森の奥で、少しだけ強くなった日
森の中は、思ったよりも静かだった。
霧は薄れ、鳥の声が遠くで響いている。
朝の光が斜めに差し込み、木々の間を細い筋となって流れていた。
空気は冷たいのに、息を吸うと、ほんのり甘い。
リヴは落ち葉を踏みながら、鼻をひくひくさせた。
「ねぇナオキ、森っておいしい匂いするね」
「それ、食材探しの嗅覚だな……間違いなくサバイバル向きだ」
「ふふっ。だって、ここの空気、少し甘いもん」
ナオキは笑って頷く。
「木の樹液だろうな。リスとかヒュートが好む成分かもしれない」
「じゃあ、私も好きでいいんだね」
リヴは小さく笑い、両腕を伸ばして背伸びをした。
その仕草が、朝の光の中で少し眩しかった。
ナオキは思う。
――ほんの少し前まで、森に入るたびに緊張していた。
何が出てくるかも分からず、音一つに心臓が跳ねた。
それが今では、こうして並んで歩き、冗談を言える。
小さな変化かもしれないが、それは確かな“進歩”だった。
そんな穏やかな空気の中で、ふと、遠くの枝が軋む音がした。
「……風?」
「違うね」
リヴの耳がぴくりと動く。
ナオキは足を止め、視線を茂みへと向けた。
霧の奥で、何かがわずかに動いた。
「ナオキ、なんかいる」
「……またヒュートか?」
「ううん。もう少し……大きい」
枝をかき分けると、背の低い緑の影が三体、こちらを睨んでいた。
小柄な体に汚れた皮の腰巻。歯を剥き、金属片を束ねたような棍棒を構えている。
――ゴブリン。
「うわ、出た……」
「前より落ち着いてるね?」
「いや、心臓はちゃんと早い。でも足は動く」
ナオキは冗談めかして言ったが、内心では少し安堵していた。
恐怖が完全に消えたわけではない。
けれど、以前のように“固まる”ことはなかった。
リヴは笑って、軽く息を整える。
「ナオキ、今回は私がやるね」
「おう、任せた」
彼女の目が、きらりと光を宿した。
ゴブリンの一匹が吠えながら突進してくる。
以前なら恐怖で動けなかった。
だが今――リヴはもう、違う。
魔法の才能を開花させ、ナオキが側にいる。
恐怖はない――
彼女は軽く息を整え、両手を構えた。
手のひらに小さな風の渦が生まれる。
「風よ!」
空気が震え、ゴブリンの足元で一瞬、風の塊が弾けた。
木の葉が舞い、砂が巻き上がる。
その瞬間、突進してきたゴブリンの体が横に弾かれ、地面を転がる。
もう一体が怒り狂って棍棒を振り上げた。
リヴは一歩も引かず、もう片方の手を前に出す。
「【水!!】」
霧が一瞬にして凝縮し、細い水の刃となって閃いた。
棍棒を弾き飛ばし、ゴブリンの肩をかすめる。
痛みに叫び声を上げたその体が、倒木の陰に転がった。
三匹目が一瞬、仲間の様子を見て、尻尾を巻くように逃げ出す。
木々の奥に消えていく背中を見送りながら、リヴは肩の力を抜いた。
「ふぅ……やった」
ナオキは思わず口を開いた。
「……すごい、リヴ」
リヴは得意げに胸を張る。
「えっへん、どう? 今回はちゃんと“魔法”っぽいでしょ?」
「魔法っぽい、というより……普通に魔法」
「でしょ? あれから特訓したんだよ!」
ナオキは笑いながら肩をすくめた。
「以前は“このあたりにサンソがー、いっぱいごしごししてー”とか言ってたのに」
「うわー、それ言わないで! あのときは何も知らなかったんだから!」
「いや、あれはあれで斬新だったよ。“酸素を物理で殴る魔法”」
「もう! あれは燃焼の理を理解しようとしてたの!」
リヴは頬を膨らませたが、すぐに笑って手を広げた。
「でもね、今はちゃんと“イメージ”できる。風とか水とか、そういう感覚で動かせるようになったの」
「……進化だな。理屈を離れて、ちゃんと“使える”ようになった」
「うん。体の中で、何かが“通る”感じがするの」
ナオキは目を細め、彼女の言葉を噛み締めるように頷いた。
「それはたぶん、“感覚”の領域だな。理屈を理解しているからこそ、身体が覚えた段階だね」
リヴはにっこり笑った。
「ふふん、感覚で使う魔法!!それがリヴ式・理の投射です!」
「それはそれでとんでもないな」
「また新しい名前考えようか?」
「やめてくれ、語感が強すぎる」
二人は顔を見合わせて笑った。
ナオキは少し息を吐きながら、倒れたゴブリンを見下ろす。
血は出ていない。リヴの攻撃はきれいに“衝撃”だけを残していた。
「しかし、前は命がけだったのにな。こうして見たら、もう日常だな」
「そうだね。怖くなくなったのは、きっとちゃんと理解できたから」
「うん。理解は力だな」
リヴは頷き、空を見上げた。
木々の隙間から、朝の光がこぼれている。
光が髪に反射して、淡い金色に揺れた。
「……ねぇナオキ。これから、もっといろんなもの試してみよう」
「もちろん。ただし、安全第一な」
「わかってる。現地責任者」
「だからその呼び方やめろって」
「だって、響きが安心するんだもん」
ナオキは苦笑して肩をすくめる。
「ま、誰かが危なっかしいことするたびに止めるのが、俺の仕事だからな」
「それ、私のことじゃん」
「気のせいだ」
リヴはしばらく木漏れ日を眺めてから、静かに口を開いた。
「ねぇナオキ」
「なんだ?」
「……怖い時ってさ、ナオキがすぐ隣で喋ってくれるでしょ? それが、すごく安心するんだよ」
一瞬、言葉が詰まった。
ナオキは視線をそらし、帽子のつばを軽くいじる。
「……お、おう。じゃあ、安心担当として今後も精進します」
リヴは笑って頷いた。
「よろしくお願いします、現地責任者さん」
笑い声が森に響く。
霧の向こうで、木の葉が揺れ、陽光が跳ね返る。
その光は、どこか少しだけ誇らしげに見えた。
そして森は再び静かに、優しく二人を包み込む。




