森を抜けて
ナオキはリュックの肩紐をきゅっと引き寄せて、森の空気をひと口だけ肺に入れた。
胸の奥まで届く冷たさが、これから先の道の長さを静かに告げている。
朝の森は、昨夜の湿り気を少し残している。葉先から落ちる水滴が、どこかで小さく弾けた。音の少なさが、かえって森の広さを意識させた。
「出発前の最終確認。薬草軟膏、干しキノコ、乾パン、カロリーブロック、飴、石鹸、圧縮タオル、包材サンプル、折りたたみバケツ、火種、ライター、方位磁石……そんなところかな」
自分に言い聞かせるように読み上げながら、ナオキは指先でひとつひとつ触れていく。
失敗できない。森での一泊は、今の自分たちにはただのイベントじゃない。
街までたどり着けるか、そこで商品を形にできるか――生活の先行きまで、この荷物に少し乗っていた。
「ねぇ、それだけあれば本当にどこでも生きていけちゃうよね。少し怖いくらい」
リヴが笑い混じりに言う。けれど、その目は荷物の中身をちゃんと追っていた。
「道具があっても、最後は運と……君の魔法が頼りだよ」
冗談めかして付け足しながら、ナオキは息を吐いた。
運と魔法。そのどちらも、自分の手では直接握れないものだ。
リヴは肩をすくめて笑い、指先を軽く上げた。
空気がふるりと震え、淡い光の輪が森の奥へ溶けていく。
「キャンプ魔法《魔力波ソナー》。百メートル以内に敵性反応なし」
「それを一瞬でやれる時点で、この世界の魔法レベルは君が頭ひとつ抜けてるよ」
「“わたしの魔法”だし」
照れ混じりに言いながら、風に髪を揺らす。
その動きが木漏れ日の粒と混ざり、少し非現実な光景になった。森の色よりも、リヴの輪郭のほうが鮮やかに見える。
「魔力は説明しようとすると消えちゃうから、科学さんには降参してもらう」
「科学さんは、分からないものは『あとで考える』って棚に置いておくから大丈夫」
「へんな棚が増えそう」
リヴが笑い、ナオキも肩の力を少しだけ抜いた。
二人は歩き出した。
リヴの展開した見えない防壁が風に乗り、木々の葉をそっとゆらす。
ナオキの手には地球産の小さなコンパスがあった。
「見て。ほら、針が迷わない」
「これは感覚よりずっと正確だからな」
「普通は太陽とか星とかで方角を読むのに……ほんと、ナオキの世界の道具って全部“正確すぎる”」
「感覚より数字を信じる文化だからね。迷ったとき、誰かの勘じゃなくて“同じ針”を見ようとする」
「だから、こっちの人からするとちょっと冷たく見えるのかな」
「かもな。でも、こういうときは頼りになる」
森は驚くほど静かで、鳥のさえずりさえ遠かった。
揺らぐものが少ないからこそ、小さな異変があればすぐ目につく。
今日は――何も起きないでくれ、とナオキは心の中でだけ願う。
ナオキが地面に目を向けると、リヴがすぐに理解したように頷く。
「《土成形》《密閉》」
土がゆっくりと盛り上がり、半球形のドームが姿を現した。
湿り気も冷気も遮断する、純粋な土の小屋。
内側の空洞が形成されていく気配を、足裏がかすかに伝えてくる。
その滑らかな曲線を見て、ナオキは苦笑した。
「なんだかもう、野戦科学研究所みたいだ」
「名前だけで強そうなんだけど。ここで変な薬とか爆発とか作らないでね?」
「……火薬類は持ってきてないから大丈夫」
本当に持ってきているのは、小さな希望と、かろうじて支払える生活費だけだ。
ナオキは周囲に赤外線センサーを四つ設置していく。
掌ほどの小さな装置が規則的に点滅し、リヴの目が丸くなる。
「これ、この間作ってたやつ?」
「熱を拾うから、人でも獣でも近づけば反応する。夜の見張り代わりだ」
「つまり、安心して眠れる……ってこと?」
「たぶん。俺が眠れないときの保険でもある」
「……そっちのほうが大事かも」
リヴが少しだけ真顔になり、それからまた笑った。
「理屈の上では、だよ」
「また理屈~」
リヴが笑い、ナオキも笑った。
笑い声が小屋の内側に反響し、思ったよりもあたたかく響いた。
その空気のまま、夕食の準備に取りかかる。
干しキノコを刻み、折り畳み鍋に放り込む。
コンソメ粉末を加え、携帯燃料に火をつけると、青い炎が静かに灯った。
「わぁ……火の色が違う」
リヴは炎に身を寄せ、目を丸くした。
「なんで青いの? 普通の火は赤いのに」
「炎の色は温度と燃えるものによって変わる。赤は低温、青は高温。つまり、こいつは効率よく燃えてる」
「だから、こんなに静かなんだ……」
「うん。森の木を焦がさないで済むように作ってある。熱だけを出してる感じだな」
リヴの理解に、ナオキはふっと笑う。
「飲み込みが早い。素直に嬉しいよ」
「ナオキが楽しそうに教えてくれるから、覚えたくなるんだよ」
鍋から立ちのぼる湯気が二人の間を通り、温かな香りが漂う。
ここから先の道の不安も、森の冷たさも、今だけは湯気の向こう側に押しやられていた。
ナオキはスプーンを手渡した。
「火の温度と心の温度は関係ないけど……こっちは、だいぶ高温かな」
「じゃあ、たしかめてみるね」
リヴがスプーンを口に運び、ふっと頬を緩めた。
「……ああ……生きてるって感じがする」
「干しキノコは俺には回復アイテムだけど、君にはただの具材だろ」
「けど……ナオキが嬉しそうだと、それだけで美味しいよ」
外では赤外線センサーの光が規則的に瞬き、小屋の中は青い炎の明かりで満たされていた。
森の夜は本来、音に満ちている。
けれど今日は、風も息をひそめていた。
二人が無事に街まで行って、またこの森へ戻ってくるための一夜――そんな顔つきの静けさだった。
「……こうやって安全に野営できるの、奇跡みたいだね」
「魔法と科学が手を組むと、こうなるんだろうな。俺たちは意外と相性がいいのかも」
「次は空も飛べるといいよね」
「安全性を考えると……もう少し準備が必要だよ」
「でも、風に乗ってふわっとならいけそうな気がする」
「その感覚が危ないんだよ……でも、街までひとっ飛びは魅力だな」
「そのときは、“空飛ぶ天使”って呼ばれたいな」
「間違いなく君が、だよ。俺は荷物持ち担当だ」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑い声が、小屋の壁にやわらかく吸い込まれていく。
夜の森には風ひとつ吹かず、
青い炎と淡い魔法の光だけが、寄り添うように静かに灯り続けた。
その灯りの向こうに、まだ見たことのない街の景色と、これから選ぶ暮らし方が、ぼんやりと続いている。




