魔法発動!!
朝の空気は、夜の名残りを少しだけ引きずっていた。
森の奥で鳥が短く鳴き、草木の先に残っていた露が、朝日の角度で細い虹をつくる。
ナオキは拠点の外で薪を組んでいた。
湿り具合を確かめながら折り目をつけ、焚き火台にそっと置く。
カサ、と乾いた音がして、今日もこの場所が無事であることを教えてくれる。
その背後で、リヴが水を汲んできていた。
桶を置くと、手の甲で額をぬぐう。長い髪が肩に落ちる。
昨日より顔色がいい。
食べられた、眠れた、安心できた――その全部が積み重なった結果らしい。
まだ細いけれど、その瞳はもう“怯えているだけの子ども”ではなくなっていた。
「よし。……じゃ、少し試したいことがあるんだけど」
薪を抱えたまま、ナオキは振り返った。
リヴの耳がぴくりと動き、瞬きをする。
「ためす……? なにを……?」
「昨日話した、魔法のこと」
「…………え?」
完全に予想外という顔だ。
「ま、まほう……? ナオキ……まりょくない……って……」
「ないよ。でも、試してみたくなった」
リヴはきょとんとしたまま、数秒止まった。
「……どういう……こと……?」
「昨日、理屈を話しただろ?
燃える条件とか、酸素とか、発火点とか」
リヴはこくりと頷く。
あのときの不思議そうな顔を思い出し、ナオキは少し笑った。
「あれをね、自分で“魔法としてイメージしたらどうなるか”って考えたんだよ」
「いめーじ……?」
「そう。“世界がそう動く”って信じて、理屈の通りに頭で組み立てる」
リヴの耳がもう一度動く。
「……それ、まほう……なの……?」
「たぶん、この世界の魔法っていうのは、そういうものなんだと思う。
“謎の力で奇跡を起こす”んじゃなくて――
“起こるはずの現象を、確実に起こすイメージ”だ」
「……よく……わからない……」
「わからなくてもいい。やって見せるから」
ナオキは薪を置き、両手に土を払った。
風がわずかに吹き、拠点の布が揺れる。
リヴは少し不安げに首をすくめた。
「……ナオキ、ほんとうに……だいじょうぶ……?」
「大丈夫。多分」
「……“たぶん”って言い方……こわい……」
その小声にナオキは苦笑した。
「じゃ、ちょっと離れて」
促され、リヴは木陰へ下がった。
ナオキは拠点前の少し開けた場所に立つ。
地面には昨夜の焚き火の名残りが黒く跡を残し、周囲には木の香りが淡く漂う。
彼は掌を前に突き出し、深く息を吸った。
(……理屈は完璧なんだ)
燃える条件は“三要素”だけ。
燃料となる物質。
酸素。
そして発火点となる熱。
これが同じ場所で、同時に揃う。
すると“火”は生まれる。
(なら、その三つを“心で”揃えられたら……?)
魔力など知らないが、
この世界には薬草の異常な再生速度がある。
地球で説明のつかない現象が普通に存在している。
なら――
地球の理屈と、この世界の“法則”が交わる地点があるはずだ。
「燃料……空気中の微細なチリ……炭素系の成分……」
イメージする。
草に触れて起こる摩擦熱。
朝日に温められた地表。
木の破片に残る乾いた繊維。
分子、粒子、温度。
大気の流れ。
化学反応の道筋。
理屈は、起こる。
「酸素……空気の二割……動かす……集める……」
掌の前の空気がふるりと震えた。
リヴが小さく息を飲む。
「発火点……摩擦……圧力……エネルギーの供給……
三つの要素が……同じ地点に……揃えば……」
ナオキは息を殺した。
「火よ……灯れ」
………………。
風がさらりと吹いただけだった。
「……理論上は完璧なんだけどな」
肩を落とすナオキ。
リヴは、心配半分・くすぐり笑い半分の目で近づいた。
「ナオキ……いまの……すごかったけど……なにも、でてない……」
「本当に理屈だけじゃダメなのか……」
「でてない……ぜんぶ、みてた……」
「うう……」
ナオキは頭を抱えた。
「でもね、ナオキ……」
リヴが小さく言った。
「いまの……なんか……“できそう”って……すこし、おもった」
「……え?」
「だって……ことば……の意味は、むずかしいけど……
“こうすれば火がつく”って……
ナオキが、ほんとうに知ってるみたいだったから……」
ナオキは目を瞬いた。
「……リヴ?」
「わたしも……やってみたい……」
リヴはナオキと同じように掌を前に出し、ぎゅっと目を閉じた。
昨日、ナオキから聞いた“火の仕組み”。
酸素。
熱。
燃えるもの。
地球の言葉は難しくても――
“そうすれば火がつく”という理屈は、確かに彼女の中に残っていた。
理解ではなく、
信じる力で残った。
(……できる……わたしにも……できるかもしれない……)
胸の奥が、熱くなる。
「このへんの……サンソを……あつめて……
ちいさいチリが……ここにあって……
あついの……つくって……
三つが……ひとつになる……」
掌の前で、空気がかすかに震えた。
ナオキの目が大きく開く。
(……え……本当に……?)
リヴの呼吸が浅くなる。
「……ひ……よ……」
掌を前に突き出したまま、リヴは小さく息を吸った。
まぶたは深く閉じられ、長い睫毛が震えている。
その様子は、祈る少女のようでもあり、
何かを呼び起こそうとする魔術師のようでもあった。
(……本当に……やるのか……?)
ナオキは固唾をのみ、息を飲んで見守る。
自分では起こせなかった“現象”が、
彼女の小さな体で、いま確かに組み立てられている。
酸素。
摩擦。
熱。
燃料。
たどたどしいながらも、リヴは昨日聞いた理屈を
まるで“形のあるもの”のように心でつまみ上げていく。
わからない言葉も多いはずなのに――
なぜか、組み上がっていく。
(これは……理解じゃない。信じてるんだ……)
ナオキが呟いた言葉。
ナオキが知っている理屈。
ナオキが見せた集中の仕草。
それら全部を、彼女は“正しい形”として受け止め、
そのまま心の中で再現している。
――理屈を信じる。
それが、この世界の魔法を成り立たせる“鍵”なのだ。
「……できる……できるはず……
ナオキが……そう言った……
ちいさいチリ……あつくして……
三つを……ひとつに……して……」
リヴの喉がかすかに震えた。
空気がほんの少しだけ、熱を帯びる。
(……来る……?)
「ひ……よ……!」
次の瞬間――
ぼっ!
柔らかい赤い光が、“音”のように弾けた。
リヴの掌の前に、小さな火の粒が灯り、
それはほんの一瞬だけ、朝日の光より鮮やかに輝いた。
風に揺れる草に照り返り、
木漏れ日の中で小さく舞って、ふっと消える。
煙の匂いが、かすかに漂った。
「………………」
リヴの目が、金魚のようにぱちぱち動いた。
口が、ひらいて、閉じて、またひらく。
声にならない声がこぼれる。
「……い、いま……でた……?」
風も鳥も止まったような静寂。
ナオキは呆然としながら、ゆっくりと頷いた。
「ああ……完全に……出てた」
「……あたし……?
あたしが……?
まほう……?」
リヴの瞳が、震えながら潤み出す。
こつん、と胸の前に拳を当て、信じられないように息を吐いた。
「でた……
ほんとうに……でた……
ナオキ……あたし……いま……」
「やったぁぁぁぁぁああああああああ!!!!!」
大地が震えたかと思うほどの声が森に響いた。
鳥たちが驚いて一斉に飛び立ち、
木の葉がばさっと音を立てて揺れる。
リヴは跳ねた。
両手を広げて回った。
急に走り出して、すぐ戻ってきて、また跳ねた。
髪がふわりふわりと揺れ、耳がぴょこぴょこ動く。
「でた!! でた!! ほんとうに火!!
わたし!! できた!!
できたよナオキ!!!!!」
「お、おう……」
「ぜんぜん熱くなかった!! いたくもない!!
すごい!! すごいよこれ!!
いまの、あたしの……あたしの火!!」
何度も言うたびに、リヴの声がわずかに裏返る。
三か月もの孤独と恐怖で縮み切っていた心が、
一気に弾けるように膨らんでいく。
「ナオキ!! すごい!
ナオキ、みてた!? みてた!?
ちゃんと、火!! ひ!! ひが!!」
「見てたよ。完璧だった」
「……っ……!」
リヴは両手で口を押え、うるんだ瞳でナオキを見る。
「ナオキ……あのね……
あたし……ほんとうに……できた……
ほんとうに……」
「ああ。リヴの魔法だ」
「まほう……
わたし……まほう……
ずっと……できないって……思ってたのに……」
声が震える。
長い耳が、嬉しさでふるふると揺れる。
「ナオキが……
“りくつ”をくれた……
“できるかもしれない”って……
そう思わせてくれた……
だから……でた……!」
その顔は、笑っているのに泣きそうで、
泣いているのに笑っていた。
「ナオキ……ありがとう……
あたし……ほんとうに……」
息を吸い込む。
「――あたし……
まほうつかいに……なる!!」
その宣言は、森に、空に、朝の世界全部に響き渡り、
草原を渡る風がそれを抱き上げるように広がっていく。
ナオキは静かに、誇らしげに笑った。
「いいじゃん。今日から魔法使いのリヴだ」
「なる!! 本気でなる!!
みててねナオキ!!
あたし……ぜったい……もっと……!」
リヴは胸の前で小さく拳を握りしめ、
朝の光を受けて跳ねる。
その姿は――
どんな火よりも、どんな魔法よりも、
この世界でいちばん明るかった。




