サロン編(4):呼吸の糸をほどく午後
扉がそっと開いた。
入ってきたのはスーツ姿の男性だった。三十代の前半か半ばだろう。整えられた髪、きちんと締められたネクタイ。だが、その整いとは裏腹に、肩の線は沈み、足取りは重い。目の奥にだけ、言葉にできない疲れが濃く宿っていた。
「どうぞ、こちらに」
ナオキはゆっくりとティーカップを差し出した。淡い湯気が揺れ、キノコ茶の優しい香りが立ちのぼる。森で飲むものより香りは弱いが、息を深く落とすような清さがあった。
午後のサロンには、雨上がりの名残が薄く漂っていた。窓の外のアスファルトはところどころ濡れていて、光を受けるたびに鈍く輝く。その反射が窓際の小瓶に触れ、瓶の中の液体をそっと揺らす。昼と夕方の境目にある、静かな呼吸のような時間の中で、男の肩だけが不自然にこわばっていた。
男性はカップを受け取り、一口含んだ。
その温度が喉を通った瞬間、肩がわずかに下がったように見えた。
固く握りしめていたものが、そっと解けるような、小さな変化。
「……すみません。今日は、ちょっと……何も考えられなくて」
「考えなくて大丈夫ですよ。座っているだけで十分ゆっくりしますから」
男はソファに身体を預けた。
沈み込むように座るその姿には、深い息を忘れてしまった者特有の疲れがあった。
その一瞬の変化を、ナオキは見逃さなかった。
胸がほとんど動いていない。
息を吸う入口が固まり、肩だけで浅く呼吸をしている。
身体の奥が限界を越えると、人は空気にすら怯えるように、息の道を細くしてしまう。
ナオキは棚から小瓶を選び、静かに蓋を開けた。
眠り草をごく薄く調えた香油だ。
眠りを誘うほど強くはなく、けれど深い息を呼ぶには十分な柔らかさがある。
瓶をわずかに傾けると、香りがひと滴だけ空気へ広がった。
夕方へ向かう気配の中、その香りが部屋に溶け込み、空気を静かに整えていく。
「少しだけ背中、触りますね。押したりはしません」
「……はい」
返事ともため息ともつかない声。
身体の芯の疲れが、その一音に滲んでいた。
ナオキは肩甲骨の少し下へ、そっと手のひらを置いた。
押さず、揉まず、ただ存在だけを置くように。
手のひらの温度をゆっくり預け、焦らせず、急かさず、
“ここにいていい” と静かに知らせる触れ方だった。
しばらくすると、男の喉の奥で、小さな息がほどけた。
「……あれ……」
その声は、自分でも驚いたような響きだった。
香りが胸の奥へ落ちていき、固まっていた筋肉がふっと力を手放す。
意思とは無関係に、深い呼吸がひとつ落ちた。
「止めなくて大丈夫ですよ。自然に動き出しますから」
その声と同時に、背中がゆっくり上下した。
閉じていたものが、ようやく動き始めた証だった。
「……胸が広がりますね。さっきまで鉄板みたいで……」
「疲れが続くと、息の道が固くなります。無理にほぐすより、動きを待つほうが早いですよ」
男はゆっくり首を回し、肩を回した。
その動きの途中で、ふっと目を瞬き、驚いたように息を吸う。
「え……軽い……寝たわけでもないのに、頭がぼんやりしない……」
「息が入ると、身体の質そのものが変わりますからね」
「……今日、来てよかった……」
その声は胸の奥に積もった重さが、外へ少し流れ出たときにしか出ない音だった。
「今日はここまでにしておきましょう。深く触れすぎると戻りやすくなりますので」
「……はい。十分です」
立ち上がった男は、入店したときと同じスーツ姿なのに、まるで別人のように見えた。
疲れはまだ残っている。
けれど、まとわりついていた重さがどこかに置かれたようで、動きがわずかに軽い。
目線も、肩の高さも、ほんの少し戻っていた。
扉を開けると、外には雨上がりの光が残っていた。
男は小さく会釈し、ゆっくり階段を降りていった。
扉が閉じると、サロンには再び静けさが満ちた。
けれど、さっきまで人がいた余韻だけは空気に静かに残っていた。
キノコ茶の名残り香と、眠り草の薄い香り。
二つが混ざり合い、呼吸が戻っていった時間をそっと思い返させる。
ナオキは小瓶の蓋を閉め、棚へ戻した。
指先に残る香りを確かめるように、深く息を吸う。
(……少しでも軽くなって帰れたなら、それでいい)
そのつぶやきは、誰かに聞かせるためのものではなく、
ただ流れる時間へ溶けていくような静かな声だった。
クッションを整え、コースターをまっすぐ置き直し、タオルを畳む。
外では雲がゆっくりと流れ、雨上がりの光が街を照らしていた。
森とは違う、都会の控えめな風が窓をかすめる。
アロマランプの灯りが壁へ揺れる影を落とす。
棚には昼の名残が少しだけ光を返していた。
特別なことはしていない。
押していない、揉んでもいない。
ただ手のひらを置いただけ。
それでも人は、あのわずかな温度で呼吸を取り戻す。
その光景は、いつ見ても胸に静かに沁みる。
(今日も誰かの呼吸が戻ってくれたなら、それだけで十分だ)
照明を落とし、深く息を吸う。
雨上がりの静けさと、ほんの少しのあたたかさがサロンに溶けていく。
午後から夕方へ移ろう時間の中、そのわずかな呼吸の変化が、今日の輪郭を静かに整えていた。
階段を下りると、雨上がりの匂いが鼻をかすめた。
昼よりも少し湿った空気。
けれど胸の奥は、ついさっきまでとはまるで違っていた。
(……息、吸えるな)
普段気にもしない呼吸が、今は頼もしい。
胸の奥の固まりがほどけるだけで、世界がこんなにも違うのかと驚かされる。
コンビニの前を通り過ぎるとき、足が自然に止まった。
仕事帰りには寄る余裕もなかった場所。
強い蛍光灯の光は、いつも刺すように痛かった。
けれど今日は違う。
白い光が、やけに柔らかい。
胸の締めつけが弱いだけで、視界の硬ささえほどけていく。
スープを買い、温かさを掌に感じながら歩き出す。
ひと口飲むと、胃の奥に静かな熱が落ちていった。
(……こんなに落ち着くの、いつ以来だろう)
帰宅してスーツを脱ぐと、肩が軽くなっていることに気づいた。
シャワーを浴びると、背中へじんわり温度が広がる。
さっき手を置かれた場所が、まだ柔らかく息づいているようだった。
(呼吸が……戻ってる)
そう思う自分が少し不思議で、
けれど悪くはなかった。
仕事道具を置き、いつもならそのまま倒れ込むところだが、
今日は少しだけ余裕がある。
窓を開けると、夜風が胸へ通り抜けていった。
その感覚が懐かしくて、瞼を静かに閉じる。
イスに座り、深く息を吸う。
肺の奥へ風が落ちていく感覚が、久しぶりに自然だった。
(……なんだ、できるんだ)
その小さな実感が、胸の奥にひっそり温度を灯した。
夜食を軽く取ってから布団に横になる。
背中が沈む感覚が、今日は苦しくない。
呼吸が身体を包み込むように、ゆっくり深く落ちていく。
(疲れが消えたわけじゃないけど……)
(……でも、ちゃんと眠れそうだ)
目を閉じると、サロンの薄い香りがふっとよみがえった。
眠り草のやわらかな香りと、背中に触れた手のひらの温度。
そのまま静かな闇が、そっと迎え入れてくれた。
久しぶりに、深く長い眠りだった。




