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『32型テレビが繋g...(略)~手取り15万、現代物資(10秒制限)で成り上がる~』  作者: ひろボ


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閑話:リヴネ・モーアの目覚めと文明の毒

 私は、リヴネ・モーア。

 ――ハーフエルフだ。


 迫害を受けているわけじゃない。

 けれど、集落の中で、私の居場所はいつも端のほうだった。

 森の掟を破ることはできない。

 人の目から外れることで、ようやく息ができる、そんな暮らしだった。


 母の体調が優れなくなった。

 咳が続き、顔色が少しずつ土の色に近づいていく。

 薬草が必要だった。


 だから私は、いつも決められている採取場から外れ、

 もっと深いところへ足を踏み入れた。

 戻れなくなるかもしれないと分かっていても、行くしかなかった。


 そして森の中で、私は倒れた。


 獣の牙でえぐられた深い傷。

 血が止まらず、身体が冷えていく。

 息をするたび、胸の奥で何かが割れるように痛んだ。


(ああ、ここまでか)


 ぼんやりと、そんなことを思った。

 母の顔も、木の梢も、空も、全部、遠くなっていった。


 次に目を覚ましたとき、私は木の根に囲まれた不思議な場所にいた。


 大きな樹の内側。

 なのに、雨も風も入ってこない。

 地面は土の匂いがするのに、どこか人の気配が強い。


 そして、その真ん中に、見たことのない服を着た男が座っていた。


 恐怖が、真っ先に胸に飛び込んできた。


 知らない人間。

 知らない服。

 知らない匂い。


 私は思わず叫んだ。

 殺されるか、どこかに売られるか――

 武器もなく、立ち上がることもできない私は、どうすることもできなかった。


 けれど、その男は、弓を奪うことも、髪を掴むこともせず、

 ただ静かに近づいてきた。


 白い布。

 透明な容器に入った水。


 それで、私の傷口を洗い始めた。


 水は、森の泉よりも澄んでいた。

 傷口に触れたときは焼けるように痛んだのに、

 そのうち、熱が少しだけ引いていく。


 彼の手つきは迷っていない。

 怖いほど慣れているのに、乱暴ではなかった。

 手のひらは、森の土より、焚き火の火より、なぜか温かく感じた。


 その夜、私の恐怖はさらに強くなった。


 彼は、何もない木の壁に近づくと――

 そのまま、すっと消えたのだ。


 そこには固い木の壁しかない。

 どこにも道はないのに、男は壁の向こうへ消えた。


 次に戻ってきたとき、彼の腕には、光る箱や、見たこともないものが抱えられていた。


 壁を抜けて、物を出し入れする男。

 森の精霊とも違う。

 私の知るどんな魔法とも違う。


 怖ろしい力を持つ幽霊か、神さまに近い何か――

 そう考えるしかなかった。


 ……でも、彼は、私を傷つけなかった。


 毎日、傷の手当てをしてくれた。

 薬草でも見たことのない匂いのする塗り薬や包帯で、

 ちょっとずつ、痛みが引いていく。


 しばらくすると、彼は“食べ物”も差し出してきた。


 乾いた、土の塊みたいなもの。

 最初は疑いながら、少しだけかじる。


 次の瞬間、舌がびっくりして固まった。


 甘い。

 果実の蜜とも違う。

 口の中いっぱいに広がって、喉の奥まで、じんわり残る。


 森で採れる甘さは、一瞬で消える。

 でも、その甘さは、飲み込んだあとも、しばらくそこに居座り続けた。


 私は震えた。


 命を拾ってもらって、こんなものまで貰っている。

 返せるものなんて、何もない。


 それでも何か渡したくて、ほとんど全財産みたいな錆びた鉄片を差し出した。

 命がけで拾った、貴重な鉄。


 彼は、それを見て少し驚いた顔をしたあと、

 ふっと笑って、逆に塩と角砂糖を押し付けてきた。


 白い粉と、透き通る甘い石。

 私たちが何年もかけて集めるものを、

 彼は、まるで乾いた木の枝でもくれるみたいに渡してきた。


 この人のまわりでは、ものの重さの決まり方が、森とはまるで違うのだと思った。


 彼の言葉は、最初は何も分からなかった。

 でも、彼は根気強く絵を描き、身振りで説明してくれた。


 紙の上に描かれた薬草や道具。

 指さしながらゆっくり話す声。


 少しずつ、音のつながりと意味が結びついてきて、

 やがて、名前を聞くことができた。


 ――ナオキ。


 言葉がつながり始めた頃、彼は黒い液体と茶色い塊を見せてきた。

「ショウユ」「ミソ」――そう言っていた。


 指先で少しだけすくって舐める。


 塩気。

 苦味に似た深さ。

 鼻の奥にまとわりつく、不思議な香り。


 舌だけじゃなく、胸のあたりまでざわざわして、

 理由もなく涙が出そうになった。


 彼が見せてくれる味は、どれも初めてのものだった。

 どれも、森で覚えた味と重ならない。


 私の傷が完全に癒えた日、

 彼は、白くて柔らかいものを差し出した。


「クリームパン」


 そう聞こえた。


 それは、集落のどのパンとも似ていなかった。

 皮は硬くなく、指を押し当てると、ふにっと沈む。


 一口かじった瞬間、膝の力が抜けた。


 中から、とろりと甘いものがあふれ出す。

 舌の上に落ちた瞬間、それまで知っていた甘さの全部が、まとめて押し流される。


 森の果実も、蜂蜜も、

 いま頭の中に浮かぶ甘さは、どれも、色の抜けた影みたいに感じた。


 もう一口。

 その一口をかじる前に、次の一口のことを考えている自分に気づいて、背筋が冷たくなった。


(こんなものを知ってしまったら、戻れない)


 本気で、そう思った。


 あれは食べ物じゃない。

 天から落ちてきた、甘い罠みたいな何かだ。


 クリームパンを食べ終えたとき、

 自分の中で何かが変わったのが分かった。


 ナオキと過ごしているあいだ、

 ウロの中は、いつも食べ物の匂いで満ちていた。


 スープの湯気。

 肉を焼く香り。

 知らない草の、温かい匂い。


 どれも、私の暮らしてきた森の匂いと混ざり合って、

 もう元の匂いがどんなものだったか、分からなくなりそうだった。


 別れの日、ナオキは私のために小さな宴を開いてくれた。


 彼は「ささやか」だと言ったけれど、

 私にとっては、森ひとつぶんでも足りないくらいの、ごちそうだった。


 銀色の鍋から立ちのぼる、濃い匂い。

 肉も野菜も、見たことのない形に切られ、

 ひとつの煮込みになっている。


 スプーンで少しすくって口に運ぶ。


 舌が痺れるほどの旨味。

 野菜の甘さと、肉の力強さ。

 よく分からない香辛料の刺激が、最後に小さく刺してくる。


(言葉が足りない)


 そう思った。

 森で覚えたどの言葉を並べても、追いつかない。


 他にも、聞き慣れない名前の料理が次々と出てきた。

 どれも全く違う味なのに、全部「おいしい」という答えにたどり着く。


 そして最後に、またクリームパンが出てきた。


 一口かじっただけで、

 さっきまで食べていた料理の記憶が、全部、柔らかい光に塗り替えられていく。


 体の内側で何かがほどけて、

 目の奥がじんわり熱くなった。


 旅立ちの前、ナオキは小さな袋をくれた。

 “デイパック”と呼んでいた。


 中には、白い砂(砂糖)と塩、水筒、固いパン、見たことのない道具。

 どれも、集落ではとても手に入らないものばかり。


「人前で使うな」


 彼は、いつになく真面目な顔でそう言った。

 その声は優しいのに、森の掟のような重さもあった。


 ナオキの木の家。

 小さな六畳の部屋。


 そこには、私の知らない道具が山ほどあった。

 何に使うか分からないものだらけなのに、どれもよく磨かれている。


 短いあいだだったけれど、本当にいろいろなことがあった。


 私は弓矢を背負い、森側の出口へ向かった。

 ウロから外へ出る風は、前より少し冷たく感じた。


 森の闇に足を踏み入れる前に、一度だけ振り返る。


 木の幹の内側に作られた、小さな光の部屋。

 そこに、ナオキが立っていた。


 胸の奥から、勝手に言葉がこぼれた。


「ナオキ……ありがとう……!!」


 私の異世界の言葉でも、集落の言葉でもなく。

 ナオキが教えてくれた、そのままの音で。


 夜の森を歩く。


 風は冷たい。

 獣の唸り声が、遠くで低く響いている。


 何度も足を止めては、胸の奥で「味の記憶」が暴れ出すのをこらえた。


 あの甘さ。

 あの柔らかさ。

 あの温かい光みたいな味。


 ……クリームパン。


 水を飲んでも、薬草を噛んでも、あの味は戻ってこない。

 喉を通るものが全部、ぬるい水みたいで、腹の奥だけが空っぽのままだった。


 どんな蜜も、どんな果実も、前より薄くて軽くて、噛んでいるうちに腹立たしくなってくる。

 同じ森の木から採れたものなのに、別の場所の残りかすみたいに感じた。


(あれは、毒だ)


 身体を壊す毒じゃない。

 心の中の「おいしい」と「うれしい」の場所を、根っこから掘り返してしまう毒だ。


 森の風の味が、薄くなった。

 木々の香りが、遠くから聞こえる歌みたいにしか感じられない。

 焚き火のあたたかさが、ただの熱にしか思えない瞬間がある。


(これが……あの人のくれる“文明みたいなもの”の毒なんだ)


 私は、自分の手を見つめた。


 あの軟膏で癒えた傷跡は、もうどこにもない。

 でも、別の傷が残っている。


 目には見えない傷。

 胸の奥に、深く刻まれた、甘い傷。


 ナオキの笑顔。

 温かいスープの匂い。

 小さな部屋に満ちていた電灯の光。


 それら全部が、私の世界の色を、少しずつ変えていく。


 私は、もう前みたいな「ただ森にいる娘」には戻れない。

 ナオキのそばにあった、あの光や道具や味を知ってしまったからだ。


 だから、決めた。


 三度、月が満ちたその夜。

 私は、もう一度あの人に会いに行く。


 恩義のためでも、生きるためでもない。


 ――ただ、あの味を、もう一度確かめるために。

 そして、あの狭い部屋の光の下で、自分がどんな顔をするのかを、知るために。

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