深夜のファミレスで
サロンの重い扉を閉めた瞬間、夜の空気が肺の奥まで冷たく入り込んできた。
駐車場のアスファルトには、街灯の頼りない光が滲んでいる。
その淡い光の中に、三人の影が長く、不安定に伸びていた。
リヴは胸を強く押さえ、直輝の腕にすがるようにして歩を進める。
その体温は、驚くほど高い。触れずとも、彼女の体内で魔素が激しく渦巻いているのが、空気の震えとして伝わってきた。
六畳のアパートから離れたこの場所でさえ、異世界の「呼び声」は止まない。
むしろ、一度溢れ出した境界線の波は、夜の静寂に乗って確実にその版図を広げているようだった。
「ナオキ……ここ……すこしだけ……いき……できる……」
「そうだね。あの部屋よりは、まだ外の方が安全だ」
直輝はリヴの肩を抱き寄せ、少しでも彼女が楽になるように、ゆっくりと歩調を合わせた。
その隣で、美咲が車の鍵を握りしめたまま立ち止まる。
彼女の横顔は、夜の闇に紛れて表情を読み取らせないように強張っていた。
泣き出しそうな自分を必死に抑え込むように、少しだけ顎を上げ、遠くの暗い空を見つめている。
「ねぇ……直輝くん、リヴちゃん」
その声は、夜風にさらわれて消えてしまいそうなほど静かだった。
「アパートに戻る前にさ……少しくらい、どこかで座らない?」
「座る……?」
直輝が問い返すと、美咲は視線を落とし、アスファルトの上の影を見つめた。
「だって、二人とも……もう身体も心も、限界でしょ。あの地獄みたいな六畳間に戻って、そのまま『はい、準備して出発!』なんて、無理だよ。集中できるはずがない」
美咲は言いかけて、唇を噛んだ。
一度言葉にしてしまえば、決壊してしまう何かがそこにはあった。
「……最後に、三人で……ちゃんと、普通の時間を過ごしたい」
「ミサキ……?」
「今日が、本当に最後なんだから。最後くらい、美味しいもの食べて、明るいところにいて……『またね』って言える準備をさせてよ」
リヴが瞬きをした。
翡翠色の瞳に、驚きと、そして堪えきれない愛おしさが混ざり合う。
「……ミサキ……いっしょ……たべる……?」
「うん。行こ。街外れのファミレスなら、まだ開いてる時間だし」
美咲は無理に笑顔を作って続ける。
「明日とか朝とか言ってる余裕、もう私たちにはないんでしょ? 分かってる。だから、今日……いま、この瞬間しかないの」
直輝はリヴの青ざめた横顔を見た。
魔素の乱れによる熱に浮かされながらも、彼女は美咲の差し伸べた「日常」という救いに、必死に手を伸ばそうとしていた。
「行こう。美咲さんの言う通りだ。少しだけ、人間らしい時間を持ってから……それから戻ろう」
美咲がリモコンキーを押すと、車のライトが暗闇をパッと切り裂いた。
その光は、これから三人が向かう場所が「死地」ではなく、あくまで「生活の延長線上」であることを証明しようとしているかのようだった。
深夜の街を走る車内には、ヒーターの温かい風が流れていた。
窓の外を流れる景色は、どれも見慣れたものばかりだ。
閉まったシャッターの続く商店街、点滅する黄色い信号、誰もいない公園。
リヴはその一つ一つを、まるで記憶に刻みつけるように、食い入るように見つめていた。
「……ひかってる……きれい……」
彼女がぽつりと呟く。
地球に来たばかりの頃、彼女はこの人工的な光を「魔術の灯火」かと怯えていた。
それが今では、彼女を最も安心させる「故郷の光」の一部になっている。
その変化が、直輝の胸を締め付けた。
やがて、ロードサイドに立つ大きな看板が見えてきた。
深夜のファミレス。
かつては学生たちが試験勉強に明け暮れ、サラリーマンが孤独な夜食を摂っていたであろう場所。
今は客もまばらで、駐車場には数台の車が停まっているだけだった。
「……着いたよ」
美咲の声に導かれ、店内に足を踏み入れる。
自動ドアが開いた瞬間、店内の明るい蛍光灯の光が全身を包んだ。
ドリンクバーの機械が鳴らす低い唸り、厨房から聞こえる食器の重なり合う音。
そこは、紛れもない「地球の日常」の最果てだった。
「いらっしゃいませ。三名様、空いているお席へどうぞ」
店員の事務的な声さえ、今の直輝たちには慈悲深い祈りのように聞こえた。
美咲は迷わず、一番奥の窓側のボックス席を選んだ。
「ほら、リヴちゃん。ここ、奥に座りな」
「……うん……」
リヴがソファに体を預けると、その柔らかさに少しだけ表情が和らいだ。
向かい側に座った美咲は、慣れた手つきでメニューを広げる。
「何にする? なんでもいいよ、私の奢りなんだから。あ、リヴちゃんはやっぱり、あれだよね?」
「……ハンバーグ……たべたい……」
「正解。デミグラスソースのやつね。直輝くんは?」
「……和風のでお願いするよ」
「よし、私はパスタ。ニンニクたっぷり入れて、眠気も不安も全部ぶっ飛ばしてやるわ」
美咲はわざとらしく笑って、注文のベルを押した。
料理を待つ間、三人の間に静寂が訪れる。
ドリンクバーから運ばれてきた水が入ったグラスの中で、氷がカランと小さな音を立てた。
「……落ち着くね……ここ……あかるい……」
リヴが小さな声で、自分に言い聞かせるように呟いた。
「そっか。よかった」
「うん……ミサキと、ナオキと……いっしょ……だから……。ここ……わたし……すき……」
リヴのその言葉に、美咲がグラスを握る手に力を込めた。
「……ほんと、可愛いよね、リヴちゃんは。あんたを連れて帰らなきゃいけないなんて、運命ってやつはセンスがないわ。ねぇ、二人とも。覚えておいてね」
美咲は顔を上げ、二人を真っ直ぐに見つめた。
「帰ってきたら、またここに来るのよ。ランチタイムでもいい。次は、もっと豪華なやつ食べて、デザートも全部頼んで。普通の日がどれだけ贅沢か、三人で再確認するんだから」
「……また……くる……。三人……で……」
リヴがテーブルの端をぎゅっと掴む。
その小さな手が震えているのを、直輝は自分の手で覆うようにして重ねた。
やがて運ばれてきた料理からは、白い湯気が立ち上っていた。
鉄板の上で弾けるソースの音、茹でたての麺の香り。
「いただきます」
重なった三人の声。
たったそれだけのことが、どうしようもなく胸に突き刺さる。
リヴは不器用な手つきでナイフとフォークを使い、ハンバーグを小さく切った。
一口、ゆっくりと噛み締める。
「……おいしい……」
その一言に、全ての想いが詰まっている気がした。
直輝もまた、ハンバーグを口に運ぶ。
自分たちはまだ生きている。
明日、異世界という未知の暴力に身を投じるのだとしても。
今、この瞬間だけは、地球の恵みに生かされている。
(これが最後の、食事になるのか)
そんな考えが頭をよぎるたび、直輝はそれを強引に振り払った。
最後ではない。
これは、次に帰ってきた時のための「前菜」に過ぎないのだと。
「……んー! これ、ニンニクきつい! 明日、仕事じゃなくて本当によかったわ!」
美咲がわざと大げさにパスタを啜る。
その明るさが、どれほどの無理の上に成り立っているか、直輝には痛いほど分かっていた。
美咲は、自分が崩れれば二人が安心して旅立てないことを知っているのだ。
「明日は……」
直輝が言いかけて、口を閉ざした。
明日の今頃、自分たちがどこにいるのか、そもそも五体満足でいるのかすら分からない。
美咲もそれに気づいたのか、ふっと寂しげな笑みを浮かべた。
「ま、いっか。明日のことなんて、考えても意味ないもんね。今日は……三人でこうして座っていられるだけで、もう十分すぎるくらいだよ。ね、リヴちゃん」
「うん……。ミサキ……じゅうぶん……うれしい……」
店を出ると、外の空気はいっそう冷たさを増していた。
駐車場へ向かう道すがら、美咲がリヴの隣に並び、その頭をそっと撫でた。
「リヴちゃん。今日は、本当によく頑張ったね。怖かったでしょ。痛かったでしょ」
「……こわかった……。でも……ナオキが……いたから……」
「うん。大丈夫。あんたは強い子だよ。向こうへ行っても、その強さを忘れないでね」
駐車場の中央で、三人の足が止まった。
遠くで、街の夜景が瞬いている。
「……帰ろっか」
美咲が言った。
それは「家へ帰る」という意味ではなく、「六畳間という名の戦場へ戻る」という宣言だった。
「六畳が……呼んでるでしょ?」
リヴが顔を上げ、直輝の袖を引いた。
その瞳には、もはや迷いはなかった。
「ナオキ……いこう。かえる……じゅんび……する」
「ああ。行こう」
車に戻り、再び深夜の道路を走る。
ファミレスのネオンが遠ざかり、バックミラーの中で小さな光の点へと変わっていく。
それが、日常との決別を告げる合図のように思えた。
「……ねぇ、二人とも」
ハンドルを握る美咲が、ルームミラー越しに語りかける。
「怖いとか、不安だとか……私の前では隠さなくていいから。今日が、本当の意味での『普通』の最後なんだからさ」
美咲の声が、わずかに震える。
「弱音くらい、全部ここに置いていきなよ」
その言葉に、直輝の心の糸がふっと緩んだ。
「隠さないよ。怖いよ、美咲さん。不安で押し潰されそうだ」
「……直輝くん……」
「でも……リヴと一緒に行くって決めた。彼女を一人にはさせない。それだけが、俺の支えなんだ」
「……ナオキ……」
「知ってるよ。あんたたちは、最初からそうだったもんね」
美咲は小さく笑った。その目元に、一筋の光が流れた。
「今日の二人、本当にかっこよかったよ。ちゃんと『二人で一つ』になってた。だから、絶対に帰ってきて」
美咲は前を見据えたまま、声を張り上げる。
「この街に。この空気に。私が守ってる、この日常にさ」
「約束するよ。必ず戻る」
「……ミサキ……わたし……かならず……かえる。ナオキと……いっしょに……」
アパートの薄暗い外階段が見えてきた。
街灯の光が、そこだけ不自然に歪んでいる。
空間そのものが、向こう側からの重圧に耐えかねて悲鳴を上げているようだった。
「……着いたよ」
車が停まり、エンジンが切れる。
訪れた沈黙は、かつてないほど重かった。
三人は車を降りた。
冷たい夜気が、現実に引き戻すように頬を叩く。
「ここからは……二人で行きなよ」
美咲が車に背を預けて言った。
「私はここで待つ。六畳は、もう私みたいな一般人が入っていい場所じゃない。足手まといになりたくないし……それに、二人の門出を見送るには、ここが一番いい場所な気がするから」
直輝は一歩、美咲に歩み寄った。
「美咲さん。本当に、何から何までありがとう」
「礼はいいってば。鍵、ちゃんと預かってるからね。アパートのも、サロンのも」
美咲は胸元の鍵を握りしめた。
「二人の帰る場所は、私が死守する。埃一つ立てさせないから、安心して行ってきな」
リヴもまた、美咲の元へ歩み寄り、その両手を力強く握った。
「……ミサキ……。だいすき……。ありがとう……。かならず……もどる……」
「うん……。信じてる。だから……もう、これ以上泣かせないでよね……!」
美咲は顔をそむけ、必死に涙を堪えた。
「……早く行きな。長くいると……本当に、引き止めちゃいそうだから」
直輝は頷き、リヴの手を取った。
「行こう、リヴ」
「うん……!」
二人は階段を一段ずつ、踏みしめるように上っていった。
背中に感じる美咲の視線は、熱く、そしてどこまでも温かかった。
二階の踊り場に立ち、部屋の扉の前に立つ。
直輝は一度だけ、下を振り返った。
駐車場で小さく見える美咲が、両手で大きく手を振っていた。
「二人とも――! 絶対、絶対、帰ってきなよ――!」
その叫びは、深夜の住宅街に響き渡り、空に消えていった。
直輝は力強く頷き返し、ポケットから鍵を取り出した。
扉を開けた瞬間。
ブォン、という重低音と共に、部屋の中から「異界の風」が吹き抜けた。
テレビの裏、壁に走った亀裂からは、もはや光すら飲み込むような漆黒の揺らぎが溢れ出している。
その揺らぎの向こう側には、深い森の影と、見たこともない星空が見えた。
「……きた……ナオキ……むこうが……よんでる……」
「ああ。準備しよう。リヴ。俺たちの、本当の戦いが始まる」
六畳の部屋は、もはや日常の空間ではなかった。
アイテムボックスから、スーパーで買った物資を取り出す。
カセットコンロ、保存水、缶詰、そして予備の着替え。
それらを、リヴが一つずつ「向こう側」で使いやすいように整理していく。
テレビの砂嵐が激しくなり、そこから伸びる「黒い枝」が、再び部屋の壁を侵食し始めた。
だが、今の直輝には、先ほどのような恐怖はなかった。
お腹の奥には、先ほど食べたハンバーグの温もりが残っている。
耳の奥には、美咲の「帰ってきて」という叫びが響いている。
それが、直輝にとっての最強の魔除けだった。
「リヴ、準備はいいか?」
「……うん。ナオキ……いこう。わたしたちの……セカイへ」
直輝はリヴの手を固く握りしめた。
二人は、異世界へのポータルへと、迷うことなく足を踏み出した。
背後で、地球への道が静かに閉じる。
そこには、たった今までの三人の笑い声だけが、残り香のように漂っていた。




