黒い枝の侵入
夜は、まだ完全には落ちていなかった。
外を流れる風は夕方の名残を抱き、
建物の壁にほのかに橙色の光を揺らしていた。
その色が消えきるまでには、まだ時間があるはず――
なのに、六畳の部屋だけが一足早く“夜の底”へ沈んでいた。
窓の外より、暗い。
暗いというより、「光が拒絶されている」。
六畳に足を踏み入れた瞬間、
直輝は、耳の奥がすっと冷えるような感覚に囚われた。
(……変だ)
ただ静かというのではない。
この部屋だけ、他の世界と切り離されているみたいだ。
台所に立ち、飲み終えたスープ皿を流しへ置いた瞬間――
背筋を、細い氷の爪のようなものがつっと撫でていった。
(音が……ない)
外階段を上る誰かの足音が、やけに遠い。
冷蔵庫の低い唸りも、壁の向こう側へ吸われたように薄い。
空気は、重かった。
手で押せば、ぐにゃりと凹みそうなほどの重さ。
まるで、六畳全体が
――外界から閉じられ、別の層へ落ちていく途中のような。
「……ナオキ……」
声がした。
弱々しい。
かすれていて、喉からそのまま消えてしまいそうな声。
振り返ると、リヴがソファの端で膝を抱えていた。
耳は完全に伏せ、胸を押さえ、呼吸が浅い。
その姿は、獣が雷の前に硬直する時のような、
本能的な怯えと痛みが混じったものだった。
「……よる……ちから……ちかい……
ひる……より……ずっと……」
訊ねると、リヴは小さく頷いた。
だが、その頷き自体が震えていた。
「……ここ……みち……ひらく……
むこう……さがしてる……
さっきより……ずっと……つよい……」
言葉が、途切れるたびに息を吸う。
その息は浅く、細く、喉の奥で震えていた。
(今日……来るんだな)
そう思った瞬間だった。
――びり。
空気が、薄い膜を裂くように震えた。
テレビは、電源を切ってある。
コンセントも抜いてある。
ただの黒い板。
……のはずなのに。
画面の奥の黒が、
ふっ……ふっ……
と、かすかな“呼吸”の波打ちを見せた。
音はない。
だが、胸の骨の内側へ、微かな振動だけが届いてくる。
まるで、
「外側から叩いている何かの振動を、骨で聞いている」ような感覚。
「……直輝くん……」
背後で、美咲が小さく声を震わせた。
夕方から椅子に座ったまま、一度も立ち上がっていない。
帰りたくないのではない。
帰れなかったのだ。
自分ひとりでこの異常な部屋から出ていく――
想像するだけで足がすくむほどの恐怖だった。
「……ほんとに……夜のほうが……来やすいの……?」
美咲は腕を抱き、指先が白いほどに握りしめている。
「リヴがそう言ってる。多分、間違いない」
「昼のあれだけでも……すごくおかしかったよ……
二人が急に息止めて……リヴちゃん苦しそうで……
なのに夜はもっと“ひらく”って……どういう意味……?」
美咲は何も見えていない。
けれど、この空気の圧だけで理解してしまっていた。
――この部屋には、何かがいる。
――いや、“来ようとしている”。
そこまで察してしまうほど、六畳の空気は異常だった。
直輝は答えず、テレビへ視線を移した。
画面は暗い。
だが、ただの暗さではない。
黒の奥に、黒がある。
その奥に、さらに別の黒が沈んでいる。
人間の目では本来捉えられないはずの“層”が、
脳だけで勝手に解釈してしまうような黒。
「……ナオキ」
リヴが袖をつかむ。
その指は、細く震えていた。
「……むこう……さがしてる……
“でるとこ”……みつけようとしてる……」
「どこなんだ……?」
リヴは、画面の“下のフレーム”を指した。
その指先は、小刻みに震えている。
「……ここ……いちばん……うすい……
きょう……なんども……“なぞってた”……」
(ガラスの向こうを……なぞる?
本当に、向こうで意志が……?)
馬鹿げた想像のはずなのに、
六畳の空気はそれを否定してくれない。
直輝が息を飲むと、その音さえ六畳の空気に吸い込まれた。
まるで、この部屋そのものが
息を潜めているようだった。
誰かに見つかりたくなくて、
物音ひとつ立てまいと、
光さえ閉じ込めようとしているような――
異様に静かな“生き物の沈黙”だった。
テレビの黒は、波のようにわずかに脈動している。
光の反射ではない。
揺らめく熱気でもない。
表面ではなく、奥の層が膨らんで縮む。
呼吸だ。
この家電は、呼吸している。
「……ナオキ……」
リヴの声が、糸が切れたように細い。
彼女の耳は完全に伏せたまま、
手は胸に置いたまま動かない。
指先が冷たい。
皮膚の温度が下がっている。
「……むこう……さがしてる……
でるとこ……
いま…さがしてる……」
リヴの目は画面の一点から逸れない。
「さがしてるって……どういう意味だ……?」
「……うしろ……の……なにか……
ひび……さがす……
うすい……とこ……
そこ……やぶる……」
息を吸うたび、喉が震えていた。
「今日……なんども……
ここ……さわるみたいに……
なか……から……こつ……ん……って……
なぞってた……」
想像しただけで背筋が凍る。
向こう側から、ガラスの向こうを“触るように”探っている。
テレビが壁に固定されているわけでもないのに、
画面の奥はまるで巨大な水槽のように深く――
その底から、
人の形とも獣の形ともつかない“影”が、
出口を探して泳ぎ回っているように思えた。
(そんな……はずないのに)
否定が喉まで出かかったが、
空気の異常は現実を突きつけてくる。
テレビの奥が、軽く……震えた。
それは、誰かが向こうで壁を拳で叩いた時のような、
曇ったガラスの奥を“ばん”と揺らす衝撃。
「……ナオキ……
いま……もっと……ちかい……
こっち……よんでる……
むこう……こわれて……にげたい……
だから……ここ……やぶる……」
リヴが言う“むこう”がなにかは分からない。
ただひとつだけ確かに分かる。
逃げ場を探している“何か”が、地球側へ出てこようとしている。
そしてその“出やすい穴”として、
リヴのいる六畳、
この安アパートのテレビを選んだのだ。
美咲が、震える声を必死に抑えながら言った。
「ねぇ……直輝くん……
あんたたち……さっきから……
“来る”って言ってるけど……
どうしてそんなに確信あるの……?」
美咲には“黒の層”が見えていない。
ただの暗い画面にしか見えない。
だが、
見えていないのに察してしまうほど、
部屋の空気は異常だった。
「……わかるの……直輝くんが……
怖がってるの……
ずっと一緒にいたから……
なんとなく……わかるの……」
強がる癖のある美咲が、
こういう声を出すのは珍しい。
「私、ほんとは……帰りたいよ……
でも……ひとりで帰ったら……
途中で倒れそうで……
だから……ここにいるしかない……
けど……見えてないのに、怖いよ……
ほんとに、ここ……なにかいるの……?」
直輝は答えられなかった。
返す言葉はあった。
「気のせいだ」「大丈夫だ」と嘘をつくこともできた。
しかし、
その瞬間――
テレビの奥の黒が、
ぐっ……と一段沈んだ。
沈んだ、というより、
落ちた。
闇が層を落としながら“近づいた”のだ。
その気配は、
壁際に立つ直輝の足先まで震わせた。
「……ナオキ……
おく……きめた……」
リヴの声が、震える糸のように細い。
「きめた……?」
「……うん……
むこう……いま……ふえてる……
おちて……くずれて……
にげたい……
ここ……しか……ない……
ここ……“やぶる”って……
もう……きまった……」
美咲が息を飲む。
「決めたって……
なにが……決めたの……?」
リヴの喉がひゅっと鳴る。
呼吸が浅く、痛そうだった。
「……むこう……
ひとじゃ……ない……
けものでも……ない……
でも……
おもい……もってる……
“でたい”って……
それ……だけ……」
直輝は、
胃の底へ氷が落とされたような感覚に囚われた。
(……意思がある……?
意思を持った何かが……
ここを破ろうとしてる……?)
否定しても、空気が嘘を許さなかった。
「……ナオキ……」
リヴの瞳が揺れる。
「……いま……
ここ……ぴし……って……
うすくなった……」
その瞬間だった。
――ぴしっ。
音は、確かにあった。
画面の下のフレームが、
中から“押された”ような 軽い――しかし決定的な“軋み”。
「い、今の……ひび!?
音したよね!?
ねぇ直輝くん、今の絶対音したよね!!」
美咲の声が裏返る。
視線がテレビへ吸い寄せられ、
椅子を蹴るようにして一歩後ずさるが、
扉の方へ逃げることはしない。
逃げたくても、逃げられないのだ。
部屋の空気が外へ押し出さない。
外界と六畳の境界が曖昧になっていく。
この空間だけが
“向こう側と重なり始めている” のだ。
「リヴ……どうだ……」
直輝の声も震えていた。
リヴは息を吸って――
震えながら吐く。
「……くる……
もう……すぐ……
でる……
まっすぐ……こっち……」
息の音が、ひゅ、ひゅ、と細く漏れる。
彼女の魔素が反応しすぎて、
身体が悲鳴をあげているのが分かった。
(こんな……状態で……)
直輝が手を伸ばして支えた瞬間だった。
テレビの奥の黒が――
跳ねた。
跳ねたとしか表現できない。
生き物が勢いよく飛び上がる瞬間の、
あの“衝撃”だけが空気へ伝わる。
だが跳んだ影は、
人の形でも、獣の形でもなかった。
ただ一つの“衝動”だけが形を持った跳ね方だった。
——出る。
その瞬間、
六畳の空気が張り詰めた膜のように震えた。
美咲が喉を詰まらせながら悲鳴をこぼす。
「や……やだ……これ……
ほんとに……出てくるじゃん……!」
壁に手をつき、逃げるでもなく、
その場で震えながら立ち尽くしている。
直輝は振り返る暇さえなかった。
リヴが、
胸の前で軽く身体を折るようにして、
痛みに耐えながら言った。
「……ナオキ……
くる……
もう……そこ……
すぐ……そこ……」
テレビの黒が、
さらに深みを増して、
“本物の影”を孕んだ瞬間――
フレームの下部が、外側へふっと浮いた。
そして。
——バキッ。
それは、
地球の家電製品から出る音ではなかった。
何か異質なものが
境界を踏み破った音だった。
そこから、
黒い“枝”が一本……
にじり出た。
黒い“枝”は、じわり……と形を定めながら、この世界へ染み出してきた。
にじり出る、という表現が一番近い。
速さはない。だが、遅いわけでもない。
重さだけがある動き。
空気を押し潰しながら、確実に“こちら側へ”形を確定していく。
それは植物の枝というより、
影の塊が細長く自分を引き伸ばしているようだった。
表面は木の皮のようにざらついているようで、
しかし光が当たると影のまま揺れる。
硬いのか柔らかいのかすら判断がつかない。
(……やべぇ……これ……)
直輝は本能で理解した。
触れたら終わる。
形を持ち始めた“それ”は、
生き物のようでもあり、
生き物ではない“意志”の塊でもあった。
そして――
にじり出た瞬間。
枝は、左右にも揺れず、
天井へ向かうことも、床を探ることもせず――
まっすぐ。
最初の瞬間から、迷いなく。
リヴへ向かった。
「っ——リヴ!!」
直輝の声が潰れた。
脳が処理するより早く、身体が飛び出していた。
ソファへ身を投げる。
リヴを胸へ抱き寄せ、覆いかぶさる。
自分の背中を盾にし、腕で頭を守る。
リヴの耳がびくりと震え、
息が詰まったような声が胸元へ漏れた。
「……ナオキ……!」
枝は探っていない。
匂いを嗅ぎ分けるような動きもない。
最初から軌道が固定されている。
まるで――
最初からリヴだけを追っていたかのように。
(どうして……まっすぐ……)
恐怖が思考へ侵入しようとしたが、
直輝は飲み込むように押し返した。
守るしかない。
枝の先端は、指のようでもあり、
棘のようでもあり、
細い木の枝のねじれのようでもあった。
ところが表面は影の質感のまま揺れ、
光を吸い込みながら、こちらに形を近づけてくる。
その先端は――
呼吸を合わせるように、淡く脈打っていた。
リヴの鼓動を、吸い寄せるように。
「なっ……なに、あれ……!
なんで……こっち来てるの……!?」
背後で、美咲が声を裏返らせた。
壁際に立ち、震えながらそれ以上動けない。
「見るな美咲さん! 伏せろ! 扉の前で絶対動くな!」
怒鳴るしかなかった。
あの黒い枝が人間に触れたらどうなるか、想像すらしたくない。
美咲は涙で目を潤ませながら、
必死で扉へ背中を押し付け、小さく体を折り畳む。
だが視線だけは逸らせない。
引き寄せられるように、テレビと黒い枝を追ってしまう。
「直輝くん……!
あれ……生きてるよね……!?
動きが……生き物の……」
「見るなって言ってるだろ!!」
叫んだその声も、
六畳の異常な空気に吸い込まれ、
いつもの音量よりも弱く聞こえる。
(……音が……殺されてる……?)
この空気の密度は異常だった。
水の中に声を放っているような息苦しさがあった。
枝がもう一本……と思った瞬間――
直輝は身を強く寄せ、リヴの頭を胸に押し込む。
「……ナオキ……こわい……
きてる……まっすぐ……
わたし……ねらってる……」
リヴの震え方が、尋常ではなかった。
身体が“魔素の圧”に反応しているだけではない。
恐怖が芯まで入り込み、全身を強張らせている。
「大丈夫だ……絶対に触らせない……」
口にした言葉は、
自分への鼓舞でもあった。
黒い枝が、リヴの位置へ正確に軌道を合わせながら伸びてくる。
枝の軌道はぶれない。
生き物のように探る動きもない。
ただ、一直線に、真っ直ぐに。
目的を見失わない刃のようだった。
(くそ……速い……!)
枝が、ぐい、と速度を増した。
その表面をよく見ると、
影が何層にも重なっているように見える。
まるで複数の手が互いに重なって一本の枝を形成しているような、
不気味な揺らぎ。
枝の根元は、テレビの奥へ沈み続けている。
まだ身体の全貌は見えていない。
ただ、向こう側から無尽に影を引き絞って、
細長い形に生成しているようだった。
こっちへ伸びる先端だけが“選ばれて”具現している。
一瞬だけ、枝の先端が“指”の形になった。
かと思えば、細い針のように鋭く尖る。
次の瞬間には木の枝のように節を作る。
形が安定しない。
だが、一点だけ確かだ。
リヴを狙っている。
「っ……!」
枝の先端が、空気へ触れた。
耳では聞こえない。
だが、骨で感じる“カチッ”という感触が走った。
直輝の背筋へ、冷たい汗が一気に流れた。
(間に合わない……!)
「……ナオキ……っ……」
リヴの声が、涙で震える。
枝が、ソファの背を越える。
ソファの布が、枝の影に触れただけで、
熱で焦げるように色がくすみ、歪む。
(やばい!!)
「リヴ、伏せろッ!!」
直輝はリヴの頭を深く抱き寄せ、
背中を丸めて全身で覆う。
この腕一本で守れる保証なんてない。
だけど――守るしかない。
枝の影が、
直輝のすぐ背後へ迫る。
空気が軋む。
膜が張りつめる。
枝の先端が、リヴの髪へ触れようと――
黒い枝の先端が、
リヴの髪へ――ほんの数ミリまで迫った。
影の節がぐに、と曲がり、
針のように伸び、
リヴの気配へ真っ直ぐ伸びる。
もう避けられない距離。
(間に合わねぇ……!)
直輝は歯を噛み締め、
覆う腕に力を込め――
その瞬間。
——バチンッ!!!!!!
六畳が震えた。
光ではない。
音ではない。
存在が破裂した衝撃そのものだった。
黒い枝は、
リヴへ触れる寸前で、
根元から“弾け飛んだ”。
砕けた、のではない。
壊れた。
何層にも重なっていた影の繊維が、
強制的に捻じ切られ、
形を保てないまま空中でほどけていく。
細かな黒い粉が、
雪のように舞い落ちる。
床に沈殿しながら、
光を完全に吸い込み、
存在を主張するように沈んでいく。
「な……なに、今の……!?
ちぎれた……? え……なに……?」
美咲の声は震えているのに、
涙が出る余裕もないほど恐怖に固まっていた。
リヴは直輝の腕の中で、
ひく……ひく……と呼吸を整えようとしている。
しかし、青ざめた唇が震えたまま声を絞り出した。
「……ナオキ……
いまの……10びょう……」
「……じゅっ……秒……?」
直輝もまだ息が整わない。
リヴは小さく頷いた。
涙で濡れた頬のまま、胸に額を押しつけてくる。
「ポータルが……10秒ルール……助かった?」
直輝は胸の奥で、
猛烈な怒りと悔しさを同時に噛みしめた。
(リヴを……狙ってた……
まっすぐ……最初から……!)
息が荒いまま、
直輝はリヴの肩をそっと抱き直す。
黒い粉だけが、六畳へ静かに降り積もっていく。
まるで、さっきまでそこに“何か”が確かに存在した証のように。
直輝はリヴを抱きしめたまま、
ようやく浅い息をひとつ吐いた。
喉の奥が熱くて、声にしようとすると震えそうだった。
「……リヴ……お前、大丈夫か……」
問いかけた声は、思っていたよりも弱かった。
自分の声がこんなに掠れるなんて、初めてだった。
リヴは胸に額を押しつけたまま、小さく震えている。
耳は完全に伏せ、呼吸は細く、肌は雪のように冷たい。
「……ナオキ……
こわかった……
ほんとうに……つかまる……って……
おもった……」
かすれる声。
それは恐怖ではなく――
恐怖の奥にある“理解した痛み”だった。
「……あれ……
わたし……だけ……
ねらってた……
はじめから……まっすぐ……」
直輝は拳を握った。
指の震えが止まらない。
どうしてリヴなんだ。
どうして。
そう叫びたいのに、声にならない。
そのとき、リヴは胸元から、
そっと顔をあげた。
涙に濡れた瞳が揺れながら、
まっすぐ直輝を見た。
「……ナオキ……」
呼ばれただけで、胸が痛くなる。
「……これ……あした……もっと……くる……
きょう……の……これ……
まだ……よわい……
あしたは……もっと……ながい……
もっと……おおきい……」
リヴは胸を押さえ、ゆっくり首を振る。
「……わたし……
ここ……いたら……
ナオキ……まきこまれる……
あした……たぶん……
もう……まもれない……」
声の奥にあるのは“恐怖”ではない。
覚悟だ。
それが痛かった。
「リヴ……」
言い返そうとしたその瞬間、
リヴは直輝の胸に小さく手を置いた。
触れた指先はかすかに震え、それでも逃げなかった。
「……ナオキ……
わたし……むこう……かえる……」
涙がひとつ、膝の上に落ちた。
「ここ……いたら……
ナオキ……しんじゃう……
それ……いや……
いちばん……いや……」
喉が締めつけられ、直輝は言葉を失う。
彼女は続けた。
小さな声で。
まるで息の半分を失いながら話しているみたいに。
「……だから……
ここで……おわり……」
おわり
その単語が、六畳を冷やした。
粉雪のように落ちた黒い残滓が、沈黙の中でゆっくりかすかに揺れる。
そしてリヴは、
泣きながら、それでもまっすぐに言った。
「……ナオキ……
いままで……ありがとう……」
その声は、
別れの声だった。
そして――
六畳の夜が、完全に落ちた。




