森の薬箱
クリームパンを焼き終えた拠点には、甘い香りと、ほんのり焦げた砂糖の余韻がまだ漂っていた。
小さなかまどの石は温かさを残していて、室内の空気に、森の冷えとは違うぬくもりを満たしている。
布に包んだパンを棚に並べながら、リヴがふっと息をこぼした。
動くたびに金色の長い髪が揺れ、窓から差し込む薄い光を帯びる。
「街から持って帰った薬草……今日まとめちゃわない?」
「うん。やれるうちにやっておこうか」
二人は作業台を空け、薬草と香草の束を広げた。
傾いた陽が木々の影を長く伸ばし、拠点の床板は静かな木漏れ日の斑をまとった。
風が吹けば屋根の葉がかすかにざわめき、遠くで鳥が鳴く。そんな音が自然に紛れるほど、森はやさしい息をしている。
「まずはこれ。薬草軟膏の元になった葉だね」
ナオキは乾燥させた緑の葉を手に取り、指で揉みほぐす。
少し揉むだけで“やわらかい蜜のような香り”が滲み出て、葉脈の細い線が指先にざらりと触れた。
「外の切り傷や擦り傷には、これが合うんだよね?」
「うん。表面がちょっと荒れたくらいなら十分。……でも深い傷には気休め程度ね」
リヴはそう言って、そっと目を伏せた。
指先がわずかに震え、遠くの記憶へ触れるように葉を見つめる。
「前に獣にやられた時……思い出した。あんなに深い傷、私の知ってる薬草じゃどうにもならなかった」
ナオキは動きを止め、ほんの一瞬だけ息を呑んだ。
気づかれないように、自然な手つきで葉を瓶へ落とす。
「あれは応急処置と薬草軟膏が、奇跡みたいに噛み合っただけだよ」
「でもね。ああいう怪我を治せる薬草なんて、私の知識にもないの」
葉を光に透かすと、リヴの睫毛の影が細く揺れた。
その気配を感じて、ナオキは机の真ん中に透明な瓶を静かに置いた。
光の中で液体がさらりと揺れ、室内の明暗をすくい取るように反射する。
「ヴァルターさんの商会では油抽出法だったけど、今回はアルコール吸着でいこう」
「うん。たしか……油だと、濃い成分までは出せないんだった?」
「そう。重い成分は油で十分だけど、細い香りとか奥の部分は酒精のほうが合うんだ」
リヴは瓶の内側をのぞき込み、やわらかく頷いた。
「じゃあ……あの“氷でゆっくり分けるやつ”は? 私、冷たくしたり氷も作れるよ?」
「逆なんだよ。ゆっくり氷を“作る”ほう。八時間も十時間も、温度を一定に保てる?」
「……あ。うん、それは確かに無理かも」
リヴは頬をぷくりと膨らませ、すぐに照れたように笑う。
その表情の変化は、森の光よりも柔らかい。
「じゃあ、ここではアルコール吸着でできるところまで、だね」
「そういうこと。終わったら、地球で続きをやるよ」
二人はキンセンカとオオバコに似た葉を細かく砕き、無水アルコールへ沈めていく。
葉を潰すたび、粉がふわりと舞い上がり、リヴの髪に小さな光の粒のように散った。
透明だった液体は、ゆっくりと薄い緑へ染まっていく。
「……色が早いね」
「揮発も速いし、成分も軽いからね。油より反応がいいよ。軽い葉ほど早く“溶けたがる”みたいだ」
外傷用の抽出液が、音もなく形を成していく。
次に手に取ったのは、鮮やかな黄色の花だった。
触れると、指先が“熱を持つ石のように”ピリッと痺れる。
「これが……太陽の小花だっけ?」
「うん。強い花だけど、扱えば頼もしいよ」
リヴは乳鉢で花を潰す。
刺激的な香りがひらくたび、空気がわずかに熱を帯びるように感じた。
「打ち身とか深いところの痛みに向いてるんだよね? 匂いだけで“強い”ってわかる」
「飲むと危ない花だから、塗るだけ。飲んだら魂が燃えちゃうよ?」
「魂……」
ナオキは苦笑し、丁寧に潰した花をアルコールへ混ぜ込む。
黄色がじんわり溶け出し、瓶の中は太陽のかけらのように輝き始めた。
「完全に“内側の痛み”専用だね」
「うん。腫れた場所の熱が静かになる感じがする」
三つ目は薄い橙色の花びら。
乾燥すると羽のように軽く、手のひらに落とすと風に流れそうだった。
香りはふわりと甘く、森の空気にそっと馴染む。
「美肌用の香油は、これが中心なんだよね」
「うん。いい匂い。使うと胸が……ふぅって、軽くなる」
リヴが蓋を閉めると、橙の液体が瓶の中でやわらかく揺れた。
「肌のキメを整えるらしいよ。夜につけると、朝の感じが違う」
「……肌が“休める”油なんだね」
そのまっすぐな言葉に、ナオキはふっと笑った。
——地球のアパート。
薬草をミキサーへ放り込むと、単調な轟音が狭い部屋に反響した。
冷蔵庫のモーター音、窓の外を走る車の気配。
森とは違う“無機質な生活音”が、ナオキの耳に重く届く。
ミキサーの中で薬草が細胞レベルで砕け、粉末の匂いが人工的な空気の中で唯一の“自然”だった。
「これで、成分が最大限に引き出せる」
粉末は冷えたアルコールへ沈み、色が濃く変わる。
浅い容器に移して冷凍庫へ収めると、冷気が指先まで刺すように触れた。
翌朝、中央に濃いエキスが残り、縁には薄い氷だけが張っていた。
「……これだ」
ナオキは慎重に濃縮エキスを瓶へ移す。
その手つきには、森でリヴと並んで作業した記憶が自然に宿っていた。
——森の拠点。
三つの瓶を横に並べた時、リヴがぽつりと言った。
「ねえ、名前つけよ? どれも“ただの薬”じゃないもん。二人で作ったんだよ?」
「……そうだね」
ナオキは淡い緑の瓶を手に取る。
「乾燥を防ぐし、夜に使うと落ち着くから……“月の雫”なんてどう?」
「うん、好き。月みたいにしずか」
強い黄色の瓶を手にした。
「これは花の名前そのまま、“太陽の小花”軟膏だな。太陽みたいに強い力があるし」
「うん。この子は名前を変えちゃだめ。誇ってるみたいだもん」
最後に美肌オイルを手に取る。
「これは……“理の美肌オイル”。肌が戻るような感じがあるから」
「うん。とてもいい名前」
リヴは瓶を見つめ、どこか誇らしげで、少し照れているようだった。
「……なんか、すごいな。二人で森の薬箱を作ってるみたいだ」
「うん。でもね、ナオキ。すごい道具じゃなくていいの。ちょっと軽くなる……それだけで十分なんだよ」
「……そうだね」
「しんどい日は、それだけで十分だから」
夕風が拠点に入り、瓶の表面が柔らかく光を揺らした。
森の午後は冷え始めていたが、拠点の中だけは、不思議と温かかった。
三つの瓶は静かに並び、二人の積み重ねてきた時間をそのまま閉じ込めたように、微かな光を宿している。
薬草を砕く音、呼吸のリズム、瓶の中で揺れる色の変化。
この小さな拠点には、世界のどこにもない“二人だけの営み”が息づいていた。
「ねえ、ナオキ」
「ん?」
「……この薬、誰かの助けになるといいね」
「なるよ。絶対」
迷いのない声に、リヴは目を細め、瓶をそっと抱えるように見つめた。
森に夜の気配が落ち始める。
遠くで鳥が一声だけ鳴き、空気がすっと冷たくなる。
「そろそろ火、起こすね」
「うん。今日はゆっくりしよう」
三つの瓶は、火のついたランタンの灯りを受けてゆらりと揺れた。
“月の雫”は夜の色を深く宿し、“太陽の小花”は小さな焔のように煌めき、“理の美肌オイル”は淡い金色に溶けていった。
どれも大げさな魔法の道具じゃない。
けれど、二人にとっては十分すぎるほどの温もりだった。
いつか、まだ出会っていない誰かの傷を癒やすかもしれない。
そう思うと、この小さな瓶たちは、森の奥で静かに未来へと光っているように見えた。
そしてその中心には、今日も変わらず二人がいた。




