第36話:森を越える、十五日の息
「一度、街まで行ってみたいな……。
どれくらいかかる? ――街に行ったときのことを、教えてくれ。」
そう問いかけると、リヴは少し驚いたように瞬きをした。
そして、懐かしむように微笑んで頷く。
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◆リヴ(回想)
ウロを出て、五日目の朝だった。
街までの往復は、およそ三ヶ月――。
森を抜け、街道に出て、野営を繰り返す長い旅。
それでも私は、歩かなければならなかった。
ナオキから託された使命。
“戻ってこいよ。ちゃんと。”
その言葉だけを、何度も何度も心の中で繰り返した。
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森を抜ける道は、昼でも薄暗い。
風が木々を揺らし、遠くで獣の声がした。
私は腰の短弓を握りしめ、慎重に進む。
足元の湿った土には、時おり爪跡が残っていた。
ゴブリンか、それともヒュートか。
どちらにせよ、見つかったら厄介だ。
だから私は、息を整えて“できること”を並べた。
靴底に布を巻き、足音を殺す。
風下を選んで進み、匂いが流れないように汗をこまめに拭う。
土を指でひとなでするたび、乾いた葉を避け、柔らかい地面に足を置く。
気配に気づけば、しゃがんで呼吸を浅くし、通り過ぎるのを待つ。
二度、獣の影と目が合いかけた。
一度は木の幹の裏に体を貼りつけ、もう一度は泥に身を沈めて匂いを消した。
泥は冷たくて、ひざから下の感覚がすぐになくなる。
歯の根が合わなくなるほど震えたけれど――動かなかった。
その日、私は一度も見つからずに森を越えた。
足は震えていたけれど、胸の奥が少しだけ誇らしかった。
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夜は、木の根元で火を起こす。
湿った苔を乾かして、火打石で火をつける。
……はずだった。
何度石を打っても、火花は落ちるのに、火はつかなかった。
指は冷えて、焦りだけが積もっていく。
このままだと、夜の冷えに負ける。牙のあるものに近づかれる。
そこで私は、腰の袋から小さな銀色の道具を取り出した。
ナオキが「ライター」と呼んでいたものだ。
くい、と親指で回すと、火花と同時に小さな炎が生まれる。
信じられないくらい簡単に、確実に、そこに“火のはじまり”が現れた。
そのとき私は、本当に胸の奥から息がこぼれた。
「……ナオキ、ありがとう」
苔に火種が移り、やがて小さな炎が枝に噛みつく。
ぱちぱちと小さな音がして、オレンジ色の光が闇を押し返す。
世界の端っこみたいだった林の中に、ようやく“自分の場所”ができた。
一日目の夜は足に水ぶくれができ、二日目の夜は踵が割れた。
布を裂いて足首を巻き、朝は歩く前に油を少し擦り込む。
それでも擦れるところは擦れる。
転んだとき、棘で裂けた脛からは血がにじんだ。
川の手前で水を汲んで、その水で傷を洗い、折りたたまれた清潔な布で押さえる。
そのあと――私は小瓶の栓をそっと開けた。
ナオキがくれた、薬草の軟膏。
ただの薬だって言っていたけれど、私にはそう思えなかった。
透明で、指先で触るとほんの少しあたたかい。
塗ると、痛みがふっと遠のく。
裂け目の赤が落ち着き、にじんでいた血が止まる。
皮膚の端どうしが、もう一度手をつなぎ直すみたいに寄っていく。
「ほんとに……すごい。これ、あなた何者なの」
火の明かりの中で、その言葉が勝手に口からこぼれた。
もしこれがなかったら、私はその場で寝込んで、朝にはもう動けなかったと思う。
それくらい、身体はぼろぼろになっていってた。
痛みは消えないけれど、立ち止まれば冷えが骨に入り込む。
だから私は立ち上がって、また次の朝に備える。
その光の中で、干しキノコをかじった。
固くて、噛むと土っぽい味と苦みが先にくる。
口の中の水分を全部持っていかれて、喉に引っかかる。
けれど、あの“ふわふわのクリームパン”を思い出すたびに、胸が温かくなった。
あの甘さは柔らかかった。
噛む必要がないのに、噛むたび幸せが出てくるみたいな味だった。
焚き火の明かりを見つめながら、私は小さく息を吐いた。
「ちゃんと、帰るからね」
それが、祈りにも誓いにも聞こえた。
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七日目の昼、古い獣罠に足を取られた。
草の中に隠されていた輪が、足首をはね上げるみたいに締まった。
倒れた瞬間、喉の奥で悲鳴がせり上がった。
でも声は出さなかった。声を出せば来るから。
鉄は錆びていて、もう全力では締まらない。
でも、それでも痛みは鋭かった。
私は手探りで枝を拾い、輪と輪の間に差し込んで、てこのようにこじった。
縄が少しだけ緩む。
歯で縄を噛んで、ひっぱって、裂けるまでしつこくやった。
ようやく足が抜けたとき、視界が白くなりかけた。
なんとか腰を下ろして、腫れかけた足首に手を当てる。
じんじん熱い。血が集まってきてるのがわかる。
私は荷から布を取り出し、濡らして冷やした。
そしてまた、小瓶のふたを開けた。
その軟膏を、腫れの縁に沿ってそっと塗る。
冷たくも熱くもない、不思議な感覚。
皮膚の下で、ぶわって広がる怖さが少しずつ落ち着いていく。
「ナオキ……これなかったら、たぶん、ここで終わってた」
思わず、声にして言っていた。
歩き出すときは歩幅を半分にして、膝で体を支えるように進んだ。
痛い一歩、痛い一歩、それでも前へ。
あのときは、涙より先に息が震えた。
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八日目、川を渡った。
水は膝の上まであって、思っていたより冷たかった。
一歩踏みこむたび、胸の奥がぎゅっと縮む。
しばらくすると足先の感覚が消えて、どこまでが自分の体なのか曖昧になってくる。
流れに押されないよう、長い枝を二本拾って杖にした。
三点で突くようにして、膝を抜かさないように踏んばる。
荷は頭の上に持ち上げたまま。
肩は痛い。でも濡らせない。
反対側の岸にたどり着いたとき、私は膝から崩れた。
砂の上でしばらく動けなかった。
それでも、止まってると寒さが牙になるから、すぐに靴を脱いだ。
草を詰め替えて、濡れた布は火のそばへ並べる。
足の皮がふやけすぎてめくれてしまわないように、手のひらでそっと押さえて乾かす。
乾くまでの一時間が、永遠に感じられた。
ひとりきりの永遠だった。
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十日目。
森を抜けたとき、初めて“道”らしいものを見た。
車輪の跡、馬の蹄の痕。
誰かが、ここを通った証。
「ここからが……街道か。」
空気が少しだけ乾いて、風がひらけた。
森の匂いが薄れ、土と太陽の匂いが広がる。
ずっとまとわりついていた湿った冷たさが、やっと背中から離れた気がした。
けれど、油断はできない。
昼下がり、丘の上で黒い点が四つ、ゆっくり動いた。
人の形にも獣の形にも見えて、どっちでもありそうな歩き方。
私はしゃがみ、目を細めて距離を測る。
あれは、こっちに気づいていない。
でも、こっちが道に出たら、絶対に気づかれる。
進路を変えた。
道を外れ、低木の陰から陰へと移る。
足跡は草目を逆になでて消す。
喉は渇いたが、水筒の残りは半日分――舌を湿らすだけにした。
私は安全な丘の肩を見つけ、風を背にする位置に野営地を作った。
焚き火は小さく、遠くから見えないよう石で囲う。
夜の間に煙が高く上がると目立つから、湿った枝は入れない。
煙が低くたなびく夜は火を落とし、代わりに温めた石を布で包んで抱いて眠る。
寝る前には足跡を葉で払い、食べ物は木の枝に吊るした。
匂いで寄ってくるものを、寝ている私に近づけたくなかった。
焚き火の煙が夜空へ昇り、星々が瞬く。
火を見ながら、私はナオキの顔を思い出した。
「ナオキ……いま、何してるのかな。」
その言葉が、風に乗って消えた。
でも、不思議と心は静かだった。
“ちゃんと戻る”って、自分で自分に言えたから。
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十三日目、雨に降られた。
低い岩棚を見つけて避難したが、枝は濡れて火がつかない。
指は冷たくかじかんで、力が入らない。
服はすぐ重くなる。肩が冷えると、心まで冷える。
私は唇が紫に冷えるのを感じながら、声を出した。
歩いた距離と、見たものと、今の空と、痛い場所。
歌ってるみたいに、つぶやくみたいに。
声に出すと、孤独は少しだけ小さくなる。
デイパックの底を探り、小さな布包みを取り出した。
中には、ナオキがくれた“地球の乾パン”。
指で割ると、ほんの少し甘い香りが広がる。
ひと口。
固いけれど、優しい味がした。
それだけで、心が満たされていく。
「……ナオキ。」
その名を呼ぶと、不思議と寒さがやわらいだ。
たった一人の夜なのに、寂しくなかった。
雨が上がる頃には、靴ひもが切れていた。
予備の紐はない。
私は蔦を撚り合わせて太くし、二重に結んだ。
歩き出すと、結び目が踵に当たって痛んだが――前に進んだ。
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十五日目の朝。
霧が晴れ、丘を越えた先に街が見えた。
尖った塔、煙を上げる煙突、人の声のようなざわめき。
石壁の上で旗がはためき、屋根の向こうで小さく鐘の音が揺れた。
胸の奥が震えた。
これが、“文明の音”だ。
私は膝をつき、空を仰ぐ。
涙があふれた。
汗と雨と泥の味が、口の中でようやく薄れていく。
「ナオキ……やっと、ついたよ。」
ウロを出て十五日。
私は、再び“人の世界”へと足を踏み入れた。
思わず笑って、空を見上げた。
青空が、ウロの森の空に似て見えた。
けれど、胸の重みはもう違っていた――
私は、自分の足でここまで来たのだ。
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◆ウロ(現実)
リヴの話を聞いている間、ナオキは目の前の机の上に広げた地図をそっと指でなぞっていた。
リヴが通った森、川、迂回した丘、そしてようやく辿り着いた街の位置。
指先が止まるたび、焚き火のはぜる音だけが、静かに間を埋めた。
回想が終わると、ナオキは深く息を吐いた。
言葉を選ぶ時間が、少しだけ長くなる。
「十五日か……地図で引いた線より、ずっと遠かったんだな。」
「川も、罠も、雨も……全部ひとりで越えたのか。」
声は低かった。
聞き返しているふりをして、実際には自分の心を落ち着かせようとしているみたいな声だった。
彼はリヴの方へ回り込み、しゃがんで目線を合わせた。
泥の色がまだ抜けきらない布の端。
指の関節に残る小さな擦り傷。
結び直した靴ひもの跡。
そして、冷えきって固くなってしまったはずの手が、今はちゃんと温かいこと。
どれも、語った旅路の真実だった。
「怖かったろ。」
それだけ言うと、胸の奥が勝手に熱くなった。
喉の奥がきゅっと痛くなる。
“あのまま戻ってこなかった場合”の光景が一瞬でも頭に浮かんだこと自体が、もう腹立たしい。
リヴは少しだけ笑って、首を横に振る。
けれど次の瞬間、強がりの糸がほどけたみたいに視線が揺れた。
「……うん。ちょっとだけ。」
ナオキはためらわず、彼女を抱きしめた。
力を入れすぎないように、でも離さないように。
もしもう二度と会えなかった未来があったなら、その未来ごと握りつぶすように。
「よく帰ってきた。――本当に、よくやったな。」
リヴの指がそっとナオキの服の裾をつまむ。
震えは、もうほとんどなかった。
肩口に、小さな息があたたかく触れた。
「……ただいま、ナオキ。」
その言葉は、ほっとした安堵というより、誇らしい報告みたいに聞こえた。
ナオキは、彼女の頭に手を置いたまま目を閉じる。
胸の奥で、何かがほどけていく。
焚き火がぱちりと弾け、ウロの中にやわらかな光が広がった。
外の風音は遠く、ここだけが確かな帰る場所だった。
あとがき書いてたら感情移入しすぎて、気づけば本編級の分量に……。
今回は「魔法なし・地道な工夫だけ」で十五日を越えるリヴを丁寧に描きたくて、火起こし、足の手当て、雨宿り、野営――どれも削れませんでした。
少しでも“生き延びる手触り”が伝わっていたら嬉しいです。
次回はトーンを明るく、テンポも軽く。自分でも「そろそろ街に行け」と思ってますが、その前振りとして積み上げた経験をちゃんと物語に活かします。
ここまで読んでくださり本当にありがとうございます。




