなんて……)
彼女自身、気づいていなかったのかもしれない。
問診のような会話を静かに続けていくと、いくつもの事情が浮かび上がった。
半年ほど前から仕事が忙しくなり、出勤時間も早まった。
睡眠は浅く、休日は疲れて動けず、食事も簡単なもので済ませてしまう。
「化粧品が合わなくなってしまって……」
「皮膚科にも行ったのですが、薬が強すぎて逆に悪くなる日があって……」
鏡を見るのがつらく、朝に泣きそうになる日もあるという。
それでも、彼女は大げさに語らない人だった。
ただ事実を並べ、時折、言葉を選ぶように黙り込む。
「自分だけ、こんなふうになってしまった気がして……」
最後のひと言は、掠れるように落ちた。
ナオキは深くうなずいた。
「つらかったですね。よく来てくれました」
その声に、女性の瞳が揺れた。
涙ではないが、涙の手前の感情が浮かんでくる。
(そんなふうに言われたの、久しぶりだ……)
施術台へ案内し、タオルをそっとかける。
室内には微かなハーブの香りが漂い、深呼吸すると胸の緊張がほどけていく。
「では、負担をかけないように進めますね。痛みがあれば教えてください」
女性は小さくうなずいた。
ナオキは薬草軟膏の蓋を開け、指先にほんの少しだけ取った。
「まずは表面の傷が落ち着くように、ここから触れていきますね」
指先でごく薄く伸ばし、頬の赤みが強い部分へそっと触れた。
触れた瞬間、女性の身体が小さく震えた。
「大丈夫ですか? しみませんか?」
「い、いえ……しみるんじゃなくて……軽くなったような……」
言葉の途中で自分でも驚いたように声が揺れた。
(こんな感覚、最近一度もなかった……)
ナオキは手を止めず、荒れている部分を中心に静かに圧を変えていく。
肌の硬さ、温度、その奥の緊張を確かめながら、必要以上に動かさない。
軟膏が馴染むほどに、赤みの輪郭がゆるやかに溶けていった。
続けて、太陽の小花軟膏を指先にわずかだけ取る。
「今度は中のこわばりに効くものです。少量だけ使いますね」
頬の下、顎のライン、こめかみ。
触れたところは見た目以上に固く、冷たかった。
女性ははっきりと呼吸を深くし始めた。
その変化を自分でも感じたのか、小さく息を呑む。
「あの……さっきより温かくて……」
「中の方が、ゆっくり動いている感じがします」
「いい反応ですよ。緊張が強かったところがほどけてきているんだと思います」
(私の身体、こんなふうに反応するんだ……)
ナオキの声は施術の流れを乱さないように静かだった。
この世界特有の薬草成分の効果もあるが、彼の手のひらそのものが柔らかい温度を持っている。
安心がじんわりと肌に染み込んでいくようだった。
次に月の雫を手のひらに広げ、人肌まで温める。
「乾燥しているところへ、水分が入るように馴染ませていきますね」
顔全体へ薄く伸ばすと、女性は自然と目を閉じた。
頬の緊張が静かにほどけていき、荒れていた部分へしっとりとした感触が戻る。
(息がこんなに楽に吸えるなんて……)
胸の奥に長く渦巻いていた重さが、少しずつ溶けていく。
仕上げに美肌オイルを指先に一滴だけ取り、乾燥しやすい場所へそっと置くように馴染ませる。
「これは少量で十分です。仕上げに呼吸を整えるような役割があります」
指先をすべらせるたびに、肌がゆっくりと呼吸するように落ち着いた。
ナオキは薄い手鏡を手渡した。
「確認してみてください。無理に触らなくても大丈夫ですよ」
女性は鏡を受け取り、そっと顔を映す。
次の瞬間、息が止まった。
「……こんなに……変わるなんて……」
「痛くない……触っても怖くない……最近はずっと……」
声は震えていたが、そこにあるのは恐れではなく、深い安堵だった。
ナオキは優しくうなずいた。
「相性が良かったんですね。今日のあなたの肌が、しっかり応えてくれたんだと思います」
その言葉に、女性の眉がふわりと揺れた。
(私の肌が……応えてくれた……)
数ヶ月の苦しさが、少しだけ報われた気がした。
「今日はゆっくり休んでください。無理に化粧はしないほうが良いです」
「身体を温めて、水分も少し多めに取ってあげてくださいね」
「……はい。本当に……ありがとうございます」
帰る直前、女性は深く頭を下げた。
先ほどより穏やかな色が頬に戻り、目元には小さな光が宿っていた。
サロンを出た瞬間、夕暮れの風が頬をかすめた。
いつもならそのわずかな刺激だけで、思わず顔をしかめてしまうほど痛んだ。
だがその日は違った。
冷たい風が触れても、肌の奥にあった鋭い熱が暴れず、ただ静かに受け止めてくれる。
(……痛くない)
胸の奥がふっと温かくなった。
襟元へ落ちる髪が揺れて頬に触れても、反射的に身を縮める必要がない。
その当たり前のことが、今は嬉しくてたまらなかった。
家に着き、玄関の灯りをつける。
靴を脱いでから、しばらくその場で立ち止まった。
心のどこかが、さっきの変化をまだ信じ切れていない。
(本当に、変わっているのかな……)
ゆっくりと洗面台へ向かい、鏡の前に立つ。
そっと視線を上げた。
その瞬間、息が漏れた。
肌の赤みは完全ではないが、輪郭が柔らかくなり、表面の荒れが穏やかになっていた。
光を含んだように見えるその肌は、数時間前の自分とは別人のようだった。
恐る恐る頬に触れる。
指先が動いても痛みがない。
「……ほんとに……」
自分に向けた確認のような声がこぼれた。
(触れるのが……怖くない……)
胸が熱くなり、視界が少し揺れた。
泣くというより、押し込んでいた不安がほどけていく。
夕食を軽く済ませると、机に向かった。
肌荒れで伏し目がちだった日が続いていたせいか、ただ机に座るだけでも心が前を向いた。
(明日……ちゃんと行けるかもしれない)
そんな気持ちが芽生えたのは久しぶりだった。
眠る前にもう一度鏡を見る。
頬の色も、目元の雰囲気も、わずかに柔らかい。
「……大丈夫そう」
そのひと言が、自分への許しになった。
布団に入り、頬を枕へ預ける。
いつもは痛みを避けるため時間をかけていたが、今日はどの角度でも平気だった。
(すごい……痛くない……)
ゆっくりと呼吸が深まり、身体の奥から温かさが広がった。
明日も頑張れるかもしれない。
そのささやかな予感にそっと触れながら、彼女は静かに眠りへ沈んでいった。




