三ヶ月の孤独と、再会の代償
リヴが去ってから、およそ三か月。
ナオキの生活は、六畳とウロ――ふたつの空間を往復する一本の線のように細く、静かに続いていた。
夜は介護施設での夜勤。
明け方に短い仮眠を挟み、日中は通信制の講義とレポート。
空いた時間はすべて、ウロでの作業と記録に消えていった。
それでも倒れずにいられるのは、木の根に守られた棚に置いた、小瓶ひとつのおかげだった。
細かく砕いた、あのエナジーキノコの粉末。
カップスープにひとつまみ混ぜると、胸の奥に小さな火が点く。
眠気と倦怠を押し返すような、淡い温かさ。
効き目が強すぎると分かっているから、ナオキは計量スプーンを使い、ほとんど儀式のように量を決めていた。
命を削らないための、命綱。
孤独な研究は、毎日を埋めていた。
青黒い薬草を刻み、六畳のプランターへ。
水耕栽培用の容器にも分け、土の配合、湿度、温度、光の角度までノートに書き留める。
結果はどれも変わらなかった。
地球の土は、その葉を抱こうとしなかった。
根は伸びる前に白く乾き、葉は色を失い、指先で触れた瞬間、紙片のように崩れる。
息をのむ暇もないほど脆かった。
(やっぱり……俺の世界だけじゃ、この生命には届かないんだろうな)
落ち込む気持ちは確かにあった。
けれど、不思議と絶望にはならなかった。
リヴの世界の命が、こちらでは生きられない。
ただ、それだけの話なのだと、自然に受け取れていた。
ノートに一行、書き込む。
「薬草A:地球側での増殖は現状不可。供給源はリヴのみ」
残されたインクの線は淡々としている。
けれど胸の奥では、その一行が重い沈殿のように沈んでいった。
それでも、手は止めない。
軟膏の配合と、皮膚の回復具合。
キノコ粉の分量と、夜勤明けの身体の戻り方。
そうした細かな実験が、ページを少しずつ埋めていく。
進まない部分と、確かに前へ進む部分。
その両方が、三か月の重さになった。
買い出しのための財布は、いつも薄かった。
百円ショップの金属スプーン、小鍋、保存容器。
特売の日だけ買う醤油や味噌。
災害用の保存食。
袋が指に食い込む帰り道、レジ袋の擦れる音まで違って聞こえた。
これが異世界の資本になる。
そう思うと、生活用品のひとつひとつに、別の重さが宿った。
ウロでは、それらをブルーシートの上に並べていく。
金属の冷たい光。
乾いた香辛料の匂い。
日本語のラベルが、木の内側で場違いなほど鮮やかだった。
(三か月後、どれを渡せて、どれが役に立つんだろう)
そんな未来の想像が、孤独な作業の支えになっていた。
約束の日が近づいたある朝。
夜勤明けの眠気を振り切り、ナオキは六畳の部屋を出ると、そのまま木の中の十畳へ向かった。
三十二型の木目をくぐると、十畳の空間はいつものひんやりした空気に包まれていた。
ランタンを灯せば、金属や瓶や袋――自分が積み重ねてきた日々が、柔らかい光を跳ね返す。
落ち着いて待てる気はしなかった。
ポータルの前のブルーシートを整える。
軟膏の小瓶を箱に収める。
湯を沸かす準備もしてから、森側の目隠し布の前に腰を下ろした。
ウロの外は、もう朝だった。
布越しに湿った風が通り、鳥の声が近づいたり遠ざかったりする。
木の根の隙間から射す光がゆっくり濃くなり、ランタンを消しても、空間は淡い光をたたえていた。
時間が妙にゆっくり流れる。
一時間。
時計の針が一周するたび、森の音が変わっていく。
二時間。
どこかで枝が折れる。
それが獣の気配なのか、ただ風が走っただけなのか、判別ができない。
胸の奥で、勝手に悪い想像が形を取り始めた。
(獣に襲われた……?)
(街で誰かに目をつけられた……?)
(もう来ない、と決められていたら……?)
考えが深くなる前に、指先で木の床を軽く叩いた。
変な想像を育てるだけ無駄だ。
そう自分に言い聞かせる。
それでも、不安は静かに形を変えながら居座った。
そのときだった。
森側の布が、微かに揺れた。
「……」
反射的に立ち上がる。
手にはいつの間にか、そばにあったバールを握っていた。
布の向こうから近づく気配。
足音は軽くない。
地面を引きずるような、疲れた足取り。
布が、ゆっくり持ち上がる。
差し込んだ朝の光の中に、ひとつの影。
フードの影が揺れ、その下から――見覚えのある輪郭。
「……リヴ」
名前が漏れたとき、腕から力が抜けた。
バールが土の床に落ち、鈍い音が響く。
リヴは、小さなデイパックを背負い、弓を握っていた。
顔は泥と汗で汚れ、頬には乾いた筋が残っている。
青い瞳の縁は赤く、白目には細かな血管が浮かび、肩で息をしていた。
長い旅で擦れた革紐が腕に絡み、弓の弦には張り替えた跡がいくつも刻まれている。
足元はふらつき、靴底は薄く削れていた。
それでも、ウロに入った瞬間、リヴは一度だけ木目を振り返った。
その奥にある六畳を確かめるように――ほんの一瞬だけ目を細めた。
そして力が抜けたように、デイパックを降ろし、その場に膝を落とした。
土がわずかに舞う。
「……よく帰ってきた」
それしか言えなかった。
「無事で、本当に……よかった」
声が震えた。
リヴは息を乱しながら、かすかに頷いた。
足元には、汚れた布袋が並んでいた。
袋を開けると、青黒い薬草がぎっしり詰まっている。
別の袋には、乾いたキノコが数種類。
土と干しキノコの匂いが、一気に広がった。
リヴはデイパックの奥を探り、くしゃくしゃのスケッチブックを取り出した。
「ナオキ……ただいま」
その一言で、胸の奥が強く揺れた。
スケッチブックには、ナオキが描いた簡単な線の横に、びっしりと細かい文字や図が描き足されていた。
硬貨の絵。
城壁らしき線と、門の印。
塩の周囲に並ぶ矢印と注釈。
読めない文字でも、そこに込められた密度は伝わった。
リヴは、呼吸を整えながら語り始めた。
塩の価値。
領主の専売。
街での視線。
砂糖の白さがどれほど珍しいか。
ライターが“神の火”と呼ばれたこと。
ナオキの背に冷たい汗が伝った。
そして、ヴァルターの名前が出た。
市場での失敗。
囲まれかけたこと。
商会の男に助けられたこと。
安全のために、知っている限りのことを差し出したこと。
「こわかった」
「でも、言わないと……もっと、こわい」
声が震え、最後はほとんど聞こえなかった。
そして、深く頭を下げた。
「ナオキ……わたし、しっぱい……した」
その言葉で、ナオキの胸が詰まった。
自分の軽い考えが、どれほど大きな渦に触れたのか。
領主。
専売。
商会。
知らなかった言葉が、急に現実味を帯びて迫ってくる。
乾いた喉で、なんとか声を絞り出す。
「いい」
短い言葉だった。
けれど、本音のすべてだった。
「いいよ、リヴ。よく……生きて帰ってきた。それだけで、もう十分だ」
言葉が終わる前に、リヴの肩が震えた。
ナオキは膝をつき、そっとその身体を抱き寄せた。
泥と汗の匂い。
細い背中。
腕の中で乱れる呼吸。
シャツに触れた頬が、ゆっくりと熱を伝える。
「ナオキ……」
掠れた声が胸元で震えた。
その重さは、三か月分の孤独と恐怖。
そして、たったひとつの帰る場所を見つけた安堵だった。
ナオキは、胸の奥に広がる痛みから目をそらさなかった。
(俺が無知だったからだ)
塩も砂糖も、軽い金策のつもりだった。
向こうの世界では、命を左右する力になりうる。
その想像を、してこなかった。
(次は絶対、同じやり方はしない)
腕の中の小さな体温を確かめながら、静かにそう誓った。




