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32型テレビが繋g...(略)~手取り15万、現代物資(10秒制限)で成り上がる~  作者: ひろボ


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旅立ち

 扉を開けた時、アパートの空気は昼間とはすっかり変わっていた。

 蛍光灯の光は同じはずなのに、どこか沈んで見える。

 空気そのものが薄く波打っているようで、天井の隅に落ちた影がゆっくり広がっていくのが分かる。

 壁のどこかで小さく軋む音がして、部屋そのものが深い場所へ沈んでいくようだった。


 リヴは直輝の手をぎゅっと握り、足を止めた。


「……ナオキ……

 ここ……もう……おひると……ぜんぜんちがう……。

 あったかいにおい……もう……ない……」


 声が細く震えた。

 恐怖だけじゃない。ここにあった日常が遠ざかっていく痛みが混じっていた。


「うん。分かるよ。少し前とは違う。

 でも大丈夫。今日でここを出るだけだよ」


 言葉を返すと、リヴのまつ毛が小さく揺れた。

 その揺れには、不安と戸惑いと、別れたくない気持ちが全部重なっていた。


「……ナオキ……。

 ほんとに……いいの……?

 ここ……ナオキの……おうち……。

 ナオキ……まいにち……ここで……おきて……わたしと……ごはんたべて……。

 わらったり……ミサキきたり……。

 ここ……わたし……すき……」


 リヴは部屋の隅々を見つめ、指先を伸ばした。

 カーテンの端に触れ、テーブルの角をなで、ソファの生地をそっと押す。

 まるで、この部屋にいるすべての「思い出」に触れ直すようだった。


(離れたくないのは……俺も同じだよ)


 胸の奥がじんと熱くなった。


「リヴ。俺もここで暮らせて本当に幸せだったよ。

 ここは俺たちの家だった」


 そう言うと、リヴはふいに顔を上げた。

 瞳に涙が薄く浮かび、声が震える。


「じゃあ……

 いっちゃ……いやって……

 おもう……こと……ない……?」


 幼い問いのようでいて、半年分の思いが乗っていた。


「あるよ。思うよ」


 直輝は即答した。


「できるなら……ここにいたいって思うよ。

 地球が好きだし、美咲さんもいるし、リヴと過ごした六畳も大事だよ。

 でも……行かなきゃいけない。

 リヴが向こうに帰らないといけないなら、俺は一緒に行くよ」


 リヴは一度目を閉じて息を吸い、そのまま胸に額を預けた。


「……ナオキ……。

 そういって……くれて……こわいの……すこし……きえる……」


 かすかな声だったが、震えは少しずつ和らいでいった。


 階段の下から聞こえた靴音に振り返ると、美咲がゆっくり顔を出した。


「……ほんとに行くんだよね……?」


 声はかすかに震えていた。

 強がりも飾りもない、本当の友達の声だった。


「もし迷ってるなら……今ならまだ止めてもいいんだよ……。

 私……止めたい気持ちもあるし……でも……止めちゃだめな気もするし……。

 こんな気持ち……初めてだよ……」


 リヴは袖を握ったまま、美咲の方へ向き直る。


 美咲は深く息を吸い、涙をこらえるように目元を押さえた。

 それでも声はかすかに震えたままだった。


「……二人が、ここを出て……向こうに行くって分かってても……

 やっぱり……つらいよ。

 半年一緒に過ごしたんだよ?

 リヴちゃんが笑って、ナオキくんが怒られて、私がいじって……

 こんなに自然に三人の空気になれたのに……」


 そこまで言って、美咲は笑おうとした。

 けれど、うまく笑えず、唇がゆっくり震えた。


「でも……帰ってくるんでしょ。

 そのために鍵も預かったんだし、サロンもアパートも守るよ。

 ……帰ってこないと……許さないんだから……」


 直輝はうなずいた。


「うん。戻るよ。必ず。

 そのために向こうへ行くんだし」


 美咲は何かを飲み込むように目を伏せ、それからリヴを見る。


「リヴちゃん。

 ……本当に、大丈夫?

 怖いなら……泣いてもいいよ。

 泣いたって、行くことは変わらないんだから」


 リヴはその言葉に耐えきれなくなったのか、小さく呼吸を乱した。

 胸の前で手を握りしめ、声を震わせる。


「ミサキ……。

 ほんとは……すごく……こわい……。

 むこう……いま……すごく……ゆれてる……。

 ナオキ……まきこむの……いや……。

 でも……ナオキ……いなかったら……

 わたし……むこうで……うごけない……」


 直輝はそっと彼女の肩に手を添えた。


「大丈夫だよ。

 俺がいる。

 離れないって言っただろ。

 帰るまでずっと一緒にいる」


 リヴは震える声で、絞り出すように言った。


「……ナオキ……。

 わたし……ナオキと……いっしょなら……

 むこうでも……まえみれる……。

 ここ……すきだった……。

 ナオキの……ともだち……すき……。

 ミサキ……すき……。

 でも……いく……。

 ナオキ……えらんだ……から……」


 美咲がその言葉を聞いた瞬間、今度はこらえきれず涙をこぼした。


「……ほんと……ずるいよ……二人とも……。

 そんなこと言われたら……応援するしかないじゃん……。

 止めたいのに……止められないよ……。

 こんなにいい子たち……どうやって止めるの……」


 その涙を見た瞬間、アパートの空気がさらに重く、深く感じられた。

 テレビの裏の影がゆっくり動き、何かを呼吸しているように見える。


 リヴの肩がびくりと震えた。


「ナオキ……。

 いま……また……ひらいた……。

 におい……つよい……。

 もう……まってくれない……」


「分かるよ。こっちにも伝わってきてる」


 直輝は美咲へ向き直る。


「……そろそろ、行くよ」


 美咲は涙を手の甲で拭き、深くうなずいた。


「……分かった。

 私……ここで見送る。

 近づいたら危ないでしょ。

 テレビの近くには行かない」


 リヴが一歩進み、振り返る。


「ミサキ……。

 ほんとに……ありがとう……。

 ここ……のこってるだけで……

 ナオキと……わたし……かえってこれる……」


 美咲は震える声で答えた。


「残しとくよ……全部。

 二人の帰る場所……絶対なくさない。

 ちゃんと灯りもつける。

 ほこりも積もらせない。

 いつ帰ってきてもいいように……ずっと守る」


 その言葉がアパートに静かに落ちた瞬間、

 リヴはもう涙をこらえられず、小さな声を漏らした。


「……ミサキ……すき……。

 ありがとう……。

 また……あいに……くる……」


 美咲は俯き、声にならないままうなずいた。

 肩が震えていた。


 アパートの空気は、もう限界に近い。

 テレビの裏から、低い振動のような音が生まれている。


 テレビの裏で広がっていた“線”は、

 もう隠せないほど太くなっていた。

 黒い影がゆっくり染み出し、壁紙の模様を飲み込んでいく。

 乾いた音と、湿った土の匂いが同時に漂った。


 リヴが胸に手を当て、息を詰まらせる。


「……ナオキ……。

 むこう……もっと……ちかい……。

 ひらいてる……。

 もう……ここ……ながいできない……」


「うん。もう行こう」


 直輝が言うと、リヴは袖をつまんだまま、もう一度だけ部屋の中を見た。

 カーテン、テーブル、ソファ、棚……その一つひとつに小さく視線を触れさせる。


「ここ……すきだった……。

 あさ……ナオキがおきて……ねむいっていって……

 わたし……みみ……ぴくぴくして……

 ミサキきて……サシェつくって……

 ナオキ……おこられて……わらって……

 ここ……ほんとに……すきだった……」


 言葉の一つひとつが、部屋の中に落ちていった。

 まるでこの部屋そのものが、リヴの言葉を聞いているかのようだった。


(俺も……本当は離れたくないよ)


 そう思った瞬間、部屋の温度が少し下がったように感じた。

 薄い風が足元を通り抜け、さらに影が揺れる。


「ナオキ……」


 リヴが小さな声で呼んだ。

 震えた瞳が、まっすぐ直輝を見つめてくる。


「むこう……いって……

 ナオキ……こうかい……しない……?

 ここ……ナオキの……すきなとこ……いっぱいある……。

 ナオキ……いるだけで……みんな……やさしい……。

 わたし……ナオキを……こっちから……はなすの……こわい……。

 ナオキ……ほんとに……よかったの……?」


 リヴの声は、これまでで一番弱かった。

 その問いは、心の奥にあった最後の迷いだった。


 直輝は彼女の手をそっと包んだ。

 すぐに言葉は出なかったが、迷いはなかった。


「……いいよ。大丈夫だよ。

 ここが好きなのは変わらないよ。

 でも……俺はリヴと一緒にいたい。

 向こうに行くのも、リヴとだから怖くない。

 ここを離れたのが間違いだったなんて思わないよ。

 この選択でよかったって……ちゃんと思えるよ」


 リヴの目が驚いたように大きく開き、ゆっくり潤んでいく。


「……ナオキ……。

 ほんとに……わたしと……いっしょ……で……よかった……?」


「うん。よかったよ。

 リヴと一緒なら……ここを出ても大丈夫だよ」


 リヴは息を震わせながら、小さく笑った。

 涙でにじんだままの笑みだったが、一度もしぼまなかった。


「……ナオキ……。

 すき……。

 いっしょに……いきたい……。

 ずっと……いっしょ……」


「うん。行こう。一緒に」


 そう言った瞬間、テレビの裏からぱき、と鋭い音が響いた。

 影の裂け目が一段と開き、冷たい風が六畳の中心へ流れ込んだ。


 美咲が背筋を震わせながら叫ぶように言う。


「二人とも……危ないよ……!

 もう……行くしかないよ……!

 私……ここで見てるから……。

 帰ってきなよ……絶対……!」


 直輝は小さくうなずき、リヴの手を握り直した。


「リヴ、行こう。

 大丈夫。俺がそばにいる」


「……うん……。

 ナオキ……はなさない……」


 二人はゆっくりと裂け目に近づいた。

 その先からは、森の湿った空気と、遠い夜の気配が静かに流れてきていた。


 裂け目の前まで歩くと、

 そこはもう、地球の空気ではなかった。

 冷たさでもなく、湿り気でもなく、

 ただ「向こう」の匂いが、ゆっくりと六畳に入り込んでいる。


 森の土、草、燃えかけた木の皮のような匂い。

 リヴがいつも言っていた、異世界の息づかいが確かにあった。


 テレビの裏の影が、呼吸するようにふっと揺れた。

 次の瞬間、細かった裂け目がわずかに広がり、

 薄い光の筋が、壁に静かに走った。


 美咲が思わず一歩後ずさる。


「……ほんとに……向こう、見えてる……。

 なんなのこれ……こわい……。

 でも……二人は行くんだよね……?」


 直輝はうなずき、リヴの手をしっかり握り直した。


「うん。行くよ。

 美咲さんのところに……絶対帰ってくるから」


 美咲の目から涙が一筋落ちた。


「帰ってきなよ……。

 絶対……。

 二人で帰ってきてよ……。

 じゃないと……許さないから……」


 リヴは涙を拭きながら、振り向いて言った。


「ミサキ……ありがとう……。

 わたし……かえってくる……。

 ミサキ……まってて……」


 美咲は声にならない声でうなずき、口元を押さえた。

 涙で見えなくなった目を、それでも必死で二人へ向け続けた。


 もう戻れない気配が、部屋全体に満ちていく。

 アパートの空気は、ゆっくりと閉じていく準備をしているようだった。


「リヴ」


 直輝は静かに呼んだ。


「行こう」


 リヴは小さく息を吸い、手に力を込めた。


「……うん……。

 ナオキ……いっしょ……」


 二人の影が重なり、そのまま裂け目へと踏み出す。

 異世界の光が足元へ広がり、森の風が頬へ触れる。


「ナオキ……みえる……。

 むこう……ひかってる……。

 なつかしい……におい……」


「大丈夫。俺も一緒に行くから」


 光がさらに強くなり、六畳の空気がかき消されていくようだった。


 最後の瞬間、直輝は振り返らず、小さくつぶやいた。


(必ず帰ってくる。

 ここが俺たちの帰る場所だから)


 その思いだけを胸に抱き、

 二人は光の中へ消えるように踏み込んだ。


 裂け目が静かに閉じていく。


 アパートには、電気の明かりと、残された静寂だけが漂っていた。


 夜の空気は変わらず冷たく、

 何事もなかったかのように、静かに沈んでいた。


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