サロン編(2):ひとつ深い呼吸
ナオキはアロマランプの芯を指先で整え、マッチの火をそっと近づけた。小さな炎がガラスの内側で揺れ、まだひんやりしたサロンの空気に、ゆっくりと明かりがにじんでいく。
香りは一気には広がらない。異世界の拠点で拾った香草の匂いが、電球の熱と、この街の朝の空気に混ざりながら、少しずつ形を持ち始めていた。
甘さも刺激もない。ただ、森の奥で深呼吸したときの静けさだけが、目に見えない膜みたいに部屋の中へ降りてくる。
棚の上では、風の指輪が差し込んだ光を一筋だけ返していた。この世界のどこにも属していない、その小さな金属の光が、サロンの空気にだけ、かすかなやわらかさを足している――ナオキには、そう思えた。
準備はひと通り終わった。今日も、誰かがここへ「息をしに」来る。
ドアベルが、控えめに鳴った。
金属の細い響きが、静けさの中にひと滴落ちる。
「すみません……佐伯です」
扉の向こうに立っていたのは、少し疲れた面影を残す女性だった。髪は乱れていないのに、目の下には眠りの欠片が落ちたような影がある。声には緊張と遠慮が混じり、心の奥で抱えてきた重さが少しだけ滲んでいた。
「どうぞ。しんどかったら、そのまま横になってください」
押しつけにならないように、肩を押し広げるような余計な気遣いにならないように、ナオキは静かに声をかける。佐伯さんは、ほっと息をこぼしたように頷き、部屋へ入ってきた。
ベッドに腰を下ろすと、そのまま身体を預けるように横たわり、天井をしばらく見つめた。まばたきが少し重い。呼吸が細い。
やがて、小さく、言葉が落ちた。
「最近……ぜんぜん寝られなくて」
その声は、何かをこらえていた糸がほんの一瞬だけゆるんだ時のように震えていた。
がんばってきた日々の疲れが、その震えの中に静かに溶けているのが感じられた。
「そうでしたか……。いまはゆっくりして大丈夫ですよ」
理由は聞かない。
聞けない時の疲れもある。
言葉にしなくていい重さもある。
ここは、ただ呼吸を取り戻す場所であればいい。
ナオキは手のひらに温かなオイルを馴染ませ、静かに肩へ触れた。
押したわけではない。揉んだのでもない。
そっと――触れただけだった。
その瞬間、空気がひとつ震えたように思えた。
「あ……」
小さな声がこぼれ、頬を伝った涙がシーツに淡く滲んだ。
泣けるなら、それでよかった。
泣くほどの重さを抱えて来たのなら、今はただ手放せればそれでいい。
ナオキは一定のリズムで触れ続けた。
深く押さず、無理にほぐさず、ただ緊張が逃げていくための“余白”だけを置いていくように――
その時だった。
ランプの火がふっと揺れ、香りがゆっくりと濃くなりはじめた。
甘さでも刺激でもない。森の奥で風が草を撫でていくときと同じ、静かで温度のある匂い。
「……これ、いい匂い……」
佐伯さんの呼吸がわずかに深くなる。
肩の力が抜け、首筋から背中へと穏やかに波が引いていくように緊張が消えていく。
「そのままでいいですよ。この部屋は、休む場所ですから」
その声に触れたように、胸の上下がゆっくりとした。
香りが胸の奥に落ちていき、重かった心が少しずつ軽くなっていく。
やがて、佐伯さんは眠った。
本当にそっと沈むように。
呼吸だけが静かに響き、部屋の空気がさらに柔らかく変わっていった。
(……治すことはできないけど。少し深く息をつける場所くらいなら、作れるのかもしれないな)
ナオキはブランケットを掛け、窓辺に立った。
強さを増しはじめた朝の光が、サロンの壁へ淡い金色を落としていた――。
しばらくして、佐伯さんのまぶたがゆっくりと持ち上がった。
夢の底にまだ片足だけ残してきたような目の動きで、彼女は天井をぼんやり見つめ、呼吸をいくつか整えた。
その後、はっとしたように息を吸い込む。
「……寝てました、私……?」
「ええ。よく休めていましたよ」
声を向けると、ほんの一瞬だけ、佐伯さんの目が揺れた。
驚きと、ほっとした安堵が入り混じった揺らぎだった。
「なんか……胸が軽いんです。こんなの久しぶりで……」
照れたように笑い、指先で目尻を優しく拭った。
涙の跡は薄く残っていたが、それを隠そうとはしなかった。
むしろ、誤魔化さない表情のほうが、ずっと自然であたたかかった。
「また、来ていいですか……?」
「どうぞ。休みたい時だけで構いません。無理に話さなくて大丈夫ですから」
その瞬間、佐伯さんの肩がふっと落ちた。
誰かの前で強くあろうとしていた力が抜けた時の、とても静かな落ち方だった。
心の奥で張り詰めていたものが、ほんの少しほどけたのだと分かった。
帰り際、軽く会釈した佐伯さんは、遠慮がちな笑みを残しながら扉の向こうへ消えていった。
ドアベルが小さく鳴き、金属の細い音が空気へ溶けていく。
サロンには、静けさが戻った。
しかし、その静けさは孤独のものではなかった。
人がそこにいた余韻が、まだ部屋の空気に淡く漂っている。
あたたかい匂いと、深い呼吸の残り香。
そういったものが層を作り、この空間はゆっくりと息づいていた。
棚の上を見ると、風の指輪が小さく揺れた。
誰も触れていないのに、細い金属が擦れ合うように鈴音が一度だけ鳴る。
自然と笑みがこぼれた。
森の拠点の空気が、この場所にもかすかに滲んでいる。そう思わせる揺れ方だった。
向こうの世界の風は、柔らかい。
葉を揺らす音も、夜の虫の声も、静かな川の流れも、すべてが深呼吸のように響いている。
サロンの空気はそれとは違うけれど、落ち着きの質がどこか似ていた。
香草の匂いだけでは説明できない。
指輪を置いているだけとも思えない。
不思議と、なにかが寄り添っているような気配だった。
ナオキは湯沸かし器に水を注ぎ、スイッチを押した。
白い蒸気が立ちのぼり、カップの縁で温かな気配が揺れる。
地球の湯気の匂いは森とは違うはずなのに、赤い火の粉が舞う光景がふと頭をよぎった。
森の夜は、暗い。
焚き火だけが世界を照らす。
だからこそ、火の灯りは目に見える以上の安心をくれた。
太陽の小花を潰したときの鮮やかな黄色。
リヴの指先の温度。
それらが焚き火の揺らぎのように記憶の底でゆっくりと動いていた。
(……あいつ、いま何してるかな)
森の拠点はそろそろ朝の支度が始まる頃だろう。
乾いた枝を拾いに外へ出たか、薬草の束を仕分けているか、
あるいは昨日作った瓶を光にかざして、その色を眺めているのかもしれない。
リヴの顔がふと浮かぶと、胸の奥に柔らかい温度が広がった。
初めて訪れた時は恐ろしかった森も、危険だった魔物も、今では心を締めつけなくなった。
そこに“人”がいたからだ。
帰りたいと思える場所。
その理由が、確かにあった。
湯をカップに注ぐと、立ちのぼる蒸気の向こうで風の指輪が小さく揺れた。
(あの人……ほんとに大変だったんだろうな)
眠った後の佐伯さんの表情が思い浮かぶ。
ずっと張り詰めていた糸がふっと緩んだ時の、あの静かな顔。
誰かに頼ることが苦手な人の、崩れ方はとても小さくて、そしてとても深い。
(……少しでも、重さが下りていたなら)
湯を口に含むと、温かさが喉の奥をゆっくり落ち、胸に広がった。
体の芯にまで届くような熱だった。
窓の外では風が吹き、街路樹の影がのびて揺れていた。
森とは違う乾いた風。しかし、人の暮らしの音と一緒に流れるその風は、これはこれで安心をくれた。
ふいに、指輪がまた小さく揺れた。
かすかな動きだが、まるで誰かが返事をしたかのように見えた。
タオルを片付け、施術ベッドのシーツを新しいものに替える。
指先に触れる布はひんやりしているが、朝の日差しが当たればすぐ温かくなる。
それもまた、ここにある日常の一部だった。
その頃、佐伯さんはゆっくりと階段を降りていた。
朝の空気はひんやりしているはずなのに、胸の奥は妙に温かい。
喉から肺へ空気が落ちていく感覚が、こんなにも自然なのが不思議だった。
(……こんな朝、どれくらいぶりだろう)
信号を待つあいだに、ふと気づく。
肩の高さがそろっている。首筋を伝う緊張が薄い。呼吸が浅くならない。
たった数十分のはずなのに、体の重さが一枚だけ剥がれ落ちたようだった。
カフェの前を通ると、焼きたてのバターの匂いがふわりと流れてきた。
毎朝ここを通っているはずなのに、香りを感じたのは久しぶりだった。
(余裕……あるんだ、今)
立ち止まり、深く息を吸ってみる。
胸の広がりが心地よい。腰の奥に響いていた重さが、ほんの少しだけ柔らかくなっている。
コーヒーを一杯買ってもいいかもしれない、と考えた自分に驚いた。
最近の朝は、とにかく家を出て、職場へ着いて、生き延びるだけで精一杯だったのに。
店のドアを開き、カップを受け取る。
温度が手のひらへじんわりと伝わり、それだけで少し胸が緩んだ。
(あの香り……まだ残ってる)
サロンで漂っていた静かな森の匂い。
甘くも苦くもない、ただ空気を深くするようなあの香りが、まだ鼻の奥にほんのり残っている気がした。
電車の吊り革につかまりながら、窓に映る自分を見る。
表情が、いつもより柔らかかった。
(寝てたの、ほんとに久しぶりだな……)
布団へ横になった瞬間の静けさを思い返す。
腰の奥の痛みがゆっくりと沈み、呼吸が深く落ちていった。
余計な考えも、張り詰めた緊張も、どれもついてこなかった。
夜中に何度も目が覚めるのが当たり前になっていたのに、
昨夜は途中の記憶がほとんどない。
目を開けたら朝だった。ただそれだけのことが、胸をじんわり温めた。
(あんなふうに眠れたの、いつ以来だろう)
電車が止まり、ホームへ降りる。
駅から職場までの道のりが、今日は少しだけ短く感じた。
職場の自動ドアをくぐり、「おはようございます」と声をかける。
自分でも驚くほど、声が軽かった。
「なんか、今日は顔色いいね」
そう言われて、思わず笑った。
(……たしかに。今日は、なんだか息がしやすい)
その小さな実感が、朝の始まりをそっと支えてくれる。




