第15話:言葉の夜明けと、旅立ちの決意
目を開けたとき、カーテンの隙間から差し込む光は、もう朝の強さを持っていた。
六畳の天井の木目をぼんやりと眺める。
すぐに、昨日の夜の感触が指先からよみがえってきた。
(軟膏)
右手を持ち上げる。
ささくれがあったはずの指先は、つるりとした皮膚に覆われていた。
ひび割れの赤みも、かさつきも、跡のようなものがかすかに残るだけだ。
「……夢じゃないよな」
自分の声が、六畳の空気に小さく溶ける。
濃縮した薬草の軟膏。
あの青黒い葉を搾り、冷やして、もう一度冷やして濃くしたものを、ワセリンと混ぜた。
ほんの少し塗っただけで、この結果だ。
(チートどころの話じゃない)
怖さと同時に、助かったという安堵もあった。
もしこれがただの気休め程度の効き目だったら、森の中で使う価値は薄い。
けれどこれは、はっきりと効く。
怪我を、傷を、現実離れした速度で閉じてしまう。
枕元のスマホに手を伸ばし、時間を確認する。
まだ午前中。夜勤明けの身体には少しきつい時間だが、今日は眠気に負けている場合ではない。
冷蔵庫のドアポケットを開ける。
淡い緑色の軟膏が入った瓶が、ひんやりした光の中に佇んでいた。
瓶を手のひらに乗せると、重さはたいしたことはない。
けれど、その中身が持つ意味は、六畳の空間には収まりきらない気がした。
(人には絶対見せられない。病院なんかに持って行ったら終わりだ)
それでも。
川辺で見たリヴの足首の傷が浮かぶ。
歩くたびに少しだけ歪む口もと。
笑ってごまかしながらも、確かに痛みを抱えたまま歩いていた姿。
(あの子の足には、使う)
決意は、昨日の時点でもう固まっている。
一晩経っても、それが揺らぐことはなかった。
小さなクリームケースを開け、きれいなスプーンで軟膏を移す。
ウロに持ち込むには、このくらいの大きさで十分だ。
蓋を閉め、指で軽く押さえる。
ポケットに入れる前に、何度かひっくり返してみた。
漏れはない。
リュックの中には、いつもの非常用の食料と水。
それとは別に、今日は小さな包みをいくつか用意していた。
飴。
クリームパン。
缶詰のビーフシチュー。
薄いレインコート代わりの透明なポンチョ。
どれも、特別なものではない。
コンビニとスーパーを回れば、誰でも買えるものばかりだ。
けれど、森の中でひとりで眠り、街へ向かう少女にとっては、そのどれもが贅沢品に変わる。
(送別会と、旅支度と、保険)
そう考えることで、胸のざわつきをなんとか言葉の形に押し込めた。
「よし」
小さく呟き、三十二型テレビの前に立つ。
胸ポケットに、クリームケースを滑り込ませる。
「行ってくる」
画面に触れた瞬間、六畳の空気が、木の内側の湿った冷気にすり替わった。
十畳のウロは、静かだった。
ランタンの明かりを点けると、土の床に置きっぱなしのポリポットやブルーシートが淡く浮かび上がる。
リヴの印が刻まれた木片も、壁際にきちんと寄せられたままだ。
森側の出口に掛けた布の隙間から、かすかな気配が伝わってきた。
衣擦れ。
布袋同士が軽くぶつかる音。
それから、ごく小さな息遣い。
「……来てるな」
出口の布がわずかに膨らみ、フードの影が差し込んでくる。
布がめくれ、リヴが姿を現した。
今日は、いつもと装いが違っていた。
厚手のマント。
腰にはいつもの小さなナイフに加えて、もう一本、簡素な革鞘に収められた短剣。
肩には、使い込まれた帆布のバッグ。
背中には細いロープで括りつけた寝具のような包み。
さらに、自分の背丈より少し長い弓と矢筒を背負っている。
旅支度の姿だった。
それでも、顔だけはどこかあどけない。
フードの影から覗く青い瞳が、ウロの中をぐるりと確かめ、最後にナオキの顔に留まる。
ほっとしたような、それでいて少しだけ心細さを滲ませた表情。
昨日と同じだ。けれど今日は、その先に別れが待っていることを知っている顔だった。
足元に視線を落とす。
足首をかばうような歩き方は、まだ完全には消えていない。
(やっぱり、まだ痛い)
リヴは、小さく会釈をしたあと、ウロの中を見回した。
いつも自分が座っていた場所に視線が留まり、ゆっくりと腰を下ろす。
マントの裾がずり落ち、足首が覗いた。
簡素な包帯が巻かれている。
前よりも腫れは引いているように見えたが、包帯の隙間から覗く皮膚には、まだうっすらと赤みが残っていた。
リヴの視線も、自分の足首に吸い寄せられる。
少しだけ、眉が寄る。
(痛むんだろうな。これから、森を抜けて街まで歩くんだから)
ナオキは、胸ポケットに手を入れた。
クリームケースの小さな固さが指に触れる。
「リヴ」
名前を呼び、ゆっくりと彼女の前に膝をつく。
手のひらを上に向け、足首を示し、それから自分の胸ポケットを軽く叩いた。
リヴは、きょとんとした顔でその動きを追いかけた。
視線が、足首とナオキの手とを行き来する。
ナオキは、胸ポケットからケースを取り出し、蓋を開けて見せた。
淡い緑色の軟膏が、ランタンの光を受けて鈍く光る。
リヴの表情が、警戒と興味のあいだで揺れた。
あの薬草の匂い。
前に生のまま塗ったときと同じ、かすかな青臭さが、空気をかすめる。
彼女の喉が、こくりと上下した。
何か短い言葉が、唇の裏で形になりかけて消えた。
ナオキは、わざとゆっくりとした動作で、自分の指先に軟膏を少しだけ取った。
すでに治ってしまっている指だが、そこにもう一度塗り広げて見せる。
「これ。キズ、なおす」
日本語で言いながら、指先とリヴの足首を交互に指差した。
意味がどれだけ伝わるか分からない。
ただ、以前生の薬草を塗ったときの感覚は、彼女の身体にも残っているはずだ。
リヴは、自分の足首をじっと見つめた。
布の向こうで、筋肉がわずかに強張る。
少しだけ迷うような沈黙のあと、彼女はゆっくりと頷いた。
マントの裾を自分で持ち上げ、足首をランタンの光の下にさらす。
包帯をほどくのは、ナオキがやった。
巻き終わりの結び目は、何度も自分の手で直したのだろう。
きちんと固定されていて、解くのに少し時間がかかった。
布の下から現れた皮膚には、うっすらと痣のような色が残っていた。
小さな切り傷がいくつか並び、その周囲がまだ赤く、指で押すと熱を帯びている。
リヴの顔が、ほんの少しだけ歪んだ。
声は出さない。けれど、痛みを飲み込む癖がついていることが、その表情だけで分かった。
(これで街まで歩くつもりだったのか)
心の中で舌打ちしたくなる衝動を飲み込む。
怒りの矛先は、彼女ではない。
彼女をその状態のまま送り出そうとしていた自分の甘さに向いていた。
ナオキは、指先に軟膏をすくった。
たっぷりとではない。けれど、指の腹がきちんと濡れるくらいの量。
「ちょっと、ひやっとするけど」
自分に言い聞かせるように小声で呟きながら、傷口の周囲からゆっくりと塗り始めた。
ひやりとした感触が、指の下から伝わってくる。
リヴの足首の筋肉がぴくりと震えた。
彼女の手が、マントの裾をぎゅっと握りしめる。
痛みか、驚きか。
そのどちらもだろう。
数回、円を描くように擦り込む。
軟膏の緑は、皮膚の色に紛れていく。
代わりに、赤く盛り上がっていた部分が、じわじわと沈んでいった。
ナオキは、息を詰めかけて、意識的に深く吸い込んだ。
指先の感触が、さっきの自分の指と全く同じだと気づく。
熱が、引いていく。
硬く張っていたところから、緊張がほどけていく。
リヴの肩が、小さく震えた。
それが痛みによるものではないと分かるまでに、そう時間はかからなかった。
目の前で、皮膚の色が変わり続ける。
紫がかった痣の色が淡く薄れ、切り傷の縁が、細い糸で縫い合わせたように寄り合っていく。
新しい皮膚が、内側から押し上がってくるような、現実離れした光景だった。
リヴの青い瞳が、大きく見開かれる。
瞳孔がわずかに収縮し、焦点が傷からナオキの指へ移る。
息を吸う音が、かすかに聞こえた。
その息が、喉の途中で止まり、胸の奥で丸くなったまま動かなくなる。
ナオキは、最後に残った軟膏を、足首全体に薄く伸ばした。
指を離し、手のひらを軽く引く。
「……こんなもんでいいか」
独り言に近い言葉が口から漏れる。
誰かに報告しているわけでもない。
けれど、口に出さずにはいられなかった。
リヴは、自分の足首を凝視したまま動かない。
マントを握る手の力だけが、まだ残っている。
やがて、恐る恐るというふうに足首を持ち上げ、そっと足首を回してみた。
それから、ウロの床に足をつける。
一度、かかと。
二度、つま先。
三度目で、体重を乗せる。
痛みが走ったなら、顔に出るはずだった。
けれど、彼女の表情に浮かんだのは、別のものだった。
混乱。
驚き。
信じたいのに信じきれない戸惑い。
そして、遅れて染み出してきた安堵。
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
足を肩幅に開き、そろそろと体重を移動させていく。
一歩。
二歩。
ウロの中を、ぐるりと半周する。
痛みが戻ってこないことを、確かめるような足取りだった。
途中で振り返り、ナオキを見る。
視線が絡んだ瞬間、リヴの喉がひくりと震えた。
口が、何かを言おうとして開き、それから閉じる。
言葉が見つからないとき、人は表情で全てを語る。
それは、世界が違っても同じなのだと、そのとき強く思った。
リヴは、胸の前で両手をぎゅっと握り合わせた。
そのまま、深く頭を下げる。
それは、ありがとうの形をした沈黙だった。
治療が終わると、ナオキはリュックを開けた。
ウロの中央に、ブルーシートを広げ、その上にひとつずつ包みを並べていく。
飴の袋。
クリームパンが二つ。
缶詰のビーフシチュー。
折り畳み式のスプーンと、軽い金属のカップ。
くるくると丸めた透明のポンチョ。
並べるたびに、リヴの視線がそこに吸い寄せられる。
けれど、さっきとは違う種類の戸惑いが、その瞳に浮かんでいた。
欲しい。
けれど、全部を受け取っていいのか分からない。
そんな気持ちが、身体の端々に滲んでいる。
「これは、リヴの。たびのあいだの、ごはん」
ナオキは、ゆっくりと両手を広げながら言った。
飴を指差し、口に運ぶ真似をする。
パンを指差し、包みを撫でる仕草。
ポンチョを掲げて、肩にかける真似。
言葉よりも、手の動きのほうが、まだ伝わりやすい。
リヴは、小さな肩を何度か上下させた。
息を整え、それから一つずつ手に取っていく。
飴の袋を持ったとき、指先が微かに震えた。
透明な包み紙越しに透ける色とりどりの飴玉は、森の実とは違う、不自然なほど鮮やかな色をしている。
袋を胸に抱きしめるようにして、そのまま動かなくなる。
目を閉じて、何かを堪えているようだった。
クリームパンを手にしたとき、反応はもっと分かりやすかった。
柔らかさに驚いたように、親指で生地をそっと押す。
パンがゆっくりと凹み、そのあとでふわりと戻る。
その様子を三度繰り返し、最後には、これ以上押すと潰れてしまうと判断したのか、両手でそっと包むように持った。
視線は、パンから離れない。
瞳の奥に、何かが灯る。
ビーフシチューの缶詰は、重さで彼女を驚かせた。
両手で抱えるように持ち上げ、耳元に近づけて振ってみる。
中身がとろりと揺れる音が、金属越しに指に伝わる。
リヴは、何か短い言葉をこぼした。
それはきっと、中身が詰まっている、そんな意味の言葉なのだろう。
ポンチョを広げて見せたときは、完全に魔法の布を見ている顔だった。
薄くて軽いのに、広げると身体をすっぽりと覆う大きさになる。
透明な材質が、ランタンの光をゆらゆらと反射する。
リヴは、その中に自分の腕を通し、肩まで引き上げた。
マントの上からポンチョを羽織った姿は、少し滑稽なはずなのに、不思議と似合っている。
布が肩から滑り落ちないように、彼女は両手で胸元を押さえた。
その仕草が、やけに慎ましく見えた。
(雨の夜に、これがあるだけで全然違うはずだ)
森の雨の冷たさを、まだ自分の肌で知らない。
けれど、夜勤明けに浴びる冬の雨を思い出せば、想像はついた。
ひと通り並べ終えたところで、ナオキはスケッチブックを引き寄せた。
白いページに、丸をひとつ描く。
次に、同じ大きさの丸をもう一つ。
少し間を空けて、三つ目の丸。
その三つの丸の下に、小さくツキとひらがなを書き添える。
それから、三つの丸の先に矢印を引き、その先にマタと書いた。
リヴが、じっと紙を覗き込む。
丸を順番に指差しながら、首をかしげた。
ナオキは、見えない天井を指差し、そこに円を描く動作をした。
外で見上げた月を思い出しながら、口を動かす。
「ツキ」
リヴの視線が、ナオキの唇に注がれる。
真似をしようとする子どものように、慎重に口の形を追いかける。
「……ツ」
最初の音が、わずかに空気に乗った。
驚いたように自分の口元を押さえ、それからもう一度挑戦する。
「ツキ」
今度は、ちゃんと二音になった。
発音は少しだけ引っかかるが、日本語として十分に聞き取れる。
自分でも成功したと感じたのか、リヴの目がぱっと見開かれた。
嬉しさと照れくささが同時に頬に上っていく。
ナオキは、三つの丸の下に小さく点を打ち、サンと書いた。
三つの丸を指差しながら数えるように、サンと口にする。
「サン」
リヴもそれに続ける。
少し音が丸くなるが、意味は通じる。
最後に、矢印の先に書いたマタを指差した。
「マタ」
この言葉は、ナオキにとっても重い。
別れの先にある再会の約束。
安易に口にすべきではないのに、それでも今は、どうしても必要だった。
リヴは、一度目を閉じるようにしてから、ゆっくりと口を開いた。
「……マタ」
声になった瞬間、ウロの中の空気が、わずかに変わった気がした。
言葉は魔法ではない。
けれど、意味を共有するたびに、人と人とのあいだに細い線が引かれる。
さっきまで記号にすぎなかった丸や矢印が、三度の満月と再会を指す印に変わる。
(三回、月が満ちるまで。こっちはこっちで、やること山ほどだ)
そう心の中で区切りをつけたところで、リヴが一歩、森側の出口へ向かう。
リヴは名残惜しそうにウロの中を見回すと、弓と荷物を背負い直し、森の出口へ歩き出した。
森側の布をくぐり、闇に溶けようとしたところで、ふいに足を止める。
細い肩がわずかに揺れ、ゆっくりとこちらを振り返った。
ランタンの光を受けた青い瞳が、まっすぐナオキを捉える。
唇が小さく震え、一度だけ息を飲み込んでから、その口が開いた。
「ナオキ……ありがとう……」
かすれそうでいて、はっきりとした日本語だった。
片言で重ねてきたどの言葉よりも深く、重く、胸に落ちてくる。
言い終えると、リヴはもう振り返らなかった。
弓の影を背中に引き連れて、森の闇の中へと静かに消えていく。
ナオキは、その小さな背中が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
胸の奥がきゅっと縮み、こらえきれずに目頭を指先で押さえる。
返したい言葉はいくつも浮かぶのに、どれひとつ声にならなかった。




