サロン編(1)サロンの朝と、美咲の声
ゲートの光が静かにしぼみ、最後のきらめきが空気に溶けた。湿った土と木の葉の匂いが、ほんの一瞬だけサロンに残る。けれど次の呼吸で、それは電気のかすかな唸りと、空調の細い息遣いに上書きされた。
戻るたびに、この切り替わりだけは胸の奥をくすぐる。目に見えない境目をくぐった感触が、耳の奥で小さく鳴って、しばらく消えない。天井の蛍光灯が乾いた白で広がり、焚き火の赤とは違う均一な光が、夜の名残を押し流していく。
俺は一度、深く息を吸った。アロマの香りと木材の匂い、磨いた床の滑らかな清潔さ。森の「生き物」の匂いが指先に残っているのに、室内の空気は遠慮なく上から重なってくる。吸った息が喉にひっかからない、その感触だけで、身体の置き場が地球側へ寄っていくのが分かった。
サロンは、俺が地球で唯一、自分の手で整えた場所だった。十数畳ほどのスペースに間接照明のやわらかい輪郭が落ち、棚には白いタオルが静かに並ぶ。背後で機械の音が鳴っているのに不思議と落ち着くのは、その音が毎日同じリズムで鳴るからだろう。森では聞こえない音で、地球にしかない拍だ。
ゲートの前から一歩下がり、電源を落とす。モニターに映っていた森の緑が、蛍光灯の光を吸い込むようにゆっくり黒へ沈み、床に落ちた俺の影だけがわずかに揺れた。指先に残る湿り気が、時間差で冷えてくる。
今日の森は穏やかだった。リヴと薬草を選び、葉を砕き、香りを混ぜ、瓶を三つ。どれも二人で作った道具で、手のひらに残る感触まで温かい。嬉しそうに首を傾げて花びらを潰していた横顔が浮かぶと、胸の奥に小さく火が灯る。太陽の小花の刺激的な香り、夕風が瓶の表面を撫でて揺らした光景――思い出すほど、「帰りたい場所」が勝手に増えていく。
そのときスマホが震えた。画面に出たのは「美咲先輩」。このタイミングでか、と内心で笑いながら、通話を取る指が少しだけ急いだ。
「……おかえり。ちゃんと戻ってきたのね」
夜勤明けの疲れが隠しきれない声なのに、温度がある。耳に入った瞬間、肩の力がふっと抜けた。
「はい。さっき戻りました。……向こうの様子見て、たぶんまたすぐ行きます」
「やっぱりね。直輝くん、落ち着いてるように見えて、落ち着いてないもの」
「落ち着いてるって言われたいんですけど、否定しきれません。戻った直後だけ、息がずれる」
「ふふ、あるわよ。あんた、昔から“全部自分で抱え込むタイプ”じゃない」
言葉に詰まり、苦笑が漏れる。図星を刺されると、返しが弱くなる。
「直輝くんはね、真面目で優しいのはいいんだけどね」
微かに笑いを混ぜながら、美咲先輩は続けた。
「う……耳が痛いですね。でも先輩に言われると、逃げられない感じがします」
「でしょ? 私はよく知ってるのよ、直輝くんのそういうところ」
困ったようで、どこか誇らしげな調子。俺はサロンの真ん中に立ったまま照明を一段落とし、床に落ちる光を少し沈めた。明るさが変わるだけで、部屋の呼吸が落ち着く。
「先輩こそ、夜勤続きじゃないですか。身体、ちゃんと戻ってます?」
「うん、まあね。寝たり起きたりが変な時間で……身体のリズムが迷子。朝が夜に見えて、夜が朝に感じるのよ」
「それ、放っておくと一気に来ますよ。帰ったら水飲んで、首の後ろだけでも温めてください」
「そういう言い方、ほんと変わらないね。でもね――こうして話すと、ちゃんと“地面を踏んでる”気がするから」
声が少しだけ落ちた。その下にある疲労と、ほんのわずかな寂しさが透ける。俺はすぐに言葉で埋めず、棚の端のタオルを一枚だけ折り直した。
「人の声って、不思議なのよ。温度があるの。いくらモニターを見てても、あったまらないのにね」
その言い方が、森でリヴが言った声色とどこか重なる。しんどい日は、それだけで十分――あの柔らかい響きが胸の奥でかすかに波紋を広げた。
「そういえば、サロン、また始めたんでしょ?」
「はい。掃除も一通り終わって、ようやく再開できそうです。先輩が来るなら、気になるところは潰しておきたいですし」
「いいじゃない。あそこ、空気が落ち着くのよ。……なんか、安心する」
美咲先輩は、サロンを開いた頃の最初の客でもあった。夜勤明けの顔で来て、施術ベッドに沈んで、しばらく言葉が出ない日もあった。緊急搬送、家族対応、書類、点滴準備――それを全部抱えたまま、ここへ来る。あの疲れの影が、ベッドの上で少しずつ薄くなっていくのを、俺は何度も見てきた。
「……くつろぐための場所にしたかったんです。誰が来ても、息を整えられるように」
「分かるわよ。あんたのそういうところ、好きよ。誰かの“リズム”に寄り添う空気、あるもの」
優しい声が落ちる。その声が、俺がリヴの前で自然にしている気遣いと通じているのが、不思議でくすぐったい。
「今度、顔出していい? あの香り、忘れられなくて」
「もちろん。旅先で、ちょっと変わったアロマを手に入れました。……甘くないやつです」
「ふふ。魔法の香り?」
「まあ……そんなところです。先輩が来たら、説明できる範囲で話します」
笑いが混じり、そこから先は柔らかい沈黙が落ちた。静けさなのに温度がある。俺は電話を耳に当てたまま、サロンの空気をもう一度吸い込む。床の木目、壁の白、タオルの柔らかさ。ここに揃っているものが、俺の生活をちゃんと現実に繋いでいる。
「ところでさ」
美咲先輩の声が少し柔らかくなる。
「直輝くん、この数ヶ月、ちょっと雰囲気変わったよ」
「変わった、ですか。自分じゃ分からないんですけど……何か変でした?」
「変っていうより、戻ってくる顔が穏やか。必死さが抜けたというか……安心してる感じ」
言葉に詰まる。森の夕暮れ、薬草の香りに包まれた時間、リヴの笑み、火を眺める静かな夜。思い返すだけで胸の内側がじんわり熱を帯びる。
「……まあ、ちょっとだけ。良い時間が増えた気はします」
「ふふ。言わなくても分かるよ。あんた、声の温度が違うんだもん」
くすぐったくて、咳払いでごまかす。
「先輩のほうこそ、身体壊さないようにしてください。夜勤続きだと、気づかないうちに限界が来ます」
「ありがと。直輝くんに言われると、なんか素直に聞けるね」
笑っているのに、その奥に眠れない夜の色がまだ残っている。俺はその影を、どうしてか守りたくなる。リヴには自然に寄り添いたい気持ちが生まれて、美咲先輩には支えたい気持ちが立つ。種類は違うのに、どちらも嘘じゃない。
「じゃあ、今日はここまで。ちゃんと寝るのよ」
「先輩も、帰ったら水飲んで。……それだけでも違います」
「はいはい。言われなくても飲む。おやすみ」
「おやすみなさい」
通話が切れると、電子音の途切れたぶんだけ静けさが深く沈んだ。俺はスマホをテーブルに置き、予約表を開く。十時――佐伯。文字を目で追っただけなのに、胸のあたりが少し硬くなる。今日ここへ来る誰かのために、俺は“境目”からもう一歩、地球側へ降りないといけない。
タオルウォーマーのスイッチを入れ、棚から一枚取って角をそろえた。指先が冷えている。美咲先輩に言われる前から分かってたのに、こういう時ほど自分のことは後回しになる。息を吐いて、もう一度だけ吸う。空調の一定の音に、呼吸の長さを合わせてみると、身体の中のざわつきが少しだけ収まった。
棚の上で、風の指輪が窓の光を細く返した。馴染まない金属の輝きなのに、目を逸らすと何かを取り落とす気がする。俺は視線を外さないまま、タオルをもう一枚だけ並べ直した。
窓へ歩き、カーテンを押し分けると冷たい朝の空気が滑り込んだ。乾いた都市の匂いだ。なのに、その奥にほんのり森の気配が混じっている気がして、鼻先で確かめるみたいに息を吸った。すぐに窓を閉める。冷気が残るうちに、身体の芯まで冷えないように。
サロンの奥へ向かう。電気ケトルに水を入れてスイッチを押すと、湯が温まるまでの静かな時間が始まる。立ちのぼる白い湯気を見ていると、森の焚き火の煙を思い出す。薪の爆ぜる音、火の粉、リヴの横顔。
『ナオキ、これ……できたよ』
完成した三つの瓶――“月の雫”、太陽の小花軟膏、“理の美肌オイル”。名前をつけたときの嬉しそうな瞳が、手触りごと胸の内に残っている。あの指先の温度と、今ここで湯を待つ指先の冷たさが、少しずつ同じ場所で重なっていく。
ケトルが小さく鳴った。マグカップに湯を注ぐと、温かい白い息がふわりと立ちのぼる。アロマとは違う素朴な湯気の匂いが胸の奥まで落ちてきて、身体の深いところがじわりと温まった。
「……ただいま」
小さな声はサロンの静けさに溶ける。返事はないのに、空気が受け止めてくれる感じがあった。窓の外は少しずつ明るくなり、夜の青と朝の白が混じる境目の色をつくっている。俺はその色を眺めながら、マグカップを両手で包んだ。
照明をひとつずつ点ける。淡い黄金の光が壁に広がり、施術ベッドの白がやさしく浮かび上がった。整えたタオル、棚の端の小さな観葉植物。森にはない色の葉が朝の光を受けて、静かに息をしている。
棚の上で、風の指輪が窓の光をもう一度拾った。今日はそれが「戻ってこれる」目印みたいに見える。俺は軽く伸びをして背中の重さを落とし、タオルを一枚、指先でまっすぐに整えた。
「さて……仕事するか」
窓の外で朝日が完全に昇り、都会の音が遠くで動き始めた。今日も世界は続く。その続きを、ここから迎える。




