表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32型テレビが繋g...(略)~手取り15万、現代物資(10秒制限)で成り上がる~  作者: ひろボ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

61/156

サロン編(5):肌が息をする夕暮れ

 午後の光はゆっくりと傾き、サロンの床へ長い影をひとつ落としていた。ナオキは施術台のタオルを整え、窓際に置いた観葉植物の葉をそっと撫でた。一日のうちで最も静かな時間帯だった。


 店の前の通りを行き交う人の声も遠く、空気が落ち着きはじめる浅い夕暮れ。ナオキはこの時間に扉が開く音を聞くたび、少しだけ身構える。朝や昼にふらりと訪れる人とは違い、夕方に来る人は、だいたい何かを迷い続けたあとでここにたどり着くからだ。


 扉の上のベルが揺れ、かすかな音が店内に落ちた。


 入ってきたのは二十代後半ほどの女性だった。

 痩せすぎてはいないが、頬のあたりに疲れが滲んで見える。

 マスクを外すと、赤く荒れた跡が首元へ続いているのがわかった。


「すみません……」


 彼女は小さく頭を下げた。

 声は細いが、丁寧な響きがあった。


 ナオキはゆったりと笑みを返し、受付へ案内した。

「どうぞ、無理なさらずに。ゆっくりで大丈夫ですよ」


 そのひと言で、女性の肩からほんのわずかに力が抜けたように見えた。

 (こんなに緊張していたなんて……)

 彼女自身、気づいていなかったのかもしれない。


 問診のような会話を静かに続けていくと、いくつもの事情が浮かび上がった。

 半年ほど前から仕事が忙しくなり、出勤時間も早まった。

 睡眠は浅く、休日は疲れて動けず、食事も簡単なもので済ませてしまう。


「化粧品が合わなくなってしまって……」

「皮膚科にも行ったのですが、薬が強すぎて逆に悪くなる日があって……」


 鏡を見るのがつらく、朝に泣きそうになる日もあるという。


 それでも、彼女は大げさに語らない人だった。

 ただ事実を並べ、時折、言葉を選ぶように黙り込む。


「自分だけ、こんなふうになってしまった気がして……」


 最後のひと言は、掠れるように落ちた。


 ナオキは深くうなずいた。

「つらかったですね。よく来てくれました」


 その声に、女性の瞳が揺れた。

 涙ではないが、涙の手前の感情が浮かんでくる。

 (そんなふうに言われたの、久しぶりだ……)


 施術台へ案内し、タオルをそっとかける。

 室内には微かなハーブの香りが漂い、深呼吸すると胸の緊張がほどけていく。


「では、負担をかけないように進めますね。痛みがあれば教えてください」


 女性は小さくうなずいた。


 ナオキは薬草軟膏の蓋を開け、指先にほんの少しだけ取った。

「まずは表面の傷が落ち着くように、ここから触れていきますね」


 指先でごく薄く伸ばし、頬の赤みが強い部分へそっと触れた。

 触れた瞬間、女性の身体が小さく震えた。


「大丈夫ですか? しみませんか?」


「い、いえ……しみるんじゃなくて……軽くなったような……」


 言葉の途中で自分でも驚いたように声が揺れた。

 (こんな感覚、最近一度もなかった……)


 ナオキは手を止めず、荒れている部分を中心に静かに圧を変えていく。

 肌の硬さ、温度、その奥の緊張を確かめながら、必要以上に動かさない。

 軟膏が馴染むほどに、赤みの輪郭がゆるやかに溶けていった。


 続けて、太陽の小花軟膏を指先にわずかだけ取る。

「今度は中のこわばりに効くものです。少量だけ使いますね」


 頬の下、顎のライン、こめかみ。

 触れたところは見た目以上に固く、冷たかった。


 女性ははっきりと呼吸を深くし始めた。

 その変化を自分でも感じたのか、小さく息を呑む。


「あの……さっきより温かくて……」

「中の方が、ゆっくり動いている感じがします」


「いい反応ですよ。緊張が強かったところがほどけてきているんだと思います」


 (私の身体、こんなふうに反応するんだ……)


 ナオキの声は施術の流れを乱さないように静かだった。

 この世界特有の薬草成分の効果もあるが、彼の手のひらそのものが柔らかい温度を持っている。

 安心がじんわりと肌に染み込んでいくようだった。


 次に月の雫を手のひらに広げ、人肌まで温める。

「乾燥しているところへ、水分が入るように馴染ませていきますね」


 顔全体へ薄く伸ばすと、女性は自然と目を閉じた。

 頬の緊張が静かにほどけていき、荒れていた部分へしっとりとした感触が戻る。


 (息がこんなに楽に吸えるなんて……)


 胸の奥に長く渦巻いていた重さが、少しずつ溶けていく。


 仕上げに美肌オイルを指先に一滴だけ取り、乾燥しやすい場所へそっと置くように馴染ませる。

「これは少量で十分です。仕上げに呼吸を整えるような役割があります」


 指先をすべらせるたびに、肌がゆっくりと呼吸するように落ち着いた。


 ナオキは薄い手鏡を手渡した。

「確認してみてください。無理に触らなくても大丈夫ですよ」


 女性は鏡を受け取り、そっと顔を映す。

 次の瞬間、息が止まった。


「……こんなに……変わるなんて……」

「痛くない……触っても怖くない……最近はずっと……」


 声は震えていたが、そこにあるのは恐れではなく、深い安堵だった。


 ナオキは優しくうなずいた。

「相性が良かったんですね。今日のあなたの肌が、しっかり応えてくれたんだと思います」


 その言葉に、女性の眉がふわりと揺れた。

 (私の肌が……応えてくれた……)


 数ヶ月の苦しさが、少しだけ報われた気がした。


「今日はゆっくり休んでください。無理に化粧はしないほうが良いです」

「身体を温めて、水分も少し多めに取ってあげてくださいね」


「……はい。本当に……ありがとうございます」


 帰る直前、女性は深く頭を下げた。

 先ほどより穏やかな色が頬に戻り、目元には小さな光が宿っていた。






 サロンを出た瞬間、夕暮れの風が頬をかすめた。

 いつもならそのわずかな刺激だけで、思わず顔をしかめてしまうほど痛んだ。

 だがその日は違った。


 冷たい風が触れても、肌の奥にあった鋭い熱が暴れず、ただ静かに受け止めてくれる。

 (……痛くない)


 胸の奥がふっと温かくなった。

 襟元へ落ちる髪が揺れて頬に触れても、反射的に身を縮める必要がない。

 その当たり前のことが、今は嬉しくてたまらなかった。


 家に着き、玄関の灯りをつける。

 靴を脱いでから、しばらくその場で立ち止まった。

 心のどこかが、さっきの変化をまだ信じ切れていない。


 (本当に、変わっているのかな……)


 ゆっくりと洗面台へ向かい、鏡の前に立つ。

 そっと視線を上げた。


 その瞬間、息が漏れた。


 肌の赤みは完全ではないが、輪郭が柔らかくなり、表面の荒れが穏やかになっていた。

 光を含んだように見えるその肌は、数時間前の自分とは別人のようだった。


 恐る恐る頬に触れる。

 指先が動いても痛みがない。


「……ほんとに……」


 自分に向けた確認のような声がこぼれた。

 (触れるのが……怖くない……)


 胸が熱くなり、視界が少し揺れた。

 泣くというより、押し込んでいた不安がほどけていく。


 夕食を軽く済ませると、机に向かった。

 肌荒れで伏し目がちだった日が続いていたせいか、ただ机に座るだけでも心が前を向いた。


 (明日……ちゃんと行けるかもしれない)


 そんな気持ちが芽生えたのは久しぶりだった。


 眠る前にもう一度鏡を見る。

 頬の色も、目元の雰囲気も、わずかに柔らかい。


「……大丈夫そう」


 そのひと言が、自分への許しになった。


 布団に入り、頬を枕へ預ける。

 いつもは痛みを避けるため時間をかけていたが、今日はどの角度でも平気だった。

 (すごい……痛くない……)


 ゆっくりと呼吸が深まり、身体の奥から温かさが広がった。


 明日も頑張れるかもしれない。

 そのささやかな予感にそっと触れながら、彼女は静かに眠りへ沈んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ