眠りの香と魔素
翌朝のヴェルンは、柔らかな光に包まれていた。
霧はもう消え、屋根の上では鳩たちが羽を休めている。
街の始まりを告げるように、どこかの店で木戸の開く音がした。
ナオキとリヴは、昨日と同じ執務室の扉を押した。
香辛料と革の匂いがかすかに混ざり、商会の朝らしい静けさが漂っていた。
「明日には森へ戻るつもりです」
ナオキがそう告げると、ヴァルターは驚いたように眉を上げた。
「ほう。思ったより早いな」
「森の拠点を整え直したくて。実験装置もそのままなので」
「仕事熱心だな」
ヴァルターは苦笑し、机の上に置かれた小瓶へ視線を移した。
「森に戻る前に、ひとつ見てもらいたいものがある」
並べられた小瓶は三本。
ひとつは琥珀のように濃く、
ひとつはやわらかな金色、
最後の一本はほとんど透明で、光を吸い込むように静かだった。
「これが通常の抽出香。高温で煮出したものだ」
ヴァルターは淡々と説明を続ける。
「これが油に香を閉じ込めた香油。そして――これが“酒精抽出”だ」
「酒精……?」
ナオキが小首をかしげる。
「ああ。蒸留した酒に香草を沈め、火を使わず香りを抜き取る。
油をわずかに混ぜ、香の輪郭を壊さずに仕上げた」
ヴァルターは一本目の栓を抜いた。
その瞬間、濃い花の香りが部屋を満たす。
ひと呼吸で胸いっぱいに広がる、強くて華やかな匂い。
「これが高温抽出。香りは強いが、飛びやすい」
二本目――金色の香油。
香りは柔らかく、蜜のような甘さがあった。
リヴは目を細めて微笑む。
「……優しいね。疲れが取れる感じがする」
「油で吸わせた香は長持ちする。貴族が好むのはこのタイプだ」
そして三本目。
透明な瓶の栓が、ヴァルターの慎重な手でわずかに開けられた。
次の瞬間、空気がひやりと変わった。
甘くもなく、草でもない。
静かに吸い込むたび、眠りへ引きずられるような香りがした。
「……これ……」
ナオキが瓶の口に近づいた瞬間、視界がふっと揺らいだ。
頭の奥がじわりと痺れ、膝の力がわずかに抜ける。
「おっと、すまん!」
ヴァルターが慌てて栓を閉じる。
「少し強すぎたかもしれん。体質に合わないのだろう」
「ナオキ!」
リヴがすぐに腕を支えた。細い指が、彼の手首をぐっと掴む。
「大丈夫……?」
「……ああ。ちょっとくらっとしただけ」
そう答える声は穏やかだが、息がわずかに乱れていた。
「すぐ横になったほうがいい」
ヴァルターが扉の向こうへ声をかける。
「部屋を用意させる。休んでもらえ」
*
気づいたとき、柔らかな寝具の上だった。
窓辺のカーテン越しに朝の光が落ち、鳥の声が遠くで響く。
胸の奥に残る眠気が、まだ体に溶けていた。
「……起きた」
ほっとした声が耳元で揺れた。
椅子に座るリヴが、ナオキの額に湿った布を置いたところだった。
眉が心配で寄っている。
「あなた、完全に寝ちゃったんだよ」
リヴは布をそっと押さえながら言った。
「……悪い。あんな反応が出るとは思わなくて」
ナオキはゆっくり上体を起こし、深く息を吐く。
まだ少し重さはあるが、意識は澄んでいた。
(高温抽出では何も起きなかった。
油の香は心地よかった。
けれど酒精抽出だけ、眠りのような感覚が出た……)
(……たぶん、“香草の中の何か”がこの世界の空気と混ざり、
熱では消えず、低温のまま残る……そんなところかもしれない)
思考を巡らせつつ、ナオキはふっと笑う。
「でも……いい香りでした。森への土産にしたいくらいだ」
「その言葉、うれしいな」
扉の向こうからヴァルターの声が響いた。
「瓶ごと持っていくといい。次に来たとき、感想を聞かせてくれ」
「ありがとうございます。みんな喜びます」
リヴがそっと袖を引く。
不安を隠しきれない瞳。
「ナオキ……今日は、もう少し休んで?」
「そうだな。……明日、森に帰ろう」
窓の外には、遠くに森が広がっていた。
その緑の向こうで風が枝を揺らし、
街の香りと混じった草の匂いが、ゆっくりと部屋へ流れ込む。
ナオキはその心地よい風にまかせるように、再び目を閉じた。
森へ続く道の先に、またひとつ新しい香りが待っている気がした。
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