ヴァルター商会――甘味の契約
扉を押し込むと、頭上で真鍮の鈴がやわらかく震えた。
外の喧騒が一瞬で遠ざかり、静寂が店内を満たす。
きちんと磨かれた木床が、踏みしめるたびにわずかな光を返し、棚には瓶詰めの香辛料がぎっしりと並んでいた。
どれも丁寧にラベルが貼られ、同じ角度で揃えられている。
奥の方では、羽根ペンが紙を擦るやわらかな音が続いていた。
そのリズムが不思議と落ち着きを与える。
店番の青年が気配に気づき、顔を上げた。
「いらっしゃいませ……あれ? ハーフエルフの方ですか?」
一瞬、驚きが青年の目に浮かんだ。
けれど商人の矜持なのか、それをすぐに沈め、穏やかに会釈してみせる。
「ご用件を伺ってもよろしいでしょうか」
「ヴァルターさんにお会いしたいの。リブネ・モーアと申します」
名乗った瞬間、青年の目がわずかに見開かれた。
それは“知っている名だ”という反応だった。
「……失礼いたしました。少々お待ちください」
青年が奥へと姿を消した後、店内には香辛料の温かな香りとインクの匂いが混ざり、静かに漂っていた。
ナオキは棚のラベルを眺め、眉を上げる。
「……手書きでここまで揃えてるんだ。線まで同じ太さで書けるものなのか」
「商会の帳簿係はね、魔法より怖いのよ。数字と字面が乱れると、徹夜で書き直し」
リヴは小さく笑ったが、その声の奥には緊張が隠れていた。
ナオキはそれにすぐ気づき、そっと隣に立つ距離を縮めてやる。
そのとき、奥の扉の向こうから低く響く声が漏れてきた。
「……ハーフエルフのリヴだと?」
胸に響くような重い声だった。
ナオキがそちらに視線を向けると、リヴは小さく息を吸い込み、胸元を押さえた。
たったそれだけで、彼女がどれほど緊張しているかが伝わった。
やがて扉が開き、香料と革の香りをまとった大柄な男が姿を現した。
背が高く、銀混じりの髪を後ろで束ねている。
灰色の瞳は鋭いが、どこか深い影も宿していた。
「……やはり君か。久しいな、リヴ」
その声には驚きと、わずかな安堵が混じっていた。
リヴは姿勢を正し、そっと微笑を浮かべる。
「ご無沙汰しています、ヴァルターさん。今日は……取引の話で伺いました」
ヴァルターの眉が、ほんの少しだけ持ち上がった。
「ほう。取引とは珍しい。以前は、逃げるように姿を消したというのに」
「ええ。今回は逃げません。……彼と一緒だから」
そう言ってリヴがナオキに視線を向ける。
その一瞬だけ、彼女の瞳が頼もしさを宿したのをナオキは見逃さなかった。
「ナオキと申します。技術を担当しています」
「技術、か。実に曖昧だが……商人の世界では嫌いじゃない肩書きだ」
ヴァルターの目が、値踏みするようにわずかに細まる。
だが険しさではなく、興味がにじんでいた。
「では聞こう。この商会は“言葉より物”を信じる。何を持ってきた?」
ナオキはリュックから金属缶と木箱を静かに取り出した。
それらを机に並べ、ふたを開く。
木箱の中には、均一な大きさに切り揃えられた角砂糖がぎっしりと詰まっていた。
白く、淡い光を返し、寸分の狂いもなく揃っている。
「これは……前にリヴが置いていった角砂糖か」
ヴァルターの眉がかすかに動いた。
重役級の商人が初めて見るものではないが、ここまで整った形は異様だった。
「精製砂糖でさえ王都の貴族にしか回らんというのに……形を整え、そろえるなど職人技どころの話ではない」
「火加減と型があれば誰でも作れますよ。でも、熱の扱いと時間の見極めは……失敗すると一気に砂に戻ります」
「つまり、再現が極めて難しいということだ」
ヴァルターは角砂糖をひとつ手に取り、軽さを確かめるように指で弾いた。
その表情に、商人特有の静かな熱が宿る。
「これは……いい。持ち運びやすく、割って量を調整できる。王都で出せば金貨が動くぞ」
ナオキは続けて金属缶を開いた。
中には、宝石のような色を宿した果実飴が整然と並ぶ。
赤、橙、淡い緑、琥珀色。光の角度で輝きが変わる。
ヴァルターの視線が缶そのものに移る。
「この入れ物……鉄か? いや、それより軽い。なのに丈夫だ。蓋のここ、描かれているのは……果実の絵か? 本物に見える」
「塗装と印刷を合わせてます。湿気にも衝撃にも強いんです」
ヴァルターは手のひらで缶を転がし、低く唸った。
「容器だけでも価値がある……職人では真似できん」
リヴが一歩前に進み、言葉を継ぐ。
「中身は角砂糖をさらに加工したもので、果汁を煮詰めて香りと甘みを閉じ込めています。
保存がきいて、薬草と合わせると咳止めにもなります」
ヴァルターは飴をひと粒つまみ、光に透かし、口に含んだ。
その瞬間、目が見開かれた。
「……これは……香りが層になっている。
果実の甘み、蜜のコク、そしてほんの少し焦がしたような熱の香りまで」
「加熱温度を変えると甘さに深みが出ます。ただ……説明すると長くなるので」
ナオキは穏やかに笑った。
ヴァルターも口の中の飴を転がしながら、ゆっくりと笑う。
「……まいった。口の中が祭りだ」
「でしょう? 甘いものは、言葉より先に伝わります」
リヴはその様子に小さく胸をなでおろした。
だがヴァルターはふいに真顔に戻り、二人を鋭く見据えた。
「……だが、これは同時に危険でもある。
“甘さ”は富を動かす。富が動けば、必ず誰かの怒りを買う」
その言葉に、リヴがわずかに肩を震わせた。
ナオキはその震えを見逃さず、そっと手を添えた。
「わかっています。でも、これは“分け合う”ための甘さです。
疲れた人にも、遠くの人にも届くように。独り占めするためのものじゃない」
「分け合う、か。商売では最も危険な言葉だが……嫌いではない」
ヴァルターは飴の缶を閉じ、深々と頷いた。
「角砂糖は王侯向け。飴は選ばれた顧客向け。……それなら扱える。
うちの名で売ろう。独占契約でどうだ?」
ナオキは静かに微笑した。
「まずは条件を聞かせてください。それから判断します」
「気に入った。……やはり君たちは、森から来た風変わりな商人だ」
その言葉に、リヴはようやく深く息をつき、ほっと笑った。
緊張で強ばっていた指先が、ほんの少しだけナオキの袖をつまんだ。
香辛料の香りと甘味の余韻が混ざり合う室内で、
二人にとって異世界での最初の契約が――静かに幕を開けようとしていた。




