森のパン実験
森は夜を深め、ふたりをそっと迎え入れるように静けさを落としていた。
昼のあいだ焚いていた火の跡はまだ丸く残り、白く冷えた灰の隙間から、小さな苔がかすかに光を帯びて顔を出している。
湿った土の匂いが、呼吸のたびに胸の奥へすっと入り込み、遠かった旅の終わりと“戻ってきた”という温度をそっと落としてくれた。
リヴは夜気の中でふわりと息を吸い込み、小さく微笑んだ。
長い髪が風に揺れ、ふたりの帰還を森が喜んでいるかのように見えた。
「……帰ってきたね」
「うん。今日は……約束の日だ。甘いものの実験」
ナオキはリュックを下ろし、地球から持ち込んだ十二インチのダッチオーブンを取り出した。
鉄の蓋は厚く重く、土に触れた瞬間、森そのものの奥へ落ちていくようなどすん、という音が夜に吸い込まれていった。
その音を境に、ふたりの夜は“食べものを作る時間”へ姿を変える。
まずは、生地づくりだ。
ミルガ麦の粉を木鉢に入れると、指先にざらりとした感触が残った。
森の大地と似た素朴な匂いがふわりと立つ。
きのこ酵母を混ぜると、森の奥を吹き抜ける風のような香りが重なる。
一方、地球の粉はまるで雲を砕いたように細かく、触れた瞬間、白い霧が舞い上がった。
リヴはふたつを見比べ、その違いに目を丸くする。
「……同じ“粉”なのに、こんなに違うんだね。
こっちは粒がはっきりしてて、森の匂いがする。
でも地球の粉は、触っただけで落ち着いてる感じがする……静か、というか」
「うん。粒が揃ってると、粉同士がすぐに手をつなごうとする。触り心地も自然と変わるんだ」
ナオキは木鉢の中の粉を指で撫で、柔らかく言葉を続けた。
「地球の粉は、生地の中で“見えない糸”がよく伸びる。糸が多いと、生地どうしが手をつないでくれる」
「……その“糸”、もしかして……ぐるてん、ってやつ?」
「そう。グルテンが空気を抱えてくれるから、ふわっと膨らむんだ。
森の粉はこのグルテンが少ないから、重くなるけど……そのぶん味が濃くて素直なんだよ」
「……なるほど。そっか……だから全然ちがうんだね」
リヴは手のひらで粉をすくい、光のささない小屋の中でそっと開いた。
粉が指の隙間からさらさらと落ちていく。
その動きだけで、地球の粉はまるで別の生き物のようだった。
こね始めると、小屋の壁にやわらかい音が返ってきた。
リヴは粉と水を合わせ、両手で包み込むようにしてゆっくりと動かす。
生地はその動きに応えるように形を変え、息を吸うように手の中で温度を帯びていった。
ミルガ麦の生地は森の土のように重く、しっかりとしている。
押し返してくる力が強く、生地というより小さな命を抱えている感覚に近かった。
一方、地球の粉で作った生地は、触れるだけでまとまり、手から手へ軽やかに移っていく。
ふわりと浮くような軽さで、リヴは何度も「え……」と小さく驚きながら指をすべらせた。
木鉢の底へリヴがそっと手を添える。
体温がゆっくり伝わり、生地は内側からふくらもうとする気配を見せ始めた。
「……生きてるみたい」
リヴの囁きに、ナオキは少し笑みを混ぜて答える。
「うん。酵母が小さく息をしてる。その息をさっきのグルテンがつかまえるから、こうして膨らんでくれるんだ」
「へぇ……生きてるんだね、本当に」
リヴは木鉢に顔を寄せ、ふくらみ始めた生地を覗き込んだ。
ほんのわずかな膨らみが、胸の中でぽっと灯るような温度を落とした。
「……世界が、違うんだね。同じ“パンになる粉”なのに」
「うん。でも、どっちもいいところがあるよ。違うから面白いんだ」
その穏やかな言い方に、リヴは照れくさそうに笑い、そっと生地の表面を撫でた。
生地の呼吸が、森の夜の静けさとひとつに溶けていく。
発酵を待つあいだ、ナオキはカスタード作りに取りかかった。
カセットコンロの青い火が、森の闇にぽうっと灯りをともす。
火が揺れるたび、小屋の壁に淡い影が揺れ、ふたりを包む空気がゆっくりと温まっていく。
ナオキが砂糖袋を開けると、白い粒がこぼれ、その光景だけでリヴが息を呑んだ。
「……この量……全部砂糖……?」
「全部じゃないけど、半分は使うな。甘さの芯になるから」
「……半分でも……銀貨何枚分なの……? こんな贅沢……見たことない……」
角砂糖ひとつ舐めるだけでも特別な世界だ。
ましてや砂糖を“惜しまない”という発想そのものが、リヴにはまるで別の文化だった。
鍋に牛乳と黄身を合わせ、ナオキが穏やかな手つきで混ぜる。
弱火にかけると、鍋の底からじわじわと熱が広がり、甘くやわらかな香りが周囲に満ちていく。
リヴはその湯気に手をかざし、そっと目を細めた。
「……思ったより強い匂いじゃないんだね。甘いのに……優しい……」
「弱火でじっくり、だよ。
ここで焦ると、卵が固まって“つぶつぶ”になっちゃう。
なめらかさが大事なんだ」
木べらが鍋底を滑る音が、静かな夜にやわらかく響く。
突然、混ぜている手の感触がふっと変わった。
「……今、とろみが変わったね?」
「うん。この瞬間が気持ちいいんだ。ばらばらだったものが、やっと“ひとつのクリーム”になる」
鍋の中でとろりと揺れる黄色は、小屋の灯りに照らされて金色に見えた。
カスタードが冷えるころ、生地はふっくらと膨らみ、木鉢の中でまるで丸い胸を高くするように息づいていた。
ナオキは慎重に生地を取り出し、ダッチオーブンに移す。
鉄の蓋が閉じられた瞬間、炭火の熱が濃く伝わり、鍋底からじんわりと温度が広がっていく。
森の静けさに、パンが焼ける香ばしい匂いが溶けはじめる。
最初に焼けたのはミルガ麦のパンだった。
鉄の蓋を開けると、表面がこんがりと色づき、ひび割れから白い湯気がほわっと立ちのぼった。
まるで森の呼吸そのものが、生地の奥から溢れだすようだった。
リヴが驚いたように首をかしげる。
「……え? クリームって、焼く前に入れないの? 地球のパンはそうだったよ?」
「本来はそうなんだけど、この鍋と火加減だと難しくてな。
温度が急に上がったり下がったりするから……中身が吹き出したり、最悪破裂したりする」
「……破裂……?」
リヴの肩がぴたりと震え、胸元を押さえた。
「カスタードは水分が多いからね。温度に弱いんだ。森で作るなら……後から詰めたほうが安全で、おいしくできる」
「……そっか。うん、それならいい。なんか……“生まれる瞬間”みたいで好き」
ナオキがスプーンでカスタードをすくい、焼きたての生地へそっと流し込む。
ふかふかの生地はスプーンの重みを受け止め、小さく息をするように熱を返した。
リヴは両手でパンを受け取り、そっとかじった。
瞬間、目が細くなり、肩がほろりと落ちる。
「……森の匂い……木の実みたい……
でも、クリームが……全部やわらげてくれる……
……ああ……これ……好き……」
その声は、森そのものを抱きしめたような温度だった。
パンの熱と甘い香りが、夜の空気にゆっくり溶けていく。
続いて鉄の蓋の奥から顔を出したのは、地球の粉で作ったほうのパンだった。
ミルガ麦とはまた違う、淡い甘さと香ばしさが入り混じった匂いが、夜の空気を押し上げるように立ちのぼっていく。
ナオキが鍋の縁に布をかけ、慎重にパンを取り出すと、手に載せた瞬間――リヴは小さな声を漏らした。
「……軽い……。さっきの半分くらい……?」
ふわりとしたその重さは、まるで風そのものを抱えたようだった。
リヴは思わず両手で受け止め、その軽さを確かめるように、そっと指を沈める。
触れただけで、表面から空気が逃げるような柔らかさがある。
「これ……本当に、パン?」
「地球の粉はグルテンが多いって言ったろ?
空気がいっぱい抱えられるから、焼き上がりが軽くなるんだよ」
ナオキがそのパンに小さく切れ込みを入れると、ほとんど音もなく――裂けた。
内側は真っ白で、ふわりと湯気が立ちのぼり、焼きたての甘い香りが鼻先を優しく刺す。
リヴはそのまま、吸い寄せられるように一口かじった。
次の瞬間。
リヴの肩がふるりと震えた。
膝の力がわずかに抜け、たまらず座り込むように地面に腰を落とす。
「……なに……これ……」
声が震えている。目は大きく見開かれ、瞳が揺れた。
「噛んでないのに……消えた……
森のパンとは……全然違う……」
言葉をつむぐたび、声がほそく、熱くなる。
ナオキは少し照れたように笑いながら、けれどどこか誇らしげに言った。
「……まあ、焼きたてだからな。
パンもクリームも、“できた瞬間”ってのは……ちょっと反則なんだよ」
リヴは胸の前にパンを抱くように持ったまま、ゆっくり瞬きをする。
「……だから……こんなに……?」
「うん。時間が経つと味が落ち着くけど……
今は全部、いちばん高いところにある。
地球でもそうだったよ。焼きたては――特別なんだ」
リヴは小さく震える息を吐き、胸の奥からあふれるように言葉を落とした。
「……“いちばん”を、いま食べてるんだね……」
ナオキは地球の粉袋についた粉を軽く払って、肩を竦める。
「ミルガ麦は……銀貨一枚の味。
でも、これは……金貨一枚。
それくらい、遠い差がある味なんだよ」
リヴはしばらく黙りこみ、パンをじっと見つめた。
火の粉がふたりの間を飛び、夜気の中に小さな光を落とす。
そして――ぽつりと、首を横に振った。
「……値段じゃないよ。
世界が違うんだって……はじめて、ちゃんと分かった。
同じ“甘い”なのに……こんなに違うんだね」
胸にパンを寄せ、ふわりと微笑む。
「わたしにとっては……金貨一枚どころじゃないよ。
これは……ナオキと作った味だから」
その言葉は火のゆらぎよりも柔らかく、森の奥へすっと溶けこんでいった。
焚き火がぱちりと弾け、火の粉が夜空へ飛び立つ。
「……また作りたいね」
「もちろん。次は……クリームもっと入れてみようか」
「うん……次は、“甘い夜”にしよう」
リヴは小さく笑い、空を見上げた。
深い群青の空には星が散りばめられ、その光が静かにふたりを照らしていた。
森もまた、どこか喜んでいるようだった。
二つの世界の粉で焼いたパンの香りが、夜の深いところまで、ゆっくりと染み込んでいく。
――そして。
明日の朝も、また焼こう。
今日より少し甘い、ふたりだけの“焼きたて”を。




