揺れる馬車と森への帰路
翌朝のヴェルンは、まるで街そのものが深く寝息をつき、ゆっくり目覚めていくような柔らかさに満ちていた。東の空から差し込む光はまだ力を持ちきれず、建物の輪郭だけを淡く照らし、霧の名残が路地を細く流れ、瓦屋根の夜露を金色に震わせていた。昨日、香料商人たちの倉庫で焚かれていた香草の香りがほんのわずかに風に残っているのか、朝の空気には微かに甘い響きが混じっていた。
ヴァルター商会の前には、開店前にもかかわらず人の気配があった。通りを掃く少年が箒を動かすたび、乾いた埃がこまかな光の粒になって跳ねる。その前で、ナオキとリヴは荷物の最終確認をしていた。
リヴが手際よく積み直した革のリュックの中には、研究用に持ち帰る香草の束、油の小瓶、保存の利く乾燥肉と硬いパン、それから細工師の工房で選んだ銀のアクセサリーが、小さな布袋に収められている。どれも小さく、軽そうでいて、思い返せばひとつひとつに昨日の会話や表情が残っていた。ナオキはそんな荷物を見下ろし、苦笑をこぼす。
「……ずいぶん入れたな。重くないか?」
問いかける声は責めるものではなく、心配をそのまま形にした柔らかい響きだった。リヴは少しだけ頬をふくらませて返した。
「必要なんだよ。ほら、あの香草だってナオキが“匂いの違いが面白い”って言ったから買ったんでしょ」
「うん。そう言ったな。じゃあ……たくさん、持って帰らないとな」
穏やかに肯定されて、リヴのふくらませた頬がしゅんと笑みに変わる。ふたりで荷を整えるその様子は、傍から見れば旅慣れた相棒同士のようでいて、どこか恋人同士の出発前のようでもあった。
香草の束の影からは、小瓶がひとつ顔をのぞかせていた。昨日、ヴァルターが「珍しい香りだが、扱いには気をつけろよ」と言って渡してきた“眠りの香”だ。揺れに合わせて瓶がかすかに触れ合うたび、淡い香りがふんわりと空気に混じり、街のざわめきとは別の、静けさのかけらを運んでくる。
「おいおい、荷が倍になってるじゃないか」
いつの間にか背後に立っていた声に、ふたりが振り向く。ヴァルターが大柄な体で腕を組み、わざとらしいほどに眉を上げていた。職人たちが朝の仕込みを始める前、見送りに出てきてくれたらしい。
「すみません。見てるうちに、つい増えちゃって……でも、持てる重さですよ」
「旅人は荷が増える。珍しいものに触れりゃ、なおさらだ。だがまあ、無茶はするなよ」
ヴァルターは懐を探り、分厚い封筒を差し出した。封筒を受け取ったナオキが指で触れると、中から紙の端がこすれる音がした。預けていた金貨の控えと、新しく作られた通行許可証が収められているらしい。
「街に戻ったらまた来い。昨日は慌ただしかったからな。次はゆっくり取引しよう」
「はい。次は少し……珍しい酒を持ってきます」
言い方は控えめだが、その奥にある確信をヴァルターは逃さない。にやりと目尻を下げて笑った。
「お前さんの“珍しい”は時々とんでもないからな。うちの職人どもが騒ぐぞ」
「大げさにしないでくださいよ。でも……楽しみにしてくれたら、うれしいです」
「はは、いい面構えだ」
御者が手綱を引くと、商会の前に停められていた荷車の車輪が軋み、朝露の残る通りに音が響いた。ふたりはヴァルターの厚意で森の入口近くまで送ってもらうことになったのだ。
見送りの手を振るヴァルターの姿が、ゆっくりと朝靄の向こうに溶けていく。
荷車型の馬車は、干し草の匂いが心地よく、座面には簡素な座布団が敷かれていた。車輪が石畳を抜け、まだ湿り気のある土道に入ると、揺れは一段と強くなる。たまに腰に響くほど大きな跳ね返りが来ると、リヴは瓶を胸に抱え直し、揺れに合わせてそっと指で口元を押さえた。陽の光が瓶の表面を透過して、淡い金色の影がリヴの頬を照らす。
「ねえナオキ。この香り……少し変わってきた気がする」
「街を離れたからかな。空気も湿り気も違うし、風の流れも変わるから」
言葉を向ける声は、変化に気づくリヴの感覚をそのまま受け止めていた。
「来たときは、そんな余裕なかったんだよね。盗賊とばったりしちゃったから」
「そうだったな。でも……帰りが平和だと、気づけることが増える」
リヴはくすっと笑い、そのままナオキの腕を指で小さくつついた。
「そういうところ、ナオキだなって思う」
その声は照れとも安心ともつかない響きを含んでいた。馬車は大きな石畳を抜け、丘の手前に差しかかる。そこからは風景が大きく変わり、麦畑が広がる地帯に入る。風が穂を撫でるたび、麦が波のように揺れ、光が滑っていく。
「……改めて思うけどさ、揺れるね」
「うん。こういう跳ね方は、地球でも昔あったよ。馬車の揺れを抑える工夫がされてて、鉄のバネを使ったり、革の帯で支えたり」
「そういうの、この世界にもあったらいいのに。魔法でどうにかできるなら、なおさら」
「考えてみるよ。道具に頼れない場所もあるし……腰を守るのは大事だしね」
淡く笑うナオキに、リヴは嬉しそうに小さく息を弾ませる。その拍子に、抱えていた瓶が太陽の下できらりと光った。香りがふんわりと宙へ広がり、草原の匂いとそっと重なる。街の濃い香りが薄れ、代わりに草と土の素直な匂いが鼻先に届く。
「……帰ってきてる途中って、匂いでわかるんだね」
「うん。風が森の方へ流れ始めてる」
リヴはひとつ深く息を吸い込み、胸の奥でゆっくり温度を変えるように吐き出した。
午後、森の入口が視界に入った。木々の影が地面に柔らかく落ち、日差しの色が街より少し冷たく感じられる。馬車は林の手前で止まり、御者が振り返る。
「ここまでだ。南のほうで狼が出たって噂だ。気をつけてな」
「ありがとう」
ナオキは銀貨を渡し、積んでいた荷を肩に担いだ。土の地面に足を置いた瞬間、馬車の揺れで張りつめていた体がすっと戻るような、静かな解放感が広がった。
リヴの髪が森から吹いた風にふわりとなびく。ヴェルンで買った布のスカーフが柔らかく揺れ、木漏れ日の光を受けて淡く色を変えた。
「……また来ようね」
「うん。次は甘いもの、たくさん持ってくるよ」
「クリームパン?」
「それは……持ち歩くにはちょっと弱いな。森まで耐えてくれないかもしれない」
「じゃあ森で作ろうよ。森の酵母で、ふかふかのクリームパン」
「発酵してくれるといいけど……リヴが言うなら、森が手伝ってくれそうだ」
リヴは満足そうに笑う。遠ざかっていく馬車の音が、土道の向こうに溶けるように消えていった。
森の入口に立つと、一息で空気が変わる。草と土の匂いが一気に濃くなり、街とはまったく違う静けさが足元から広がった。
リヴは背伸びをして、胸いっぱいに森の空気を吸い込む。
「……やっぱり、こっちの匂いが好き」
「うん。俺も」
ナオキはリュックを背負い直し、森の小径へそっと目を向ける。指が自然と指輪へ伸び、光がふわりと揺れた。《護りの指輪》の柔らかな輝きが、葉の陰でひっそりと息づいていた。
「さて……帰ろうか」
「うん。森が待ってる」
ふたりは肩を並べ、緑の奥へゆっくり歩き出した。街の香りはもう遠く、代わりに湿った土の息づかいが、足元から静かに満ちあふれていく。
どこかで鳥が鳴いた。ふたりの帰還を知らせる合図のように、森全体へ澄んだ声が広がっていった。
森へ踏み入れて数分も歩くと、空気はさらに澄み、街では感じられない温度の揺らぎが体にまとわりついた。木の葉が重なる音が静かに遠ざかるようで、足音さえ柔らかく吸い込まれていく。何度も通ったはずの道なのに、帰ってくるたび違う表情を見せる不思議がある。リヴは枝葉の間から差し込む光を目で追い、胸の前でそっと瓶を抱え直した。
「……森の匂いって、帰ってきたっていう感じがするね」
「そうだな。最初の頃より、余計にそう感じる。俺だけの感覚なのかと思ってたけど……リヴも同じならうれしい」
「同じだよ。だってナオキと一緒に歩いた森だもん。いろんなこと、ここで覚えたよ。木の音とか、風の通り方とか」
「うん。リヴのほうが、俺よりずっと森を知ってるけど……こうして同じ空気を吸って、同じものを見てるのは、なんか安心するな」
その言葉を受けて、リヴは少し照れたように俯いた。胸の中で抱えている小瓶が淡く揺れ、香りがひと筋、森の匂いと混ざって流れる。
「ナオキって、そういうこと……ちゃんと言うんだね」
「言っておいたほうがいいと思ってさ。言葉にし忘れてると、後悔することあるし」
リヴは一瞬だけ目を丸くし、すぐに柔らかい笑みになった。その“驚きからの安心”が、ナオキの胸にもそっと温度を残した。
小径を進むうちに、枝葉が低く垂れた場所をいくつも抜けていく。リヴはひょいと体を傾けてかわし、ナオキが荷物を庇うように支える。そんなやりとりが自然に続き、ふたりの呼吸はゆっくりと森のリズムと重なっていった。
しばらく歩いたところで、小さな開けた場所に出た。森の匂いがさらに濃く、湿った土の香りがほんのり甘い。枯れ葉が風に転がり、鳥が頭上を横切った。
「少し休む?」
「うん。ちょうど考えてた」
リヴが腰を下ろし、瓶をそっと膝に乗せる。ナオキも横に座り、ゆっくり深呼吸をした。耳の奥で木々のざわめきが重なり、旅の疲れが静かにほどけていく。
しばらくそのまま座っていると、リヴが手にした瓶を指でなぞった。
「ねえナオキ。この香り、もう少し薄くなる気がする」
「森の匂いが強いからかな。混ざると、そういう変化があるのかも」
「なんだか……眠くなるような、落ち着く感じがする」
「昨日、ヴァルターが“扱いに注意しろ”って言ってたな。でも、こうして森で嗅ぐと優しい香りに変わるんだな」
リヴは瓶を胸に抱き、うとうとするようにまぶたを閉じた。ナオキはその様子を見守りながら、心のどこかで静かに“この平和が続いてほしい”と願った。ほんの数日前、盗賊に遭遇した緊張が嘘のように、森は穏やかで、風は柔らかかった。
やがてリヴが目を開け、そっと空を見上げる。
「……森に帰ってくると、なんかね、体の奥がほっとするの。街も好きだけど……やっぱり森は特別」
「うん。リヴにとって大事な場所なんだろうな。それを一緒に感じられるのは……ありがたいよ」
「そういう言い方、ずるいよ……」
リヴは照れ笑いし、肩を軽く寄せてくる。森の空気がふたりの間をふわっと包み、優しい温度だけが静かに残った。
休憩を終えて再び歩き始めると、木々の隙間から見覚えのある形が見えてきた。森の奥、ふたりが使っている簡素な小屋だ。まだ遠いが、そこに向かう道は歩き慣れたものだった。
「もうすぐだね」
「うん。家が見えると、なんか……旅が全部ふわっと軽くなる」
「ふふ、ナオキがそう言うの珍しい」
「この森にいると、思ったことがそのまま出てくるみたいだな」
歩幅が自然と揃い、小屋へ向かう足取りが軽くなる。途中、木の幹に刻まれた古い爪痕を見つけ、リヴが小声で言った。
「……これ、たぶん狼だよね」
「新しくはないけど……南のほうで噂があったし、気をつけて帰ろう」
「うん。でも……ふたりなら、大丈夫だよね?」
「大丈夫。リヴと一緒なら、どんな道でも帰ってこられる」
その瞬間、リヴの耳がほんのり赤くなった。ふたりだけの秘密のように、小さな笑みを浮かべる。
小屋が近づくと、乾いた木材の匂いが風に乗り、ふたりを迎えるように漂ってきた。季節が変わりつつあるせいか、草の香りもどこか甘い。
入口に立ったリヴは、胸の前の小瓶を見つめた。
「……この香り、家に帰ってくる道の匂いと混ざるの、いいね」
「うん。きっと、森が少し香りを変えてくれたんだろうな」
「ねえ、またヴェルンに行こうね。甘いものも、香草も、いっぱい買って……次はもっと余裕もって歩きたい」
「うん。次は急がない旅にしよう。のんびりして、街のパンもゆっくり選んで……森にもゆっくり帰ってこよう」
リヴは嬉しそうに頷き、小屋の扉に手をかけた。その仕草ひとつにも、帰ってきた安堵と、次の旅への期待が滲んでいた。
扉を開けると、森の匂いが混ざった静かな空気が迎えてくれる。家と呼ぶにはあまりにも簡素な場所なのに、ふたりが積み重ねてきた時間がそこに詰まっていた。
「……ただいま、ナオキ」
「うん。帰ってきたな」
ふたりが小屋に入ると、木漏れ日がそっと床を照らし、昼の光が柔らかく揺れた。
外では鳥がひとつ鳴き、風が枝を揺らす。まるでふたりの帰還を祝うかのように、森が静かにざわめいていた。
そして、日が傾くころ。
香草と干し草の匂いが混じった小屋の中で、ふたりは荷を解き、一日をゆっくりと閉じはじめた。森へ戻るたび、思い出がひとつ増え、気づけばその全部がふたりを繋ぐ道になっている。
どれほど旅を重ねても、この森、この帰り道、この小屋へ戻る時間は、きっと変わらず大切なままなのだと……ナオキは胸の内でそっと思った。
窓の外で夕風が吹き、森がひときわ深い音を立てた。
その静けさに包まれながら、ふたりの新しい日が、静かに始まっていく。




