第6話:乾いた土とリヴという名
少女を拠点に保護して一夜が明けた。
ピピピピ、ピピピピ……
ナオキは『32型』を通り、アパート側で鳴り響くスマホのアラームを止めた。午前6時。見慣れた6畳ワンルームの天井。だが、今日はいつもと違う。早番のシフトが入っている日だ。
(仕事……行かないと)
無断欠勤はクビになるかもしれない。手取り15万の生活で、それは死を意味する。
だが、ナオキの頭には、テレビの向こう側で眠る少女の姿が焼き付いていた。
(……ダメだ、行けない)
彼は目の前の怪我人を放置するという選択肢はナオキにはなかった。
彼は意を決し、スマホで職場に電話をかけた。
「あ……すみません、柏木です。昨夜から急に熱が出て……はい、38度5分あります。動けません。すみません、ちょっと動けそうになくて……はい、はい……。ご迷惑おかけします……」
あっさりと電話は切れた。
ナオキは大きなため息をついた。
ズル休みだという罪悪感と、バレた時の恐怖が押し寄せる。
だが、彼は頭を振った。
(いや、今は彼女が先だ)
ナオキはこれで手に入れた数日間の「猶予」を胸に、再び『32型』の向こう側、拠点へと戻った。
ウロの中は、ランタンの光でぼんやりと明るい。
ベッドの上で目を覚ましていた少女は、ナオキが壁から現れたのを見て、肩がビクッと震える。
その目は、昨日からの「警戒」と、壁抜けを見た「恐怖」で、ナオキの一挙手一投足を監視していた。
ナオキは距離を保ったまま、ジェスチャーで「傷を見る」と伝えた。
バックパックから100均のポーチを取り出し、使い捨てのゴム手袋を装着する。
少女は身構えたが、ナオキが武器に一切触れないのを見て、おそるおそる、包帯が巻かれた足を差し出した。抵抗はしない、という意思表示らしい。
ナオキは手際よく「綺麗な布」を剥がす。
傷口はまだ赤いが、昨夜のような酷い熱感は少し引いていた。
彼はアパートの水道水をペットボトルからかけ流し、傷を再び洗浄する。
少女は冷たい水と軟膏の感触に顔をしかめたが、暴れはしなかった。
ナオキは新しいガーゼに交換し、包帯を巻き直した。
少女は、ナオキが治療以外の行動を一切せず、淡々と世話を終えると、すぐにブルーシートの自分の陣地に戻る姿を、ただじっと見つめていた。
彼女の視線から、敵意がわずかに薄れ、純粋な監視に変わっていくのをナオキは感じた。
(私が眠っている間、こいつは私を殺すことも、手篭めにすることもできたはずだ。なのに、こいつはしなかった)
少女のナオキに対する感情は、純粋な警戒から、恐怖と戸惑いが入り混じった複雑なものへと変わっていた。
昼過ぎになった。
ナオキは温めたレトルトのお粥を少女に渡し、自分も腹が減ったので、バックパックから「カロリーブロック(チョコ味)」を取り出した。
銀色の袋をバリバリと破る。
少女は、ナオキが取り出した「奇妙な乾いた土ブロック」のようなものを、訝しげに見ていた。
ナオキがそれを平然と口に運び、咀嚼するのを見て、彼女はさらに眉をひそめる。
ナオキは、もう一本のカロリーブロックを袋から取り出し、半分に折ると、彼女に向かって差し出した。「食え」とジェスチャーする。
少女は警戒した。
しかし、昨日食べた「お粥」という不思議な食べ物に毒はなかった。彼女は差し出された「乾いた土」を受け取り、恐る恐る口に運ぶ。
そして、小さくかじった。
次の瞬間、少女の目が、カッと見開かれた。
(……甘い!?)
森の木の実や干し肉とは比べものにならない、強烈な甘味。少量でも腹にずっしりたまる。
少女は衝撃で目を見開き、無言のまま口に運んだ半分を、あっという間にかじり尽くした。
彼女のナオキに対する感情は、「恐怖」と「畏怖」で塗り固められていった。
少女がカロリーブロックの衝撃から立ち直れない中、ナオキは、今がチャンスだと判断した。コミュニケーションの次のステップに進む時だ。
彼はまず、自分自身の胸を、人差し指でトントンと叩いた。
そして、少女の目を見つめ、ゆっくりと発音する。
「ナ・オ・キ」
彼はもう一度、自分を指差し、「ナオキ」と繰り返した。
ナオキは、今度は少女を指差し、首をかしげて「君は?」という仕草をした。
少女はナオキのジェスチャーの意味を理解したようだった。
彼は「ナオキ」と名乗った。そして、自分の名前を尋ねている。
(この男に名前を教えるべきか? でも……)
長い沈黙の後。
少女は意を決したように、小さく震える指で、自分自身を指差した。
そして、か細い、だが芯のある声で呟いた。
「……リヴ」




