第5話:綺麗な布と、壁を抜ける男
4畳間のウロの中は、隅に置かれた謎の光る道具によって、ぼんやりと明るかった。
準備を終え、ナオキは少女のそば、ブルーシートの上に距離を取って座り込んだ。金属バットを手の届くところに置き、彼女が目を覚ますのを待った。
どれくらい時間が経っただろうか。
ランタンの光の中、ベッドの上の少女が「……ぅ」とうめき声を上げ、ゆっくりと目を開いた。
少女の目が、数回まばたきをした。
見慣れない木の天井、自分の体が柔らかい寝袋の上にあること、そして部屋の隅で淡く光る謎の道具に、彼女の目が混乱で見開かれる。
彼女は自分の足に巻かれた、異様な感触に気づいた。
そこには、見たこともないほど真っ白で、清潔な「綺麗な布」が巻かれていた。
次の瞬間、彼女の視線が、ウロの隅に座るナオキを捉えた。
「――ッ!!」
少女は即座に起き上がろうとしたが、足に走る激痛に「ぐっ!」と顔を歪め、動けない。
自分の武器(弓矢)が近くにないことを確認し、代わりにナオキの手元に金属バットが置いてあるのを見て、彼女の表情が絶望と警戒に染まる。
「%#$&’!!」
負傷した獣のように、少女はナオキに向かって必死に何かを叫び、威嚇する。もちろん、ナオキには一言も理解できない。
「わ、わ、待て!落ち着け!」
ナオキは即座に両手を上げ、ゆっくりと立ち上がった。
少女がビクッと身構える。
ナオキは敵意がないことを示すため、手の届くところにあった金属バットを掴むと、ウロの「森側の出口」のほうへ、カラン、と音を立てて転がした。
「敵じゃない。安全だ」
言葉が通じるはずもないのに、ナオキは必死に声をかける。
彼は準備しておいた「スケッチブック」と「鉛筆」を取り出した。少女が「それは何だ」と訝しげに見つめる前で、ナオキは拙い絵を描き始めた。
まず、少女(らしき人)が森で倒れている絵を描き、×印をつける。
次に、ゴブリン(らしき怪物)の絵を描き、敵だ!と危険な仕草をする。
次に、ナオキ(らしき棒人間)が、少女の足に包帯を巻いている絵を描く。
最後に、このウロ(木の穴)の絵を描き、丸(○)をつけて、安全だ、という仕草をした。
そして、ウロの隅の物資の山から「ペットボトルの水」と「カロリーブロック」を取り出し、彼女のベッドから2メートルほど離れた床に、そっと置いた。
少女はナオキの拙い絵とジェスチャーから、大まかな状況(ゴブリンから隠れ、治療された?)を、かろうじて理解したようだった。
だが、彼女の目から警戒と不信は一切消えない。
こいつは何だ? なぜ私を助ける? 罠か? 奴隷商か? この食料に毒は?
そんな疑念が、彼女の鋭い視線から伝わってくるようだった。
ナオキが、これで少しは落ち着くか、と息をついた瞬間。
少女はナオキの隙を見て、負傷した足の激痛をこらえ、ベッドから這い降りた。そして、ウロの「森側の出口」に向かって、床を這いずろうとした。
「おい!待て!バカ!」
ナオキが慌てて彼女の前に立ちはだかる。
少女はナオキが襲ってくると身構え、負傷した獣のようにナオキを睨みつけた。
「違う!」
ナオキは必死にジェスチャーで訴えた。
スケッチブックの新しいページを開き、急いで描く。
「足の傷の絵」→「外の絵(ゴブリン?)」→「巨大なバツ印(×)」
そして、ナオキは自分の首を掻っ切る仕草をして「死ぬ!」と叫んだ。
彼は少女の足の包帯を指差し、「まだダメだ」「動くな」と強く首を横に振る。
少女の動きが止まった。
ナオキの必死の形相から、外に出れば「死ぬ」ということだけは伝わったらしい。
彼女はしぶしぶベッドに戻ったが、その鋭い目つきは、ナオキを睨みつけたまま離さない。
緊迫した睨み合いが、どれくらい続いただろうか。
数時間が経過し、ウロの中はランタンの光だけが二人を照らしていた。
ナオキは、アパート側でトイレを済ませてくるのを忘れていたことに、今更ながら気づいた。強烈な尿意が、下腹部を圧迫し始めていた。
(ヤバい、トイレ行きたい……!)
ナオキは葛藤した。
こいつが起きてる前で、どうやってアパートに戻る?
あの壁に向かって消えるところを見られたら?
かといって、こいつを気絶させるわけにはいかない。怪我人だ。それに、次に目を覚まし時、完全に敵対される。
かといって、こいつが寝るまで待つ? 無理だ、さっきから睨みっぱなしで寝る気配がない。膀胱が……限界だ。
ナオキは意を決した。
彼は少女に対し、「動くな」と強く手のひらを向けて見せる。
そして、少女が固唾を飲んで見守る中、意を決して『32型』(少女から見ればただの木の壁)に向かって歩き、そのまま壁に吸い込まれるように消えた。
少女の目が、恐怖と混乱に凍りついた。
消えた……? 壁に? 幽霊? 魔法使い? 幻覚か?
少女が壁を触ろうかと迷っていると、約1分後、ナオキが同じ壁から、何もない空間から現れた。
彼はトイレを済ませ、ついでに新しい水を持ってきた。
少女は、さっきまでの「警戒」や「敵意」よりも、明らかに「恐怖」と「畏怖」の表情を浮かべ、ベッドの上でナオキから距離を取ろうと後ずさった。
ナオキは少女のその反応を見て、内心で呟いた。
(クソっ、見られた……! 俺がアパートに戻るところを)
(でも、これでよかったのかもしれない)
(こいつが俺を「得体の知れないヤツ(壁を抜けるヤツ)」と恐れてくれれば、下手に襲いかかってくるリスクは減る)
ナオキは、ポータルの存在(少女から見れば壁抜け)がバレてしまったことを、逆に「威嚇」の材料として利用することに頭を切り替えた。
彼は何も言わず、ウロの隅からカセットコンロと小さな鍋、レトルトのお粥を取り出し、火をつける準備を始めた。
少女は、足の怪我(動けないという現実)と、目の前の「壁を抜けて火を(ライターなしで)起こす不気味な男」を天秤にかける。
彼女は、少なくとも「傷が治るまで」は、この「不気味だが敵意は(今のところ)ない男」の監視下で、この「安全なウロ」に滞在するしかないと判断したようだった。
ナオキが温かいお粥を器に入れ、ベッドのそばに置いた。
さらに、さっき床に置いたペットボトルの水を指差し、「飲め」とジェスチャーした。
少女は、まず水に手を伸ばした。
喉がカラカラだったのだろう。彼女はペットボトルを掴むと、蓋を……どう開けるのか分からない、という顔で固まった。水筒でも皮袋でもない、奇妙な透明な容器だ。彼女は蓋を力任せに引っぱってみるが、ビクともしない。
ナオキはそれを見て、慌てて自分の手を(ジェスチャーで)ひねってみせた。「こう、回すんだ」と。
少女はナオキの動作を睨みつけ、真似するように蓋を掴んでひねった。
カチッ、と乾いた音を立てて蓋が回る。
少女はビクッと肩を震わせたが、蓋が外れたことを確認すると、ためらいがちに一口、口に含んだ。
その瞬間、彼女はわずかに顔をしかめた。
(……ん? 不味かったか?)
ナオキは彼女の反応を見逃さなかった。
(ああ、そうか。森の天然水と違って、こっちの水はカルキ臭いのか……)
少女は、その不味そうな(薬臭い?)水を飲み下すと、次に温かいお粥に手を伸ばした。
ナオキを睨みつけながらも、震える手でその温かい食べ物を、ゆっくりと口に運び始めた。




