第4話:1.7キロの現実と、気絶した少女
夜勤明けの昼過ぎだった。
アパートの六畳で仮眠をとっていたナオキは、玄関のインターホンの音で目を覚ました。布団から体を起こすと、寝不足の重さが肩にのしかかる。けれど、胸の奥には別のざわつきがあった。
「……来たか」
玄関を開けると、宅配便の荷物が細長い影のように置かれていた。段ボールを受け取り、カッターで静かに開封する。
中から現れたのは、ビニールに包まれた鈍い鉄の塊だった。
『解体用バール 七五〇ミリ』
名前だけを見ると単なる工具だが、実物は違った。鉄の冷たさと質量が手のひらに伝わり、思わず息が止まる。
「……おもっ」
金属バットに慣れているせいか、1.7キロの重みが手首にどっしりのしかかった。扱えない重さではない。だが、腕の奥の筋肉が「別物だ」と静かに警告してくる。
(これなら……異世界でも通じる)
そんな考えが一瞬頭をよぎり、すぐに打ち消した。
(いや、油断するな。扱えるかどうか試してからだ)
六畳の真ん中に立ち、バールを両手で握る。金属バットを振るときのクセが自然に出た。試しに軽くスイングするつもりだった。
だが——。
ブォンッ!
「うおっ……!」
風を切る音が、耳の奥をえぐるように響いた。重さが遠心力になって全身を引っ張り、体勢が一瞬で崩れた。ナオキは慌てて踏ん張り、壁にぶつかるのをぎりぎりで回避する。
息が荒くなり、掌がじんじんと痺れた。
「……あぶねえ……」
一度振っただけで汗が滲む。振り切ったあとの「一秒以上の無防備」が、恐ろしいほどはっきり分かった。
(ダメだ。これは……振り回す武器じゃない)
ナオキは持ち方を変えた。バールの中ほどを短く持ち、先端を前に向ける。突く、押す、引っ掛ける。その三つなら、重さが味方になる。
ゆっくり前へ突き出してみると、筋肉の動きが安定し、スキも少ない。
(これだな……俺みたいな素人が扱うなら、この形だ)
静かに頷き、布で汗を拭う。
そのままウロへ移動する準備を進めた。バールはバックパックのサイドに紐で固定し、右手には使い慣れた金属バット。脇に汗がじわりと流れ落ちる。
「よし」
テレビに触れ、ウロへ転移する。
湿った空気が肺に入り込み、土と木の匂いが体にまとわりつく。目隠しのブルーシートをめくって外へ出ると、光が木々に遮られ、昼でも薄暗い。
ナオキは足音を最小限に抑え、森へ一歩踏み出した。
十メートル進むたびに立ち止まり、耳を澄ます。鳥の声、風の音、土の沈む気配。昨日以上に五感が研ぎ澄まされているのが、自分でも分かった。
ウロから三十メートルほど進んだころ、川の音が近づき始めた。
その時だった。
ガサガサッ!
「……ッ!」
茂みの向こうで、明らかに大きな何かが動いた。続けて、キーキーと甲高い擦れるような鳴き声が響く。
ナオキは反射的に大木の陰に飛び込み、呼吸を止める。
そして——見た。
「……うそ、だろ」
茂みをかき分けて現れたのは、人影に似ているが、明らかに人ではなかった。
全身が緑がかった汚れた皮膚。鼻をつく腐臭。身長は一三〇センチほどなのに、腕は異様に太い。腰にはぼろ切れ、手には棍棒。
その姿は——ゲームで見たままの、汚れた「ゴブリン」そのものだった。
(マジか……本当に……いるのかよ。完全に……異世界だろ、これ)
背中に、冷たいものが走る。
昨日の足跡が人間のものだと思い込んでいた自分を殴りたいほどだった。
(戦うな。絶対に……戦うな)
ナオキは歯を食いしばり、大木に背中を押しつけたまま動かなかった。ゴブリンが通り過ぎ、森の奥へ消えていくまで、十分近く息すら音にしなかった。
脈が耳の奥で鳴っている。手が震えていた。
(……やっぱり危険すぎる世界だ。でも……だからこそ慎重にやらなきゃいけない)
足音が完全に遠ざかったのを確認してから、ゆっくり息を吐く。深い安堵と、これ以上ない緊張が同時に胸に流れ込んだ。
しかし、ここで引き返す選択肢はなかった。川の位置と地形は、生き延びるための要だ。ナオキは体勢を整え、スキを見せないように一歩ずつ進んだ。
やがて視界が開け、川が見えた。
スマホで写真を撮り、前に見つけた足跡の方向へ向かう。緊張は解けないまま、時間の感覚だけが薄れていく。
そして——。
茂みの奥から、人間の声が聞こえた。
獣とは違う、人の弱々しい「うめき声」。
(……いる)
ナオキは身を低くして近づき、慎重に茂みをかき分けた。
そこで目に飛び込んできたのは——。
少女だった。
少女は、倒れ込むように地面に横たわっていた。
年齢は十五、六歳ほどに見える。麻布と革で作られたチュニックはあちこち破れ、泥にまみれている。肩から腰にかけて細い線が通っていて、野営慣れしていることが分かる。
耳はほんの少し尖り、地球では見たことがない形だった。
彼女の傍らには、小さな弓と矢筒。矢の先端は血で固まり、乾きかけた赤黒い塊がこびりついている。
しかし、ナオキの目を奪ったのは別のものだった。
(……足……これ、ひどい)
少女の右足のふくらはぎが深く抉れていた。獣の牙で噛まれたように裂け、肉が見えている。泥と葉っぱを押し当てて応急処置らしきものがされていたが、傷口の周囲は赤黒く腫れ、明らかに熱を持っている。
呼吸は浅く、額に汗が滲んでいた。
(このままだと……感染症で、間違いなく死ぬ)
判断は一秒もかからなかった。
看護学生として、土と開放創の組み合わせが何を招くか、体で理解している。
(破傷風、敗血症……どっちに転んでも終わる)
ナオキは即座に周囲の気配を確かめた。
ゴブリンの声はない。足音も気配もない。今が唯一の救えるタイミングだ。
「……よし、やる」
金属バットを静かに地面に置き、膝をついた。
バックパックを開け、医療キットを取り出す。
まずは使い捨てゴム手袋。指先にしっとりと張りつく。
少女の足に当てられていた泥まみれの葉を剥がした瞬間、強い匂いが鼻に刺さった。
(これは……やばい。完全に化膿してる)
ペットボトルの水を開け、握りしめる。
迷いはない。
「ごめん、痛いよな……でもやるしかない」
彼女は意識がない。それでも、ナオキは丁寧に声をかけた。
そして、水を傷口にかけた。
泥が流れ、葉の破片が溶けていく。
皮膚の奥の赤黒い影が露わになり、ナオキの手つきはより慎重になる。
少しでも汚れが残れば、そこから菌が増える。
持ってきたペットボトルの半分以上を、彼は惜しまず使った。
清潔に保つための唯一の武器だ。
傷が露わになったところで抗生剤軟膏を塗る。
ラノベのように劇的な回復が起きるはずもない。
それでもやらないよりはいい。
「気休めかもしれないけど、ないよりマシだ……頼む、効いてくれ」
最後に滅菌ガーゼを当て、包帯を巻いて固定する。
締めすぎず、緩すぎず。
彼女の体温と脈を考えながら、慎重に巻いた。
処置が終わると、ナオキはゴム手袋を外してポリ袋に密閉する。
それをバックパックに戻し、立ち上がって深く息を吐いた。
(……さて、問題はここからだ)
少女をどうするか。
(放置は……無理だ。ゴブリンに見つかったら確実に死ぬ)
それだけは明白だった。
(アパートに連れて行く……のは絶対にダメだ。こっち側の世界に異物を持ち込むのは危ない。俺も危ないし、彼女にも悪い)
残る選択肢はひとつだけ。
「ウロに……運ぶか」
決めると、ナオキは少女を抱え上げる準備に入った。
少女の体は軽い。土と汗と血の匂いが混ざり、息が少し荒くなっているのが分かる。
背負うと、彼女の体温がじかに背中へ伝わった。
「よし……行くぞ」
バールとバット、弓と矢筒を回収し、周囲の気配を殺しながら歩き出す。
泥に足を取られ、足が震え、汗が背中を流れ落ちる。
背負っている少女の呼吸がゆっくり沈んだり、浅くなったりするのが伝わってきて、ナオキはそのたびに胸が締め付けられた。
(頼む……持ちこたえてくれ)
ウロまでの道のりは、普段よりはるかに長く感じられた。
木々のざわめきひとつにも心臓が跳ねる。
やっとの思いでウロへ戻り、ブルーシートをくぐる。
LEDランタンを点けると、柔らかい光が狭い空間に広がった。
折り畳みベッドに少女を寝かせ、毛布をかける。
呼吸は荒く、頬が赤く火照っている。
額には汗が滲み、髪がまとわりついていた。
(熱がある……やっぱり感染が進んでる)
ナオキは膝をつき、少女の胸の上下をじっと見つめた。
薄いが、確かに呼吸している。
この世界の空気が、彼女の息遣いと混ざって、ウロの中に微かな温度を作っていた。
「……頼む。生きてくれ」
その声は震えていた。
少女は答えない。
だが、静かな空間にその言葉は長く残った。
――その時。
ベッドに横たわる少女のまぶたが、わずかに震えた。
その微かな変化に、ナオキは息を呑んで身を乗り出した。




