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32型テレビが繋g...(略)~手取り15万、現代物資(10秒制限)で成り上がる~  作者: ひろボ


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サロン編(4):呼吸の糸をほどく午後

 扉がそっと開いた。


 入ってきたのはスーツ姿の男性だった。三十代の前半か半ばだろう。整えられた髪、きちんと締められたネクタイ。だが、その整いとは裏腹に、肩の線は沈み、足取りは重い。目の奥にだけ、言葉にできない疲れが濃く宿っていた。


「どうぞ、こちらに」


 ナオキはゆっくりとティーカップを差し出した。淡い湯気が揺れ、キノコ茶の優しい香りが立ちのぼる。森で飲むものより香りは弱いが、息を深く落とすような清さがあった。


 午後のサロンには、雨上がりの名残が薄く漂っていた。窓の外のアスファルトはところどころ濡れていて、光を受けるたびに鈍く輝く。その反射が窓際の小瓶に触れ、瓶の中の液体をそっと揺らす。昼と夕方の境目にある、静かな呼吸のような時間の中で、男の肩だけが不自然にこわばっていた。


 男性はカップを受け取り、一口含んだ。

 その温度が喉を通った瞬間、肩がわずかに下がったように見えた。

 固く握りしめていたものが、そっと解けるような、小さな変化。


「……すみません。今日は、ちょっと……何も考えられなくて」


「考えなくて大丈夫ですよ。座っているだけで十分ゆっくりしますから」


 男はソファに身体を預けた。

 沈み込むように座るその姿には、深い息を忘れてしまった者特有の疲れがあった。


 その一瞬の変化を、ナオキは見逃さなかった。

 胸がほとんど動いていない。

 息を吸う入口が固まり、肩だけで浅く呼吸をしている。

 身体の奥が限界を越えると、人は空気にすら怯えるように、息の道を細くしてしまう。


 ナオキは棚から小瓶を選び、静かに蓋を開けた。

 眠り草をごく薄く調えた香油だ。

 眠りを誘うほど強くはなく、けれど深い息を呼ぶには十分な柔らかさがある。


 瓶をわずかに傾けると、香りがひと滴だけ空気へ広がった。

 夕方へ向かう気配の中、その香りが部屋に溶け込み、空気を静かに整えていく。


「少しだけ背中、触りますね。押したりはしません」


「……はい」


 返事ともため息ともつかない声。

 身体の芯の疲れが、その一音に滲んでいた。


 ナオキは肩甲骨の少し下へ、そっと手のひらを置いた。

 押さず、揉まず、ただ存在だけを置くように。

 手のひらの温度をゆっくり預け、焦らせず、急かさず、

 “ここにいていい” と静かに知らせる触れ方だった。


 しばらくすると、男の喉の奥で、小さな息がほどけた。


「……あれ……」


 その声は、自分でも驚いたような響きだった。

 香りが胸の奥へ落ちていき、固まっていた筋肉がふっと力を手放す。


 意思とは無関係に、深い呼吸がひとつ落ちた。


「止めなくて大丈夫ですよ。自然に動き出しますから」


 その声と同時に、背中がゆっくり上下した。

 閉じていたものが、ようやく動き始めた証だった。


「……胸が広がりますね。さっきまで鉄板みたいで……」


「疲れが続くと、息の道が固くなります。無理にほぐすより、動きを待つほうが早いですよ」


 男はゆっくり首を回し、肩を回した。

 その動きの途中で、ふっと目を瞬き、驚いたように息を吸う。


「え……軽い……寝たわけでもないのに、頭がぼんやりしない……」


「息が入ると、身体の質そのものが変わりますからね」


「……今日、来てよかった……」


 その声は胸の奥に積もった重さが、外へ少し流れ出たときにしか出ない音だった。


「今日はここまでにしておきましょう。深く触れすぎると戻りやすくなりますので」


「……はい。十分です」


 立ち上がった男は、入店したときと同じスーツ姿なのに、まるで別人のように見えた。

 疲れはまだ残っている。

 けれど、まとわりついていた重さがどこかに置かれたようで、動きがわずかに軽い。

 目線も、肩の高さも、ほんの少し戻っていた。


 扉を開けると、外には雨上がりの光が残っていた。

 男は小さく会釈し、ゆっくり階段を降りていった。


 扉が閉じると、サロンには再び静けさが満ちた。

 けれど、さっきまで人がいた余韻だけは空気に静かに残っていた。

 キノコ茶の名残り香と、眠り草の薄い香り。

 二つが混ざり合い、呼吸が戻っていった時間をそっと思い返させる。


 ナオキは小瓶の蓋を閉め、棚へ戻した。

 指先に残る香りを確かめるように、深く息を吸う。


(……少しでも軽くなって帰れたなら、それでいい)


 そのつぶやきは、誰かに聞かせるためのものではなく、

 ただ流れる時間へ溶けていくような静かな声だった。


 クッションを整え、コースターをまっすぐ置き直し、タオルを畳む。

 外では雲がゆっくりと流れ、雨上がりの光が街を照らしていた。

 森とは違う、都会の控えめな風が窓をかすめる。


 アロマランプの灯りが壁へ揺れる影を落とす。

 棚には昼の名残が少しだけ光を返していた。


 特別なことはしていない。

 押していない、揉んでもいない。

 ただ手のひらを置いただけ。


 それでも人は、あのわずかな温度で呼吸を取り戻す。

 その光景は、いつ見ても胸に静かに沁みる。


(今日も誰かの呼吸が戻ってくれたなら、それだけで十分だ)


 照明を落とし、深く息を吸う。

 雨上がりの静けさと、ほんの少しのあたたかさがサロンに溶けていく。

 午後から夕方へ移ろう時間の中、そのわずかな呼吸の変化が、今日の輪郭を静かに整えていた。






 階段を下りると、雨上がりの匂いが鼻をかすめた。

 昼よりも少し湿った空気。

 けれど胸の奥は、ついさっきまでとはまるで違っていた。


(……息、吸えるな)


 普段気にもしない呼吸が、今は頼もしい。

 胸の奥の固まりがほどけるだけで、世界がこんなにも違うのかと驚かされる。


 コンビニの前を通り過ぎるとき、足が自然に止まった。

 仕事帰りには寄る余裕もなかった場所。

 強い蛍光灯の光は、いつも刺すように痛かった。


 けれど今日は違う。


 白い光が、やけに柔らかい。

 胸の締めつけが弱いだけで、視界の硬ささえほどけていく。


 スープを買い、温かさを掌に感じながら歩き出す。

 ひと口飲むと、胃の奥に静かな熱が落ちていった。


(……こんなに落ち着くの、いつ以来だろう)


 帰宅してスーツを脱ぐと、肩が軽くなっていることに気づいた。

 シャワーを浴びると、背中へじんわり温度が広がる。

 さっき手を置かれた場所が、まだ柔らかく息づいているようだった。


(呼吸が……戻ってる)


 そう思う自分が少し不思議で、

 けれど悪くはなかった。


 仕事道具を置き、いつもならそのまま倒れ込むところだが、

 今日は少しだけ余裕がある。


 窓を開けると、夜風が胸へ通り抜けていった。

 その感覚が懐かしくて、瞼を静かに閉じる。


 イスに座り、深く息を吸う。

 肺の奥へ風が落ちていく感覚が、久しぶりに自然だった。


(……なんだ、できるんだ)


 その小さな実感が、胸の奥にひっそり温度を灯した。


 夜食を軽く取ってから布団に横になる。

 背中が沈む感覚が、今日は苦しくない。

 呼吸が身体を包み込むように、ゆっくり深く落ちていく。


(疲れが消えたわけじゃないけど……)

(……でも、ちゃんと眠れそうだ)


 目を閉じると、サロンの薄い香りがふっとよみがえった。

 眠り草のやわらかな香りと、背中に触れた手のひらの温度。


 そのまま静かな闇が、そっと迎え入れてくれた。

 久しぶりに、深く長い眠りだった。

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