第37話:二度目の探索
ナオキは夜明け前のウロで、焚き火の灰をそっと崩した。
街に行く。――そう決めていた。
だがその前に、もう一度だけ森を歩く必要がある。
装備の確認と、野営の本番。
そして、リヴと確かめておきたいことがあった。
「リヴ、次で最後の探索にしよう。
街へ向かう準備を整えたい。」
リヴは驚いたように目を瞬き、すぐに笑った。
「わかった。私の魔法も頼りにしてね。前と違って――戦うことも、守ることもできるから。」
ナオキは短く息を吐き、頷いた。
「頼りにしてるよ。」
そうして、ふたりの最後の探索が始まった。
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森の朝は、冷たい霧の中に音が溶けていた。
枝から滴る露の音。
木の皮を伝う虫の足音。
鳥が一羽、低く鳴いて飛び去る。
ナオキは深呼吸をし、湿った空気を肺に入れた。
「……やっぱり、この森は独特だな。空気が濃い。」
リヴが笑ってうなずく。
「森が“まだ寝てる”時間帯だからね。
動くのは私たちと、せいぜい鹿くらい。」
ふたりは並んで歩き出す。
道はないが、リヴの足取りは軽い。
枝を避ける角度、地面を踏む深さ、葉の上で止まる時間。
どれも最小限で、音が出ない。
ナオキはそれを真似しようとしたが、すぐに枝を踏み鳴らした。
ぱきん、と乾いた音。
リヴが笑う。
「音はね、“鳴らないように歩く”んじゃなくて、“鳴らしていい音を選ぶ”の。」
「鳴らしていい音?」
「そう。風と似てる音、鳥と同じリズム。
森は、知らない音にだけ敏感なの。」
ナオキは少し考えて、次の一歩をそっと置いた。
乾いた葉を避け、苔の上に体重を移す。
――音がしない。
リヴが静かにうなずいた。
「そう、それ。森の呼吸に合わせて。」
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少し歩いたところで、リヴが立ち止まった。
「ねえ、試してみてもいい?」
「例の“探知”か。」
「うん。風で……周りを“見る”魔法。」
ナオキは頷いた。
「いいよ。やってみよう。」
リヴは息を吸い、掌を前に出した。
風が生まれ、木の葉がわずかに鳴る。
だがその風は、すぐに乱れた。
枝葉にぶつかり、四方へ散って消える。
風は形を持たない。ぶつかるたびに渦になり、力を失っていく。
返ってくる“面”がない森では、風はただ流れて消えるだけだった。
リヴは眉をひそめた。
「……ダメ。返ってこない。」
ナオキは少し考え、地面に指で円を描いた。
「風は反射しすぎる……というより、ぶつかるたびに拡散して力を失う。
木や葉の間で渦になって、形が崩れるんだ。
だから“戻り”がない。
ソナーみたいに情報が返ってくるわけじゃなく、全部が雑音になるんだな。」
リヴはその説明を聞きながら、掌の中の風をそっと感じ取ろうとした。
けれど、それは形を保てず、指の隙間からすり抜けていった。
「ソナー?」
「風を押し出すんじゃなくて、リヴの魔力を“水面に落とす石”みたいに広げてみろ。
力を入れず、ただ波紋を作る感じで。」
リヴは小さく頷き、目を閉じた。
次の瞬間、空気が静まり返る。
彼女の足元から、見えない何かが広がっていった。
風ではない。だが確かに、空気が触れた。
さっきのような乱れはなく、波は静かに広がり、木々の間を滑るように通り抜けていく。
森の形が、輪郭だけを残して心に浮かぶ。
リヴが息をのむ。
「……見える。木の太さも、岩の位置も、わかる。」
ナオキの口角が上がった。
「風じゃなく、魔力そのものの波。これなら拡散しても“感じ取れる”。」
「魔力波ソナー、だね。」
「いい名前だ。」
リヴは目を開け、うっすら笑った。
「風の中じゃなくて、自分の中の波で見るんだね。」
「そう。森を押すんじゃなく、森に“触る”。」
ナオキはその言葉を聞いて、内心で少し感心した。
自分は理屈で語ったが、彼女は感覚で掴んでいる。
その違いが、まるで二人で同じ地図を描いているように感じられた。
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日が昇り始める。
霧が薄れ、木漏れ日が地面にまだらに落ちる。
ナオキは深呼吸をして言った。
「これで、森の中でも安全に動ける。野営の夜も怖くないな。」
リヴがうなずく。
「うん。風も、もう敵じゃない。」
その瞬間、小さなそよ風がふたりの間を抜けた。
まるで、森が“それでいい”と答えたように。
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夕方。
ウロの外、タープの下。
焚き火がぱちりと弾けた。
リヴが手をかざすと、風が流れを整え、煙が真上に昇る。
空気の冷たさがやわらぎ、タープの中に温もりが満ちた。
「これで寒くないと思う。」
「環境制御まで……すっかり野営魔法使いだな。」
「ふふっ、パンの次はキャンプの魔法かも。」
ナオキは笑いながら地図を広げる。
《魔力波探知:範囲十五歩。動体検知◎。夜間安定。
環境制御:煙流固定、温度安定。実用可。》
「ねえ、ナオキ。計画があると、怖くないね。」
「計画は、“夜を見える形にする”魔法みたいなもんだ。」
リヴが頷き、スープを差し出す。
「飲んで。街に行く前の、最後の夜かもしれないし。」
スープは素朴で、温かかった。
キノコの香りが柔らかく、パンの端が溶けていく。
ナオキはカップを置き、ゆっくりとつぶやいた。
「……これなら、街まで行けるな。」
リヴは微笑み、炎に照らされた瞳を細めた。
「うん。今度は二人で、“見える夜”を歩こう。」
焚き火の灰がふわりと舞い、森の奥へ吸い込まれた。
魔力の波が、その先を静かに照らしていた。




