表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『32型テレビが繋g...(略)~手取り15万、現代物資(10秒制限)で成り上がる~』  作者: ひろボ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/104

第14話:新薬の確信と、指先の実験

 夜勤明けの眠気が、まだ身体の奥に残っていた。


 けれど、六畳の天井を見上げているうちに、そのだるさはゆっくりと別のものに塗り替えられていった。


(今日は、川だな)


 枕元のスマホは、昼前の時間を示している。

 仮眠は十分とった。頭の重さは残っているが、目の奥のざらつきは、いつもの夜勤明けより少しマシだった。


 キノコをひとかけら入れたスープのおかげだ。

 その事実を認めると同時に、昨日ノートに書いた言葉が頭をよぎった。


(合法ドーピング。量は守る)


 そう自分に言い聞かせ、布団から身を起こす。




 簡単にシャワーを浴び、コンビニおにぎりをひとつだけ胃に入れる。

 六畳の真ん中にリュックを置き、中身をひとつずつ確認した。


 空のペットボトルが三本。

 百均で買った簡易水質検査キット。

 コーヒーフィルターと紙製の漏斗。

 小さいステンレスボトルと、アルコールストーブ。

 綿棒とリトマス試験紙。

 それから、細いロープとガムテープ。


「……遠足っていうより、社会科見学だな」


 自分で呟いて、少しだけ苦笑する。


 ペットボトルのうち一本には、あらかじめ水道水を入れておいた。

 比較用の「基準」だ。


 ロープは、木と木の間に結んで道標にするつもりだった。

 森の中を歩くことを考えると、方向感覚には自信がない。


 最後に、いつものようにレトルトスープとパンも入れて、リュックの口を締めた。


 ふと冷蔵庫を開け、プラスチックケース越しに薬草の様子を確かめる。

 土の表面は、昨日よりほんの少し湿って見えた。

 薬草の切れ端は、まだ変化らしい変化を見せてはいない。


「こっちはこっちで、気長にだな」


 ケースの端を軽く指で叩いてから、三十二型テレビの前に立った。


「行ってきます」


 画面に触れると、空気が湿った森の匂いに切り替わった。




 十畳のウロは、いつものひんやりした空気で迎えてくれた。


 ランタンの光が土の床を照らし、ブルーシートの上には、前回置いたポリポットと道具類がきちんと並んでいる。


 まずは、リヴとの約束を確認した。


 ブルーシートの端に置いたスケッチブック。

 薬草と砂糖、塩の絵。

 三日のちと書いた日付。


 今日は、その三日目の日だった。


 リュックを降ろして中身を出していると、森側の出口に掛けた布が、不意に小さく揺れた。


 風ではない。

 気配が近づく。


「……」


 ナオキは、無意識に息を整えて入口を見た。


 布がめくれ、フード付きの小さな影が姿を現した。


「リヴ」


 名前を呼ぶと、彼女はわずかに肩を震わせ、ホッとしたように表情を緩めた。


 今日は、両手に一つずつ布袋を抱えている。

 ひとつは、いつもの薬草の束。

 もうひとつは、干しキノコと、見慣れない小さな実が混ざっているようだった。


 リヴはまず薬草の袋を、ナオキの前にそっと差し出す。

 スケッチブックに目を落とし、描かれた絵を確認するように視線を動かした。


 薬草の絵。

 砂糖と塩。

 矢印。

 日付。


 彼女は小さく頷き、腰のポーチから自分用の小さなナイフを取り出し、薬草を几帳面に束ね直した。


 その仕草には、淡い誇りのようなものが混じっている。


「サンキュ」


 意味は通じないが、ナオキは頭を下げた。

 そして、砂糖と塩の小袋をそれぞれ一つずつリヴの手のひらに乗せる。


 白い粒。

 リヴの視線が、一瞬そこに吸い寄せられた。


 けれど、今日は前ほどの飢えたような目にはならなかった。

 彼女なりに、これは「取引」の一部であり、「生活を壊す甘さ」だと理解し始めているのかもしれない。


 リヴは小袋を大事そうにポーチにしまい、次に布袋のもう片方を開いた。

 中から、干しキノコと、紫がかった小さな実がいくつか顔を出す。


「今日は、これも?」


 問いかけるように言うと、リヴは実のひとつをつまみ上げ、自分の口に放り込む真似をした。


 そして、ナオキのリュックと、森側の出口とを交互に指差す。


 短い言葉がいくつか続いた。

 意味は分からないが、どうやら「川の近くだけで採れる」とか、その程度の説明をしているのだろうと、なんとなく察しがついた。


(ちょうどよかったな)


 ナオキは、リュックの中からペットボトルを取り出した。


「リヴ。きょう、かわ、みていい?」


 日本語とジェスチャーを混ぜながら、森側の出口を指差す。

 それから、自分の目と耳を指し、水の流れるような仕草をしてみせた。


 リヴはきょとんとした顔でそれを見ていたが、やがて何かに気づいたように目を細めた。


 自分の耳を軽く触り、ウロの外の方角を指差す。

 そして、微かに聞こえる水音を表すように、両手のひらを揺らした。


 しばらく迷うように視線をさまよわせてから、彼女は頷いた。


 フードを被り直し、腰のナイフを確かめる。

 その様子は、いつもより少しだけ慎重に見えた。




 森側の出口の布をめくると、ひやりとした空気が流れ込んできた。


 鬱蒼とした木々。

 高い枝の間から、ところどころに差し込む光。

 湿った土と、遠くから聞こえる水音。


 ウロから一歩外に出るだけで、音の質が変わる。


 リヴが先に足を踏み出し、周囲を確認する。

 小柄な身体を少し前傾させ、耳を立ててあたりの気配を探っていた。


 しばらくして、彼女はナオキの方を振り返り、顎を軽く引いて合図した。


「オーケー、ってことだよな」


 ナオキも一歩、二歩と外に出る。

 ウロの入口の木を振り返り、特徴を目に焼き付けた。


 幹の右側に大きな瘤がある。

 その上には、二股に分かれた枝。

 ウロの出口は、ちょうどその根元だ。


 リュックから細いロープを取り出し、幹の腰の高さに巻き付ける。

 解けにくいように固く結び、余った端をぶら下げておいた。


「これで、ここには戻ってこられるはず」


 自分に言い聞かせるように呟き、リヴの後を追った。




 森の地面は、思っていたより歩きやすかった。


 落ち葉と苔がクッションになり、足元の柔らかさが膝への負担を和らげてくれる。

 その一方で、木の根がところどころ地表に顔を出している。

 気を抜くと、簡単につまずきそうだった。


 リヴは、そうした根や石を、事前に靴先で軽く示しながら進む。

 口には出さないが、「ここ、気をつけて」と言っているのが分かる。


(慣れてるな……)


 森の中を歩く姿は、昨日のウロの中よりもずっと自然だった。

 足音は静かで、枝を踏み折ることもほとんどない。


 しばらく歩いたところで、リヴがぴたりと足を止めた。


 右手を軽く上げ、ナオキに「止まれ」の合図を送る。

 そして、視線だけで地面を指した。


 そこには、踏み固められた土の帯があった。


 獣道、というほど露骨ではない。

 けれど、他の場所よりも土がむき出しになり、同じ方向へ擦られた跡が続いている。


 その上に、いくつかの足跡が重なっていた。


 丸く平たい獣の蹄の跡。

 三つに割れた爪の跡。

 それから、人間のものと思しき足跡。


 裸足ではない。

 靴底のような模様が、うっすらと土に刻まれている。


(誰かが、ここを歩いてる)


 頭の中で言葉になった瞬間、背筋に冷たいものが走った。


 当たり前のことだ。

 森の向こうに人間の街があるなら、誰かが森を行き来していても不思議ではない。


 けれど、こうして足跡としてそれを見ると、急に「この世界の人間」が具体的な存在として迫ってくる。


 リヴが、足跡のひとつに膝をついて指先を触れた。


 土はまだ柔らかい。

 指で押すと、わずかに沈む。


 彼女は短い言葉をいくつか呟き、手のひらを日差しにかざす。

 どうやら、「昨日か一昨日くらい」という、ざっくりとした時間感覚を示しているようだった。


「わりと最近、ってことか」


 ナオキは、足跡の向きだけを確認した。


 森の奥へ向かう方向と、逆に、こちらへ戻ってくる方向。

 どちらの跡も混じっている。


(街への道、だよな)


 森の奥へ進む足跡が、この先の街へ続いているのだとしたら。

 逆方向は、街から森へ入ってきた足跡だ。


 胸の奥が、奇妙にざわついた。


 好奇心。恐怖。期待。警戒。

 いくつもの感情が、同時に少しずつ動き始める。


 リヴは、足跡から視線を上げ、ナオキの顔を見た。


 青い瞳が、いつもより慎重に揺れる。


 短い言葉がひとつだけ漏れた。

 多分、「人間」とか「人々」とか、そんな意味なのだろう。


 ナオキは、足跡から視線を外し、森の奥を覗き込んだ。


 樹々の隙間から、光がまだらに差し込んでいる。

 その先に、何があるのかは見えない。


「……今日は、川まで」


 口の中だけで呟き、自分の中で線を引いた。


 街を見に行くのは、まだ早い。

 川の水を確認して、森の中での安全圏を少しずつ広げてからだ。


 リヴは、ナオキの表情をしばらく読んでいたが、やがてゆっくりと頷いた。

 足跡の脇を選んで歩き、獣道のような土の帯を少しだけ外して進む。


 ナオキも、それに倣った。




 森を抜けると、空が少しだけ開けた。


 木々の間から、光の筋がいくつも地面へ降りている。

 その先に、川があった。


 思っていたよりも広い。

 向こう岸までは二十メートルほど。

 流れは速すぎず、遅すぎず、一定のリズムで進んでいる。


 水面には、細かい波がいくつも走っていた。

 透明度は悪くない。浅瀬の石の輪郭が、ぼんやりと見える。


 音が、はっきりと耳に届いた。


 ウロの中で聞いていた水音の正体だ。


 リヴは、慣れた足取りで岸辺に近づき、石の上に軽く飛び乗った。

 川面を覗き込み、上流と下流を見比べる。


 ナオキも慎重に後を追う。


 川の匂いは、想像していたよりもきつくなかった。

 泥と苔と、わずかな冷気の匂い。


「……見た目だけなら、釣り場の川と大差ないんだけどな」


 もちろん、それだけで信用するわけにはいかない。


 リュックからペットボトルを取り出し、まずは川の水を一本に汲み取った。

 浅瀬の石の間に手を差し入れ、底の泥をできるだけ巻き上げないようにして水だけをすくう。


 次に、上流側へ少し歩き、もう一本に水を汲む。

 川岸に、不自然な廃棄物や、油の浮きなどは見当たらなかった。


 最後に、六畳から持ってきた水道水の入ったボトルを並べる。


 三本のペットボトル。

 ラベル代わりに、「上」「下」「基準」と油性ペンで書き込んだ。


 リヴが興味深そうにそれを眺めていた。


 ナオキは、簡易水質検査キットを取り出す。

 試験紙の端を、それぞれの水に浸していく。


 色の変化は、目立たなかった。


「……少なくとも、即死コースではなさそうだな」


 もちろん、そんな単純な話ではないが、最悪のケースは少しだけ遠のいた気がした。


 リヴは、水面を指で叩いて、短い言葉をいくつか並べた。

 そのうちのひとつは、以前、傷の薬草を説明するときにも使っていた言葉だ。


 どうやら、この川の水を、そのまま飲んでいる人間もいるらしい。


 ナオキは、ペットボトルの水をステンレスボトルに移し替えた。

 アルコールストーブに火をつけ、小さな炎の上にボトルをかざす。


 リヴが、その炎を不安そうに見つめた。


「だいじょうぶ。これは、ただの湯わかし」


 日本語でなだめながら、ボトルの中の水がふつふつと泡立つのを待つ。

 湯気が立ち始めたところで火を消し、布で包んで少し冷ました。


 完全に冷める前に、ボトルの口に唇を近づける。


 一口。

 舌の上に広がるのは、ほとんど味のない水だった。


 金属っぽさも、土の臭さも、目立ってはいない。

 けれど、どこかに微かな硬さのようなものは感じる。


 喉を通す前に、ほんの少しだけ口の中で転がし、そのまま吐き出した。


 口の端から漏れた水が、石の上に落ちる。

 何も起きない。


「……直接飲むのは、まだ先だな」


 自分にそう言い聞かせ、ノートにメモを書き込む。


 川の水は、煮沸すれば調理や洗浄には使えそう。

 飲料としては、様子見。

 できれば、六畳の水と混ざっている形から始めたい。


 リヴが、不思議そうにその様子を見ていた。


 彼女は、川の水を掬ってそのまま口に運びかけ、ナオキの視線に気づいて手を止めた。

 そして、少しだけ困ったような笑みを浮かべながら、その水を自分の足首に垂らした。


 川の水は、彼女にとって「飲み水」であると同時に、「生活の水」でもあるのだろう。


 ナオキは、その仕草を目に焼き付けた。


(俺にとっては未知の水でも、この世界の人間にとっては日常の水なんだよな)


 その差を埋めるのに、少し時間が必要だと感じた。




 水のサンプル採取と、簡単な検査を終えたあと、二人は川岸の大きな岩の上に腰を下ろした。


 木々の隙間から差し込む光が、水面に細かい模様を描く。

 川の音は、耳に心地よかった。


 ナオキは、リュックからパンとスープを取り出した。

 ウロに戻ってから食べるつもりだったが、少しだけ予定を変える。


「きょうは、ここでランチだな」


 アルコールストーブの火を弱めに調整し、スープを温める。

 パンは袋から出して、そのままリヴに手渡した。


 彼女は「ありがとう」にあたるのだろう短い言葉を口にし、パンを受け取る。

 川の音を聞きながら、慎重にひとかじりした。


 ウロの中で食べた時よりも、表情が柔らかく見える。


(この子にとっては、森のほうがホームなんだろうな)


 そんなことを思いながら、ナオキもスープを啜った。


 温かい液体が喉を通り、胃に落ちていく。

 身体の奥に残っていた夜勤の疲労が、少しずつ薄れていく気がした。


 食事を終えたあと、ナオキは川の上流側をじっと眺めた。


 川に沿って進めば、いつかどこかの集落か街に辿り着くかもしれない。

 それは、この世界の人間社会と正面から向き合うことを意味する。


 魔石。

 薬草。

 キノコ。


 この三つを抱えた状態で、適当に人間の社会へ突っ込んだら、ろくなことにならないのは目に見えている。


(まずは、水と森の範囲をちゃんと把握する)


 心の中でそう決める。


 生活に必要な最低限のインフラ。

 飲み水、火、寝る場所。


 それがある程度安定してからでなければ、街に出ても、ただ振り回されるだけだ。


 リヴが、石の上に座ったまま、足元の小石を指で弄んでいた。


 彼女の横顔を見ながら、ナオキはふと問いかけた。


「リヴ。このさき、まち?」


 日本語とジェスチャーで、「あっちに街がある?」という意味を伝えようとする。


 リヴは上流の方角をしばらく見つめ、それから森の奥を指差した。

 短い言葉をいくつか並べる。


 その中に、「人」「家」「壁」といった雰囲気の音が混じっているのを、ナオキはなんとなく感じ取った。


 どうやら、この川沿いを進めば、本当に人の住む場所に辿り着くらしい。


 同時に、リヴの声には、わずかな警戒と疲れが滲んでいた。


 彼女にとって、その街は「安全な場所」だけではないのだろう。

 身分の差か、種族の壁か、何かしらの負担があるのだと推測できた。


「……いつか、だな」


 ナオキは、わざと軽い声音で呟いた。


「いきなり押しかけて、『こんにちは異世界から来ました、魔石売りたいんですけど』とかやったら、確実に人生終わる」


 当然日本語は通じないが、口に出しておかないと、自分の中で冗談半分の妄想に変わってしまいそうだった。


 リヴは首をかしげ、ナオキの顔と川の向こうを交互に見た。

 何かを察したのかどうか分からないが、その表情は、少しだけ不安と期待を混ぜたようなものに変わっていった。




 ウロに戻る頃には、日差しは少し傾き始めていた。


 森の中の影が長く伸び、空気に湿り気が増している。

 往路で見た足跡の場所を、もう一度通りかかる。


 足跡は、さっきと変わらない。


 リヴはそこに目を落とし、短く何かを呟いた。

 街から森へ、また誰かが来る可能性を、彼女なりに気にしているのかもしれない。


 ウロの入口には、結んだロープがそのまま残っていた。

 それを見て、ナオキは少しだけ肩の力を抜く。


 十畳の木の中に入ると、外の光と音が一気に切り離された。


 ランタンの明かり。

 ブルーシートと、ポリポットと、スケッチブック。


 さっきまでの川と森が、少し遠い場所の記憶に感じられた。


 ペットボトルを端に並べ、水のサンプルを再度確認する。

 上流、下流、基準。


 今日のところは、これ以上の分析はできない。

 六畳に持ち帰ってから、改めて試験紙を使うつもりだった。


 リヴは、薬草の束をウロの隅に置き、自分の荷物を整え始めていた。

 腰のポーチに手を入れ、何か小さなものを取り出す。


 それは、薄く削られた木片だった。


 リヴはその木片をナオキに差し出し、何か短い言葉を言った。

 その表情には、少しだけ照れくさそうな色が混じっている。


 木片には、雑ながらも丁寧に、ある印が刻まれていた。


 丸い輪の中に、葉のような模様が一本。

 それが、この世界での彼女の「印」なのかもしれない。


「これは……おまえの、マーク?」


 日本語で問いかけると、リヴは顔を赤くして、小さく頷いた。

 そして、ウロの壁の一角を指差す。


 そこには、同じ印がごく薄く刻まれていた。

 彼女が、ここを一時的な拠点として使っていた頃の名残なのだろう。


 ナオキは、木片を両手で受け取った。


 軽い。

 けれど、妙な重みを感じた。


(六畳のプランターに、「薬草A」って書いたみたいなもんか)


 自分の世界でのラベルと、リヴの世界での印が、頭の中で軽く重なった。


「じゃあ、これは……共同研究所の看板ってことで」


 冗談めかして呟き、木片をウロの壁に軽く立てかける。


 リヴは言葉は分からないはずなのに、なぜかその冗談の空気だけは伝わったようで、口元に笑みを浮かべた。




 六畳に戻ったのは、夕方近くになってからだった。


 部屋の空気は、森よりも重く、狭い。

 けれど、冷蔵庫のモーター音と、窓の向こうの車の音が、ここが自分の生活の拠点であることを思い出させてくれる。


 机の上にペットボトルを並べ、水質検査キットを改めて使った。

 試験紙の色は、やはり大きな変化を示さない。


(キットで分かるのは、表面だけだな)


 前に薬草を湯に浸したときのことを思い出す。

 葉の色があっという間にくすんで、頼りない匂いになったあの感覚。


(あれと同じで、下手に加熱でいじると、肝心なところから壊れていく)


 熱は避けたい。

 かといって、このまま眺めているだけでは何も分からない。


(たしか、昔ネットで見た。凍らせて濃くするやつ)


 頭の隅に、ぼんやりした記憶が浮かぶ。

 氷になるのはほとんどが水で、溶け残ったほうにミネラルとか不純物が寄る、という簡単な説明だった。


「実験レベルなら、真似しても怒られないよな」


 ナオキは、上流と下流のボトルから、それぞれ少しずつ水を別の容器に移した。

 製氷皿代わりの小さなタッパーに半分ほど入れ、ラップをして冷凍庫へ滑り込ませる。


 ついでに、水道水も同じように分けて入れた。


 ラップの端に、それぞれ油性ペンで小さく印を書く。


「上」「下」「基準」


「明日、どんなふうに凍るか見てみよう」


 氷の出来かたで全てが分かるわけではない。

 それでも、溶け残りの量や、色の違いくらいなら目で確かめられる。


(ちゃんと数字が欲しいなら、本当は検査機関に出すべきなんだろうけど)


 そこまでの余裕も人脈もない。

 だからこそ、六畳と冷凍庫と百均でできる範囲で、少しでも「分かること」を増やしたかった。


 冷凍庫の扉を閉めたところで、ふと視線が冷蔵庫の中のタッパーに止まった。


 湿らせたガーゼに包んだまま保存している、あの青黒い薬草だ。


(……水だけじゃなくて、こっちも“冷たいまま”濃くできないか)


 思いついてしまったら、確かめずにはいられなかった。


 ナオキはタッパーを取り出し、葉を数枚だけ分ける。

 全部を使う勇気はない。万が一失敗したときのために、半分以上は残しておく。


 まな板の上で、その数枚を細かく刻む。

 包丁で叩き、すり潰すようにして、緑色の汁がにじむまで繰り返した。


 刻んだ葉をガーゼの中央に集め、巾着のように口をひねる。

 そのまま、小さなガラスコップの上でぎゅっと絞ると、ぽた、ぽたと粘りのある雫が落ちた。


「……思ったより出るな」


 コップの底に、薄い緑色の液体がたまる。

 量にして、大さじ一杯に満たないほどだ。


(このままじゃ、水っぽすぎる)


 前に生の汁を傷に塗ったときの、あのジンとした感覚を思い出す。

 効き目自体は感じたが、すぐに乾いてしまった。

 これをもう少し「濃く」「留まりやすく」できれば、扱いやすくなるはずだった。


 ガラスコップを冷凍庫の棚にそっと置く。

 水のサンプルとは別の端に、こっそりスペースを作った。


 十分ほど別の作業をしてから、様子を見にいく。

 液体の表面が、うっすらと白く凍り始めていた。


 指先でコップを軽く傾け、凍りかけた部分と、まだ凍っていない中心部の境目を確かめる。


(先に凍るのは水分が多いところ、だったよな)


 表面にできた薄い氷だけを、慎重に割って取り除く。

 残ったのは、さっきよりもとろみの強い緑の液体だ。


 もう一度、同じように冷やす。

 今度は半分ほどが凍ったところで止め、氷を取り除いた。


 コップの底に残ったのは、さっきの半分以下の量。

 けれど、色はわずかに濃く、指先で触れると、ぬるりとした感触が強くなっていた。


「……気休めレベルかもしれないけど」


 それでも、「やれる範囲で濃くした」という事実が欲しかった。


 流し台の上に、小さなガラス瓶を用意する。

 ドラッグストアで買っておいた白色ワセリンの蓋を開け、清潔なスプーンで少量をすくい取った。


 ジャムの空き瓶をよく洗って煮沸し、乾かしておいたものだ。

 中にワセリンを入れ、そこへ先ほどの濃縮した薬草の液を数滴ずつ落としていく。


 スプーンの背で、ゆっくりと練り合わせる。

 白かったワセリンが、うっすらと淡い緑色に変わっていった。


(本当に大事な成分が油に移ってくれてるかどうかなんて、本当は分からないけど)


 それでも、ただの水よりは、皮膚に長く留まるはずだ。

 乾いて終わり、よりはマシだ。


 十分に混ざったところで、スプーンを止める。

 瓶の内側についたクリームを、ヘラ代わりの割り箸で掻き落とし、中央にまとめた。


「とりあえず……薬草A軟膏、試作一号」


 苦笑まじりにそう呟き、油性ペンで小さなラベルを作る。

「薬草A軟膏1」「試作」「要パッチテスト」と書き込んだ。


 ふと、自分の指先を見る。

 ささくれた爪の脇に、小さなひび割れができていた。


 少しだけ軟膏をすくい取り、そこに塗ってみる。

 冷蔵庫から出したばかりのせいか、ひんやりとした温度が心地いい。


 数回、ゆっくりと擦り込んだだけで、変化はすぐに現れた。


 赤く盛り上がっていた部分が、目に見えてしぼんでいく。

 白くめくれていた皮膚が、じわじわと元の色を取り戻し、ひび割れの縁がふさがっていく。


 ヒリつく痛みが、スイッチを切ったみたいにすっと消えた。


「……うそだろ」


 思わず声が漏れた。

 さっきまで確かにあった傷が、跡だけをわずかに残してほとんど分からなくなっている。


「いやいやいや、これはさすがにおかしいって」


 口ではそう言いながらも、胸の奥のどこかで、納得している自分がいた。

 あの薬草を生で塗ったときの「効きすぎる」感覚。

 それを、冷やして濃くして、さらに留まりやすくしたものだ。


 結果がこれでも、不思議ではないのかもしれない。


「……人前には出せないな、こんなの」


 ぽつりと呟き、指先をもう一度確かめる。

 動かしてみても、痛みはない。むしろ、さっきより指先の皮膚がしっとりしている気がした。


 瓶の蓋をしっかり閉め、冷蔵庫のドアポケットに入れる。

 次にウロへ行くとき、少量を小分けにして持っていくつもりでいる。


(見せたら面倒ごとになる。けど――)


 川辺で見た、リヴの足首の傷を思い出す。

 歩くたびにわずかに顔を歪めていた、あの表情。


(あの子の足には、使う)


 他人の大きな傷に本格的に頼るかどうか決めるのは、そのあとだ。


 ナオキは机に戻り、ノートを開いた。


 今日のことを書き込んでいく。


 川の位置。

 ウロからの距離。

 道中で見た足跡。

 水の状態と、匂い。

 リヴの様子。

 川の水の凍結濃縮テストを始めたこと。

 そして、薬草A軟膏の試作品を作ったこと。


 一行一行書いていくうちに、ページがじわじわと埋まっていった。


 最後に、ひとつだけ行を空けてから書く。


「街への道は、川の先。まだ行かない」


 ペン先を離し、しばらくその文字を見つめた。


(焦る必要はない)


 魔石も、薬草も、キノコも。

 どれも、一気に使い切れば破滅する。


 川の水も同じだ。

 便利だからこそ、使い方と範囲を決めておかないと、自分の生活が乗っ取られる。


 ノートを閉じ、椅子から立ち上がる。


 窓の外は、すでに薄暗くなっていた。

 カーテンを引き、部屋の明かりをつける。


 六畳の空気の中で、ナオキはゆっくりと息を吐いた。


 十畳のウロ。

 その外の森。

 川。

 足跡。

 まだ見ぬ街。

 そして、冷蔵庫の中の、淡い緑色の軟膏。


 その全部が、三十二型の向こう側とこちら側を、細い線でつなぎ始めている。


「……水も、道も、薬も、少しずつだ」


 誰にともなくそう呟く。


 手取り十五万の六畳と、魔石と薬草とキノコのある森。

 そのあいだを、焦らず、慎重に行き来すること。


 それが、自分に許された歩き方だと、ナオキは思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ