第16話:夜勤の休憩室:秘密の小瓶と、一瞬の奇跡
リヴが去り、ウロには寂しい静けさだけが残った。
薄く揺れるランタンの光と、青黒い薬草の束。
リヴが最後に残していったキノコが、ブルーシートの上でぽつんと転がっている。
(三度、月が満ちる頃……三か月くらいか。長いな)
名残惜しさと一緒に、その猶予が胸の中に落ちてくる。
泣いてばかりもいられない。直輝は、残された時間を「準備期間」として使うことにした。
薬草とキノコの検証。
在庫を切らさないためのルーチン。
次にリヴが来たとき、迷いなく差し出せる「取引の品」。
ウロの片隅には、少しずつ工業製品の山ができていった。
液体石けん、軍手、トング、チャック付きポリ袋。
保存が利いて、少量でも価値がありそうな醤油と味噌の小瓶、砂糖と塩の小袋。
増やす実験がうまくいけば理想だ。
けれど今のところ、あの薬草もキノコも、リヴの命がけの採取に頼っている。それだけは、嫌でも分かっていた。
それでも、孤独な準備の中で、少しずつ「やれること」が増えていく感覚があった。
ウロでの作業を切り上げ、直輝は夜勤のため介護施設へ向かった。
キノコ粉入りスープのおかげか、身体の重さはまだましだ。
午後十時。休憩室のドアを開けると、美咲が片腕を押さえて椅子に座っていた。
「美咲さん、どうしたんですか?」
「ああ、直輝くん。大丈夫、大丈夫」
そう言いながらも、表情の端にわずかな歪みがある。
「さっき移乗のときに、ベッドの角で肘ぶつけちゃってね。けっこう深くいったみたいで……縫うほどじゃないけど、テープで固定してあるから、明日までちょっとしんどいかも」
肘には縦に走る数センチの切り傷。
ステリーテープでしっかり押さえられているが、上腕に力が入らないのか、動きはぎこちなかった。
美咲は、直輝が心から信頼している先輩だ。
忙しい現場で、何度もさりげなくフォローしてくれた相手でもある。
(このまま働かせたら、絶対負担になるよな)
直輝は、肘と顔とを交互に見ながら、胸の奥で計算を始める。
(消毒とテープだけじゃ、多分まともに動かせない。だけど、俺には)
冷蔵庫の中の、小さなガラス瓶。
自分のささくれに塗っただけで、あっという間に皮膚を修復した、あの軟膏。
脳裏に浮かぶのと同時に、別の言葉もよぎる。
(見つかったらアウトだな。クビどころか、資格も、リヴとのことも全部吹き飛ぶ)
それでも目の前には、痛みをこらえて笑顔を作ろうとしている先輩がいる。
(俺は介護職員だろ。目の前で困ってる人を放っておくほうが、よっぽど後悔する)
考える時間は長くない。
一瞬だけ目を閉じ、直輝は腹を括った。
「美咲さん、もしよかったらですけど……休憩室で、ちょっと試してみませんか」
「試す?」
「すごく効く塗り薬があるんです。市販じゃないんですけど……」
言葉を選びながらも、声だけは真っ直ぐに出す。
美咲が、少し目を丸くした。
「……本当にそれ、大丈夫?」
不安が混じった視線だ。
けれど、その奥には、日頃の仕事ぶりに対する信頼も見える。
直輝は、できるだけ軽く笑ってみせた。
「変なものじゃないです。もし合わなかったらすぐ洗い流しますし」
数秒だけ沈黙が落ちる。
そのあと、美咲は小さく息を吐いて、肘をこちらへ差し出した。
「……分かった。じゃあ、直輝くんを信じてみる」
その一言に、背筋が伸びる。
直輝は手袋をはめ、ポケットから小さな容器を取り出した。
中の淡い緑色の軟膏を、少量だけ指先に取る。
「少しひんやりします」
声をかけてから、テープの端を浮かせ、なるべく傷口に触れないように塗り広げる。
冷蔵庫から出したばかりのひんやりした感触が、美咲の皮膚に触れた。
数秒。
そのあいだに、赤く盛り上がっていた部分が、じわじわと落ち着いていく。
「……あれ?」
美咲が、小さく声を漏らした。
痛みが引いていくのが、自分でも分かるのだろう。
さっきまで強張っていた表情が、驚きへ、そして戸惑いへと変わっていく。
「ちょ、ちょっと待って。今、塗ったよね?」
「はい」
「……え、なんか、もうほとんど痛くないんだけど。何これ」
声は半分笑い、半分震えだ。
直輝は、テープを軽く押さえながら経過を見る。
腫れが引き、皮膚の色が落ち着いていく。
医学書で見たどの経過とも違う速度だ。
誰よりも自分が一番、おかしさを理解している。
「ちょっと、腕動かしてみてもらっていいですか」
言われるままに、美咲は肘をゆっくり曲げ伸ばしした。
「……うそ。さっきまで、この角度でズキってきてたのに」
また少し沈黙。
今度は、美咲が自分から口を開いた。
「直輝くん、これ、市販の薬じゃないよね」
疑うというより、確認する声だった。
「はい。……あんまり人には言えないやつです」
正直に答えると、美咲はふっと息を漏らし、表情を緩めた。
「そっか。うん、納得した。こんなの、普通の薬なわけないよね」
看護師の目は誤魔化せない。
それでも、問い詰めるかわりに、彼女は肘をさすって笑った。
「でも……助かったよ。本当に。明日もふつうに仕事できそう」
「よかったです」
安堵と同時に、胸の奥でさっきの不安が再び顔を出す。
ここから先の一言で、すべてが変わる。
直輝は、少しだけ頭を下げた。
「お願いが一つだけあるんですけど……今日のことは、できれば内緒にしてもらえませんか」
「内緒?」
「はい。俺にも、いろいろ事情があって」
全部を説明することはできない。
それでも「真面目にやってるから信用してくれ」とだけは伝えたかった。
美咲は数秒だけ考えてから、くすりと笑う。
「分かった。誰にも言わない」
「ありがとうございます」
「直輝くんの、企業秘密ってことにしておく」
その言い方が可笑しくて、緊張が少しだけほぐれた。
二人とも、同時に小さく笑う。
美咲はもう一度、肘を大きく回してみせた。
「ほんとに、すごいね。……不思議な人だなあ、直輝くん」
照れくさくて、直輝は肩をすくめる。
「不思議なのは軟膏のほうです。俺はただの、夜勤明けが多い介護職員ですよ」
休憩室の窓の外では、駐車場の外灯がじんわりと地面を照らしている。
自販機のモーター音と、遠くのナースコールが、いつもの夜勤の音として戻ってきた。
「とりあえず、今夜はそれで乗り切れそう。ありがとね」
「こちらこそ、試してくれてありがとうございます」
それきり、二人はいつもの仕事の話に戻った。
新人の失敗談や、明日のシフトの愚痴。
さっきまでの出来事が嘘のように、会話はいつもの調子を取り戻す。
ただ一つだけ違うのは、美咲の肘が、もう仕事の邪魔をしていないということ。
直輝は、休憩室を出る前にもう一度だけ、彼女の腕に目をやった。
テープの下で静かに落ち着いている皮膚と、ほっとした笑顔。
(今日のことは、ここだけの話だ)
声には出さず、心の中でそう区切りをつける。
秘密を一つ抱えた夜勤。
それでもフロアに戻る足取りは、いつもより少しだけ軽かった。
ポケットの中で、小さなガラス瓶が冷たく揺れている。




