理解の外側と、森への誘い
リヴが地球の甘味の衝撃から立ち直り、再び熱心に理術(空間干渉)の訓練に没頭するようになってから、数日が経っていた。
ウロの中は、ナオキが持ち込んだノートPCやタブレット、そして「弦理論」や「膜宇宙論」を簡略化した図解資料で溢れている。
ナオキは、リヴが魔力感知ではなく「空間の歪みを感じ取る感覚」として理術を習得していることに、確かな手応えを感じていた。
「いいか、リヴ。理屈で言えば、君が今やっているのは、空間の張力を揺らがせることだ」
ナオキは、リヴが使おうとして失敗した瞬間転移(空間座標の折り畳み)の原理図を指差した。
「君は空間を『紙みたいなもん』だと理解した。
でも、紙を折って遠くの点と点をくっつけるには、折り目の『糊』が必要だ。
それは魔力じゃない。『理解』なんだ」
「理解……」
リヴは目を閉じ、空間の僅かな軋みを聴こうとするように意識を集中させた。
彼女の周りの空気が、かすかに揺らぐ。
「この先、遠くの場所へ瞬間的に跳躍する空間座標の折り畳みを試すには、この『糊』、つまり空間の構造を完全に理解しないといけない」
リヴは真剣に頷き、再び掌を前に突き出した。
「たしか、ナオキの資料では……空間は『膜』でできていて、折り畳めばいいんだよね?」
「そうだ。図で見たろ?
短い距離なら、ただ折り畳めばいい。
でも遠くへ跳ぶには、正確な座標の知識と、空間をピンポイントで曲げる精度が必要になる」
リヴは必死にイメージを試みた。
遠くにある、一際大きな木のウロの入り口。そこへ、今いる場所を重ねる。
空間が震え、青白い光がパチパチと音を立てた。
しかし、次の瞬間、光は霧散し、理術は不発に終わる。
リヴはがっくりと肩を落とした。
「もぉ〜!どうして!『重なる』感じまでは掴めたのに!」
ナオキはリヴの隣に座り、彼女の肩をポンと叩いた。
「焦らなくていい。
君はもう、この世界の魔法使いが何百年も忘れていた『理の理解』の部分に辿り着いているんだ。
空間の歪みを感じ取ること自体、奇跡だ」
リヴは唇を尖らせた。
「でも、ナオキの言う理屈は、すごく明確なのに。
わたしが、まだ『リケイジョシ』になりきれてないのかな」
ナオキは笑って、資料を畳んだ。
「大丈夫だ。
正直に言うと、俺も君がやろうとしている『瞬間転移』なんて、理屈は立てられるけど、現象としては理解不能の域だ。
『科学が理解できる範囲の奇跡』として説明しようとしているだけで、俺の知識を超えている」
ナオキの「わからない」という言葉に、リヴは少し安心したようだった。
「そっか……ナオキでも、わからないことがあるんだね」
「当たり前だろ。俺はただの凡人だ。
チートの軸は『知識』『衛生』『物流』であって、戦闘力も魔法もゼロだ」
リヴはそう言われて、小さく笑った。
「ふふ。じゃあ、今日はもうやめる。頭が混沌になっちゃった」
「それ、カオスの領域だな。ナイス判断だ」
リヴが笑いながら伸びをすると、薄い外光がウロの木肌に反射して揺れた。
小さな葉の影が、まるで水面みたいに彼女の髪に映る。
「ねぇナオキ」
「ん?」
「理ってさ、ぜんぶ理解しちゃったら──この世界って、退屈になっちゃうのかな」
ナオキは少し考えて、苦笑した。
「多分、逆だな。理は成り立ち理屈だけど、その理屈で世界がどう動くのかは、誰にも予測できない。そこに、とてつもない面白さがあるんだよ」
リヴはその言葉に満足したようにうなずき、背中を丸めてあくびをした。
「じゃあ、明日も『予測できない』を探そうね」
「おう、ちゃんと安全確認してな」
「それ、いつも言うよね」
「俺、医療系だからな。癖なんだよ」
そんな何気ない会話のあと、
リヴは毛布に潜り込み、あっという間に寝息を立てた。
ナオキはその隣で、タブレットの画面を閉じる。
残ったのは、森の呼吸のような静けさだけだった。
外では、夜風がゆっくりと枝葉を揺らしている。
遠くで、フクロウの声。
そして──ほんの一瞬、風の音の中に混じるように、
誰かが名を呼ぶような声が聞こえた。
ナオキは顔を上げた。
テレビの画面が、いつの間にか薄く光を帯びている。
暗い森の奥の“何か”を映すように。
「……理の外側、か」
彼は小さく呟き、
消えかけた画面を見つめたまま、息を潜めた。
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