市の香りと護りの指輪
ヴェルンの街に朝が訪れた。
霧が晴れ、石畳を洗うように光が流れ込む。
昨日までの実験の熱がまだ残っているのか、商会の煙突からは細く白い煙が上がっていた。
ナオキとリヴは、ヴァルターの案内で商会の執務室にいた。
机の上には革袋が三つ。ずしりと重く、鈍い音を立てている。
「これが報酬だ。金貨で百枚――いや、百二十にしておこう。
うちの商会の百年分の儲けになるかもしれんからな」
ヴァルターが笑いながら言う。
「そんな、大金すぎますよ」
その瞬間、リヴが目を丸くして固まった。
「き、き、金貨……ひゃ、ひゃくにじゅう!?
そんなの、村ひとつ買えるじゃない!」
革袋の中の金属音が、彼女の鼓動みたいに響いた。
ナオキは苦笑して肩をすくめる。
ヴァルターは手を叩いて笑った。
「持ち歩く気か? 森の中で金貨百枚なんぞ、盗賊を呼び込むだけだ」
そう言って引き出しから厚い帳簿を取り出し、金額と名前を書きつける。
「ここに預けておけ。商会の信用をもって保管しよう。
取引が増えれば、利息の形でも返せる」
ナオキは頷き、リヴと顔を見合わせる。
「……預けます。俺たちは旅の途中ですから」
「賢明な判断だ」
ヴァルターは懐から封筒を取り出した。
赤い封蝋には“秤と麦穂”の印――ヴァルター商会の紋章が刻まれている。
「それとこれを渡しておく。商会の“紹介状”だ。
門番に見せればどこの街でも通れる。
もし検問や関所で止められたら、これを見せろ」
リヴが驚いたように目を見開いた。
「通行証……それって、王都の商人でも持てないものじゃ?」
「うちの印なら通る。大商会の名は、信頼と同じだ」
ヴァルターはそう言って微笑む。
その日の午後、二人は街を歩いた。
霧が晴れたあとの石畳は、陽を受けて白く輝き、屋根の影が網のように重なっていた。
露店からは香草と油の匂い。パンの香りに、焼き鉄の金属音が混じる。
「思ったよりも活気ある街だな……」
ナオキは周囲を見回しながら言った。
治安は悪くない。だが通りの角には衛兵が立ち、時おり貧民の少年たちが人混みに紛れている。
この街の表と裏――その両方が同じ陽の下にある。
通りの先には、装飾職人の露店が並んでいた。
銅や銀の小物に、魔石の欠片を埋め込んだ指輪や護符。
どれも、旅人が好みそうな“お守り”の類だ。
「この指輪……風の印?」
リヴが手に取ると、職人が頷いた。
「旅人に人気さ。風の理を刻んでる。盗賊避け、病避け、嵐除け。
信じるかは人それぞれだがね」
ナオキは興味半分で魔石の部分を覗き込む。
透明な石の奥に、微細な渦のような紋があった。
リヴが小声で言う。
「……魔力を感じる。微弱だけど、気配を散らす効果がある」
「本物、ってことか」
「うん。ちょっとした護りくらいは」
ナオキは一瞬だけ迷ってから、銀貨を出した。
「これ、買おう。……お守り代わりに」
リヴは照れたように笑い、指にはめる。
「似合う?」
「……ああ、風が似合うよ」
リヴが一瞬だけ頬を赤らめた。
その横で、ナオキの耳には遠くの鐘の音が届く。
昼の鐘――街の暮らしが脈打つ音。
そのあと、香草と蜜の香りに誘われて、ふたりはパンの屋台へ足を止めた。
表面に香草を散らした平たいパンが、鉄板の上でこんがりと焼かれている。
「保存食じゃないパン、だよね?」
「だな。宴や日常の食用。水分多め、香草入り……
地球パンなら“フォカッチャ”に近いかも」
「フォカッチャ?」
「うん、オリーブ油と塩で焼く平たいパン。香りで食べるやつ」
「へえ、名前も美味しそう」
リヴは銅貨を出し、ひとつ買った。
焼きたてをちぎると、湯気とともに緑の香草の香りが立ちのぼる。
「……うんっ! 外カリ、中ふわ!」
「うまいな。……地球より塩気が強いけど、火加減が絶妙だ」
焼きたての香草パンを食べながら、二人は人通りの少ない裏通りを歩いた。
リヴはパンの欠片を指先で摘み、嬉しそうに頬をほころばせる。
「おいしいけど……やっぱり、クリームパンにはかなわないね」
ナオキは苦笑してうなずいた。
「そりゃそうだ。地球のパンは科学技術の結晶だからな。
とりわけ日本のパンは――異次元だよ」
「いじげん?」
「ふかふかで、甘くて、軽くて……“空気までおいしい”って感じ」
「そんなの、反則だよ」
リヴが笑い、ナオキもつられて笑った。
その笑い声が石畳に反響して遠ざかる。
風の指輪が微かに光り、二人の間を柔らかな風が通り抜けた。
「……この匂い、好き。森のパンとは違うけど、懐かしい感じがする」
「香草と油、それに麦の焦げる匂い。
地球でも昼の街角はこんなだった」
「ねえナオキ、また焼こうよ。森で作った“ふかふかパン”、あれ、私好き」
「キノコ酵母のやつか? あれはもう完全に“こっちのパン”だな」
「うん。でも――“天上の菓子”にはまだ届かない」
リヴが笑う。
「クリームの、あのやわらかい甘さ。いつか、あれを自分で作りたい」
ナオキは少し考えてから、肩の荷を下ろすように言った。
「……じゃあ、森に帰ってからやってみよう。
ミルクと卵、それに砂糖があれば――“再現実験”ができる」
「ほんとに?」
「この街じゃ材料がすぐ傷む。卵も乳も数日が限界だ」
「じゃあ、森に戻ってから?」
「うん。森の拠点なら冷気もあるし、ポータルで地球に戻れば冷蔵庫も使える。
それに――リヴの酵母もある」
「キノコ酵母で? あの、森の香りがするやつ?」
「そう。あれを“甘いパン”に使ったら、どんな風になるか試してみたい」
「きっと……森と天上が混ざった味になるね」
二人は顔を見合わせ、微笑んだ。
通りを吹き抜ける風が、護りの指輪をやさしく揺らす。
それはまるで、“次の旅路”を祝福する風のようだった。




