現実を癒す場所
気づけば、看護学校を休学していた。
そして、介護の現場も離れていた。
生活費と時間。どちらも、自分の手で確保するためだ。
今のナオキは――
自宅アパートの一室を使った、小さなリラクゼーションサロンを始めていた。
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白いカーテン越しに、春の光が柔らかく差し込む。
ナオキは、窓際に取りつけた木のプレートを見上げた。
> リラクゼーションサロン「つなぐ」
名前には、ささやかな願いがある。
世界と世界。人と人。
離れたものを、また“つなぐ”ために。
中古のベッドが一台。
間接照明がひとつ。
リヴのスケッチを真似て買ったフェイクグリーン。
たったそれだけの部屋なのに、どこか満ち足りて見えた。
配置も、照明の角度も、自分の感覚で決めた。
夜勤明けの疲れた顔を、何年も見てきたから。
「休まる場所」がどういうものか、体で知っていた。
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昼前、インターホンが鳴る。
「お邪魔しまーす。……って、本当にやったのね。」
来たのは美咲だった。
介護施設で一緒に働いていた先輩で、今は最初の予約客。
「言ったら、やるタイプなんで。」
「ふーん。じゃあ口だけじゃなかったのね。」
美咲は部屋をぐるりと見回した。
「……思ったより本格的。部屋の匂いもいいね。
病院の消毒薬の匂いと違って、落ち着く。」
ナオキは笑い、オイルを少し手に取った。
ラベンダーとオレンジが混ざった香りが、静かに広がっていく。
「消毒薬の匂いより、アロマの方が緊張しないでしょ。
集中力も上がるんですよ。」
指先でオイルを温め、タオルを整える。
深く息を吐き、心の中で呟く。
――いつも通りでいい。余計な力を抜け。
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背中に触れた瞬間、
指先から、呼吸の浅さと筋肉のこわばりが伝わった。
「右肩、ちょっと重いですね。」
「え? なんでわかるの?」
「疲れてる人は、肩で息するんです。
それと、脈が少し早い。」
「へぇ、なんか先生みたい。」
ナオキは笑って首を振る。
「いや、ただの観察です。」
オイルを馴染ませながら、背中から肩、腕へと圧を流す。
呼吸に合わせて押し、抜く。
手のひらの熱が、ゆっくりと体に沈んでいく。
気づけば、無心になっていた。
何も考えず、ただ“ほぐす”という行為に集中していた。
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「……軽い。ほんとに、嘘みたい。」
一時間後、美咲は腕を回して笑った。
顔色が明るくなり、頬に血が戻っている。
「これ、整骨院よりすごいよ。ナオキ君、あんた才能あるね。」
「そりゃどうも。でも、明日筋肉痛になっても怒らないでくださいね。」
「なるの!?」
二人は吹き出した。
ナオキはタオルを片づけ、棚から小さなガラス瓶を取り出した。
「これ、サービスです。乾燥対策のオイル。
首と手の甲に少しだけ。」
透明な液体を指先で伸ばすと、美咲が目を丸くした。
「……すご、これ。肌が吸い込んでいく感じ。」
少し間を置いて、美咲は首をかしげた。
「……ねえ、これってさ。
前に施設で私が手を切った時、
ナオキ君が塗ってくれた“あの傷薬のやつ”と似てない?」
ナオキは一瞬だけ動きを止め、苦笑した。
「覚えてたんですか。あれは、ちょっと濃すぎた試作品です。」
「やっぱりそうなんだ。」
美咲の瞳に、うっすら笑みが浮かぶ。
「傷が一晩で塞がって、跡も残らなかった。
みんな不思議がってたけど、私は知ってたんだよ。
あれ、本当に“企業秘密”だったんでしょ。」
ナオキは小さく息をつき、肩をすくめた。
「企業秘密です。」
美咲はくすりと笑う。
「そっか。じゃあ、今回のこれは――“美容バージョン”ってわけね。」
「まぁ、そんなところです。」
「……やっぱり不思議な人だね、ナオキ君。」
その笑みには、驚きよりも信頼と少しの理解があった。
彼の秘密に触れそうになりながらも、
それ以上は踏み込まない“優しさ”のような。
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美咲が帰ったあと、ナオキは静かにドアを閉めた。
部屋の中に残るアロマの香りが、まだ温かい。
夕方。
ベッドを片付け、窓を少し開ける。
春の風が入り、カーテンがふわりと揺れた。
机の上のスケッチブックを開く。
リヴの「リケイ・メモ」。
> 【理式投圧、成功! 石が飛んだ! 連射できる!】
ナオキは吹き出した。
「おいおい、名前つけてんじゃねぇよ。」
ページの端には、飛んだ石の軌跡と
“空気の圧の流れ”の落書きが並んでいた。
矢印と丸印。
きっと、試行錯誤しながら描いたんだろう。
「……理屈は合ってる。ほんとに覚えやがったな。」
呟きながら笑うと、胸の奥が少し熱くなった。
リヴが、“わかる”という感覚を掴んだときの顔が浮かぶ。
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ナオキは毎晩、ウロでリヴと顔を合わせていた。
魔法の練習の報告や、世界の理屈について語り合う時間。
それはもう、日課のようなものになっていた。
今日のリヴは、「理式投圧」の改良で失敗したらしい。
けれど、嬉しそうに笑っていた。
その笑顔を見るたび、ナオキの心に“現実を動かす力”が戻ってくる。
「……やっぱ天才だな、あの子。」
カーテン越しの夕陽が、床を金色に染めていた。
ナオキは椅子に腰かけ、静かに天井を見上げる。
誰にも言えない。
自分が異世界に関わっているなんて、絶対に。
でも――
ここには、たしかにリヴの痕跡がある。
あの世界と、この世界。
遠くても、どこかで繋がっている気がした。
「……こっちも、少しずつ動かしていくか。」
照明を落とす。
外では、街灯がぽつりと灯り始めていた。
小さなリラクゼーションサロン「つなぐ」の灯りが、
夜の街に、ひとつだけ残る。
外の光がゆれて、ナオキはふと微笑んだ。
ウロのランタンの灯りに、少し似ていた。




