サロン編(3):腰をさする風の午後
ナオキは施術ベッドの高さを一段だけ下げ、腰の位置を確かめるように自分の手を当ててみた。長く立ちっぱなしでいる人の重さが、どこに溜まりやすいかを思い浮かべながら、タオルのしわを丁寧に伸ばす。
控えめなドアベルが鳴き、細い金属音が空気にひとつだけ落ちた。
顔を上げると、制服姿の女性が立っていた。名札の端には、擦れた文字で病院名が見える。笑おうとしているのに、その指先は無意識に腰のあたりをさすっていた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、楽な姿勢で入ってきてください」
声をかけると、彼女は「すみません」と小さく頭を下げた。そのまま一歩動くたびに、動きがほんのわずか止まる。足は前に出したいのに、腰が「待って」と言っているような歩き方だった。
「すみません……坂木です」
名乗る声は、小さくてもよく通った。ただ、その奥にある疲れの深さまでは隠しきれていなかった。
扉の向こうにいた女性は、第一声だけで疲れの深さが伝わってきた。
髪はきちんと結われているのに、目の下には影が落ちている。
肩の高さは左右でわずかに違い、エプロンバッグの紐が食い込んでいた。
歩幅は小さく、足取りは重い。
身体のどこかが悲鳴を上げているのが、扉を開けた瞬間にわかった。
「いらっしゃいませ。まずは、こちらをどうぞ」
ナオキは温かいキノコ茶を注いで差し出した。
きのこの香りは強くなく、代わりにほのかに甘い土の匂いが立つ。
森で飲んだ安心感を、そのまま薄めて優しくしたような茶だった。
「強い香りじゃないので、飲みやすいと思います。
疲れているときには、重たい香りがしんどいですから」
カップを受け取った女性は、一度まばたきし、湯気をゆっくり吸い込んだ。
「……軽い。こういうの、嬉しいですね」
「良かったです。無理なく飲めるものが、いちばんですから」
その一言に、女性の肩がすっと下がった。
安心は、ほんの一滴でも胸の奥に落ちれば姿勢を変える。
彼女は椅子へ腰を下ろし、カップを両手で包み込んだ。
緊張はまだあるが、呼吸の深さが少し戻っていた。
「横にならなくても大丈夫です。今日は座ったままのほうが落ち着きやすい気がします」
「……わかるんですね。寝ちゃうと逆に疲れが戻るときがあるんです」
女性は腰に手を当てた。
長い痛みに慣れた人の仕草だった。
「腰……つらいんですね?」
「ええ……今日は何人も抱え上げないといけなくて。もう腰が、ああまた来たな……って主張してきて」
ナオキは棚から木箱を取り出した。
ふたを開けると、森の匂いが微かに広がる。
「よければ、軽く触ります。押したり揉んだりはしません。今日はただ手を当てるだけのほうがいいと思います」
「それで十分です。本当に……限界で」
女性は横向きに身を預けた。
布越しにも、深い張りが伝わってくる。
木箱の中には、小さな瓶が三つ。
朝日に照らされたように、ひっそり光を宿している。
そのうちの一つを手に取る。
黄色い、濃密な色。
夕陽を小瓶に閉じ込めたような、あたたかい光。
「太陽の小花という薬草です。深い張りがある日に、よく働いてくれます」
「かわいい名前……かわいいのに働き者なのね」
ふと笑いがこぼれ、声に少し明るさが戻った。
「本当に小さな花なんです。陽だまりの色で。知人が、そんなふうに呼んでいました」
「その知人さん……優しい人なんですね」
女性は遠慮がちな笑みを浮かべた。
優しさを受け取れる余白が、少し戻っていた。
軟膏をすくい、指先で温める。
ひんやりした黄色が、金色へとほどけていく。
「冷たく感じますが、すぐ馴染みます」
「ありがたい……ずっと熱がこもってる感じで」
ナオキは呼吸を整え、手をそっと置いた。
押さない、揉まない。
ただ触れて流れをつくるだけ。
女性の身体がわずかに沈み、ため息の音が混じった。
「……そこ……うん、そのあたり。張りが静かになって……いきますね」
「呼吸が深くなりましたね」
「自分でもわかります。腰まわりが……動く余地を取り戻していくみたいで」
ただ手のひらを置くだけ。
それでも軟膏と温度が、深いところへ静かに届いていく。
「さっきより……息がしやすい」
「よかったです。腰は、息が詰まるだけでも固くなるので」
「……たしかに。しんどいときって、息が浅くなります」
短くうなずきながら、ナオキの手はそのまま温度を預けていた。
「これで終わりです。ゆっくり立ってみてください」
女性は慎重に立ち上がり、腰をひねった。
小さく息を呑む。
「……動きます。治ったわけじゃないのに、不思議。軽い……さっきと全然違う」
「今日は、花との相性が良かったんだと思います」
「……そうなんですね。しんどい日のほうが合いやすいって言われると……なんか、救われます」
来たときとは違い、表情に柔らかさがあった。
「美咲がね、『ちょっと変だけど落ち着く店』って言ってて。来てみて、意味がわかりました」
「変なのは……否定しにくいですが」
「ふふ……でも、こういう場所、もっとあっていいと思います」
弱音ではなく、前へ進める声だった。
会釈して、女性は外へ出た。
夕方の光が一瞬だけ彼女を照らし、扉が静かに閉じる。
サロンは再び静けさを取り戻したが、
そこには“息を整えていった人の余韻”だけが、あたたかく残っていた。
ナオキは瓶のふたを閉め、木箱に戻す。
太陽の小花の香りが手に残り、胸の奥で静かに灯った。
「……よかった。少しでも軽くなって帰れたなら」
自然に漏れたひと言だった。
タオルを畳み、照明を落とす。
カーテンを揺らした夕風が、薄い影を床に落としていた。
押したわけでも、揉んだわけでもない。
ただ手を当てただけ。
けれど、その“ただ”が人を軽くする。
窓辺に立つと、街路樹が夕陽に白く縁取られ、風に揺れていた。
(……こういう時間が、続けられればいいな)
森にも、サロンにも拠点がある。
二つの世界が、少しずつ自分の生活に馴染んでいく。
指先に残る香りを吸い込み、ナオキは静かに息を吐いた。
外へ出た瞬間、夕暮れの風が腰を撫でた。
数時間前なら、そのわずかな動きで痛みが響いていたはずだ。
だが今は、痛みの輪郭が小さく丸まり、奥の重さが静かに落ち着いていた。
(……軽い。こんなに違うんだ)
階段を降りながら、手すりに触れる癖がなくなっていることに気づく。
歩くたび、深いところにあった硬い板のような感覚が薄くなっていった。
信号前で立ち止まると、パン屋から香ばしい匂いが流れてきた。
(……お腹、空いてたんだ)
仕事帰りは匂いに気づく余裕すらなかった。
今はただ深呼吸をするだけで腰が少し緩む。
街灯が灯りはじめ、町が夜の顔へ変わっていく。
その流れに合わせるように、彼女の呼吸もゆっくり深くなった。
(太陽の小花……本当に不思議な感じ)
腰の奥でじわりと温度が広がっている。
遠い火のような、あたたかい灯り。
「かわいいのに働き者」
自分で言った言葉を思い出し、小さく笑った。
玄関の灯りが、いつもより柔らかく感じた。
(帰ってきて……こんなに楽なの、いつ以来だろう)
靴を脱ぎ、エプロンの紐をほどく。
痛みで顔をしかめることがない。
洗面所の鏡に映る自分は、疲れているはずなのにどこか軽かった。
肩の高さも来たときほど違わない。
(……触られるの、怖くなかったな)
ナオキが手を置いた瞬間の温度が思い出のように胸へ広がった。
簡単な夕食を作る。
包丁を動かす手が、今日に限って軽かった。
(……明日も動けそう)
その予感が胸に静かに灯る。
食後、淹れた茶の湯気を眺めながら、腰に広がる温かさを確かめた。
机に向かう。
日記帳を開くのは久しぶりだった。
(痛い、ばかりじゃない日が……ようやく)
その一文を書くだけで胸がじんとした。
布団へ身体を沈める。
横向きになっても、悲鳴を上げる痛みが来ない。
(……ああ。本当に軽い)
目を閉じると、太陽の小花の香りが微かに蘇った。
黄色い光のような、やわらかな残り火。
(明日……ちゃんと起きられそうだな)
その小さな希望に包まれながら、
彼女は静かに深い眠りへ落ちていった。




