第13話:新薬の増殖計画と、未来への投資
休みの日の朝。
ナオキは、いつもより早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光は、まだ柔らかい。
枕元のスマホを手に取り、時刻を確認する。
休日にしては十分早起きだが、二度寝する気にはなれなかった。
(今日は、ちゃんとやる日だな)
そう思った瞬間に、頭の中に浮かんだのは、冷蔵庫の奥に眠る青黒い薬草と、戸棚の隅に隠した干しキノコだった。
六畳の部屋で上体を起こし、軽くストレッチをしてから冷蔵庫の扉を開ける。
ペットボトルと調味料の陰。
昨日しまったタッパーの隣に、もうひとつ、小さな保存容器が並んでいる。
あの日、ウロから持ち帰った薬草を、湿らせたガーゼで包み、ラップをかけて入れておいたものだ。
取り出してフタを開ける。
青黒い葉は、ほんの少し色を落としているが、まだしっかりした張りを保っていた。
「……よく持ってるな」
思わず小さく呟いてしまう。
葉の表面には、細い筋が走っている。
光に透かすと、その筋がわずかに淡い色で光って見えた。
表も裏も、近所の空き地に生えている雑草とは明らかに違う。
(これは、食べ物じゃない。使うとしても、汁か、煮出しのほうだ)
昨日のパッチテストと、傷に当てたガーゼの手応えを思い出す。
即効で劇的な変化が出たわけではない。
それでも、あのジンとした感覚は、ただの気休めではなさそうだった。
「キノコが“元気”で、こっちが“治すほう”だとしたら……」
言葉の続きは口に出さない。
代わりに、戸棚の小さな缶を取り出した。
中には、干しキノコが薄く重なって入っている。数えてみると、思っていたより少ない。
「……やっぱ、減りが早いよな」
ここ最近、夜勤の前や、長丁場の日勤の朝に、スープにひとかけらずつ入れてきた。
そのたびに、確かに身体は楽になった。眠気が薄れ、集中力も少しだけ保ちやすくなっている。
その代償が、この残量だ。
(このペースで使ってたら、一ヶ月ももたない)
キノコは、食べてこそ意味がある。
薬草は、手元にあるだけで意味がある。
使い方が根本的に違う。
だからこそ、ナオキは決めていた。
薬草は「増やす」ことに賭ける。
キノコは「効き方」を見極めて、使い過ぎないラインを探る。
今日一日は、その二つのために使うつもりだった。
簡単に朝食を済ませ、洗濯機を回しながら、必要な物資のメモを書く。
小さめのプランター。
室内向けの培養土。
小さなスコップと、受け皿。
透明な蓋代わりになるプラスチックケース。
霧吹き。ラベル用のテープと油性ペン。
(本当は、水耕栽培のほうが理想なんだろうな)
スマホで軽く検索すると、「無菌」「水耕」「LED」みたいな単語がいくつも出てくる。
白衣を着た人間が、ピカピカの棚で野菜を育てている写真が並んだ。
画面をスクロールしながら、ナオキはすぐにため息をついた。
「そんな立派な環境、俺には作れないって」
実験室でも、研究施設でもない。
六畳とウロと、ホームセンターと百均。
その範囲でできることを積み上げるしかない。
画面を閉じ、メモに線を引く。
水耕栽培の文字を一旦消し、代わりに「土で増やす」「清潔優先」と書き込んだ。
洗濯物を干し終えたら、そのまま自転車でホームセンターに向かう。
財布の中身を確認すると、心臓が少しだけ縮む。
(ここでケチって、全部ダメになったら余計もったいないしな)
自分に言い聞かせながら、鍵を握りしめた。
ホームセンターの園芸コーナーは、休日の午前にしては静かだった。
胡蝶蘭の鉢植えや観葉植物が整然と並ぶ中を抜けて、一番端の棚へ向かう。
小ぶりなプランターがいくつも積まれている。
その上の段には、「プロ仕様」「本格派向け」と書かれた培養土の袋が置かれていた。
思わず、その袋に手が伸びる。
値札を見た瞬間、その手をそっと引っ込めた。
「プロは、また今度だな」
苦笑しながら、隣にあった室内用の軽い土を選ぶ。
殺菌済みと書かれた、そこまで高くないもの。
プランターは、ウロのスペースを考えて、細長くて背の低いものを選んだ。
受け皿をセットでカゴに入れ、スコップと霧吹きも一緒に放り込む。
百均では、透明なプラスチックケースとラベルテープ、軍手、マスクを追加した。
レジで合計金額を聞いた瞬間、胸がちくりとする。
それでも、支払いを躊躇うほどではなかった。
(飲み会一回分、行ったと思えば安いほうか)
そもそも、そんな余裕は普段ない。
だからこそ、今日くらいは自分の判断でお金を使いたかった。
六畳に戻り、買ってきた道具を並べる。
プランターにビニールを敷き、培養土を少しずつ移す。
土の匂いが部屋に広がった。森の土とは違う、乾いた、どこか人工的な匂いだ。
軽く霧吹きで湿らせ、土の表面を平らにならす。
「……よし」
一度深呼吸をし、冷蔵庫から例の薬草を取り出した。
葉の先端を、ほんの少しだけ切り取る。
できるだけ本体の形を保ちつつ、芽の出そうな部分を探る。
園芸の知識はほとんどない。
けれど、挿し木の記事を見た限り、完全な無謀ではなさそうだった。
細く切った薬草の断面を軽く水にくぐらせ、プランターの端に埋め込むように差し込む。
日が当たりすぎないよう、ベランダ側の窓から少し離れた場所にプランターを置いた。
その上から、透明なプラスチックケースを被せる。
簡易的な温室のつもりだった。
ケースの側面には、いくつか小さな穴を開けておく。
湿気がこもりすぎて腐らないように。
「これで、まずは六畳栽培」
そう口にした瞬間、自分で少し笑ってしまった。
(ウロで増やしたほうが“本場の環境”なんだろうけどな)
視線をテレビに向ける。
木目の画面は、今日も静かに森を映していた。
(いきなり両方でやるのは、リスク分散どころか管理がガバガバになる)
六畳で増やして、うまくいったら一部をウロに移す。
それくらいの段階を踏んだほうが、自分の性格には合っている。
そう決めて、プランターの横に小さな紙片を置いた。
「薬草A」「六畳」「初日」と書く。
日付も添えた。
紙片を見ながら、ふとリヴの顔が浮かぶ。
(あの子から見たら、こんなの、ただの土いじりかもしれないけど)
それでも、ナオキにとっては立派な「研究」の一歩だった。
六畳側の準備が済んだら、次はウロだ。
ウロに持っていくための荷物をリュックに詰める。
今日の分のレトルトスープとパン。
ノートとペン。
さっきの霧吹きと、少しだけ分けた培養土。
プランターとは別に、もっと小さなポリポットもいくつか用意しておいた。
それから、リヴへの「お礼兼、次の取引の種」になる物資。
個包装の砂糖と塩。
小さな軍手。
つまみやすいトング。
肌に優しそうな固形石鹸。
どれも安物だが、リヴの生活を思い浮かべながら選んだものだった。
「……よし」
深呼吸をしてから、三十二型テレビの前に立つ。
「行ってきます」
いつもの言葉と共に、画面に手を触れた。
十畳のウロに出ると、空気はひんやりしていた。
森側の出口の布は閉じてあり、ランタンの光だけが内部を照らしている。
ブルーシートの上にリュックを降ろし、ひとつずつ荷物を出していく。
まずは食料とノートをいつもの位置に。
次に、リヴへの物資を目立つ場所に置いた。
砂糖と塩の小袋を、布の上に三つずつ並べる。
その横に軍手とトングと石鹸をそっと置いた。
スケッチブックを開き、簡単なイラストを描く。
リヴの顔。
薬草の束。
その横に、砂糖と塩。
矢印でやり取りのイメージを描き、日付と「三日のち」と日本語で書いておく。
言葉は通じなくても、「またここで会いたい」という気持ちと、「薬草を増やしてほしい」という願いくらいは、何とか伝えたい。
スケッチブックを立てかけ、布の上に置いた。
それから、ウロの隅に視線を向ける。
そこには、前回の実験の名残がある。
紙コップ、鍋、空になった容器。
今日はそこに、小さなポリポットを追加するつもりだった。
ブルーシートの端を少しめくり、その下の土を観察する。
湿り気はあるが、じっとりしすぎてはいない。
(森の土とはいえ、ここは木の中だ。水は自分で調整しないといけない)
六畳から持ってきた培養土を、ポリポットに少量ずつ入れる。
そこに、薬草の葉をごく小さく切ったものを、一本ずつ差し込んだ。
六畳と違って日光は入らないが、ランタンと森側の出口から漏れるわずかな光がある。
ポットの並びを整え、近くに小さな石を置いて目印にする。
「ここが、ウロ側の薬草畑ってことで」
そう呟き、霧吹きで軽く水をかけた。
六畳とウロ。
同じ薬草を、違う環境で育てる。
植物の気持ちを完全に理解することはできないが、こうして並べてみれば、何か見えてくるかもしれない。
一通りの準備を終えると、時計を見る。
リヴと会うつもりの時間には、まだ少し早い。
ナオキは、キノコの缶を取り出した。
ウロに置いてある分は、ごくわずかだ。
缶の中で重なっている薄い片を、ためらいながら一枚つまむ。
(今日は、量と時間をきちんと測る)
鍋に水を入れ、火をつける。
沸騰する前に火を弱め、キノコをひとかけらだけ落とした。
スープに香りが移るのを待ち、小さなカップに注いで冷ます。
腕時計を確認しながら、慎重に一口だけ口に含んだ。
独特の風味と共に、体の奥がじんわりと温かくなる。
喉を通って数十秒。
胸のあたりに、ぽっと灯りがともるような感覚。
頭の霞が少しだけ引き、視界がクリアになる。
(少量で、三時間。昨日までの感覚だと、そのくらいだ)
記憶を辿りながら、ノートにメモを書く。
ふと思いつき、今日は「倍量」の感覚も確認しておこうかという考えがよぎる。
誘惑のような、怖さのような、不思議な感触だった。
介護の現場で、眠気や疲労で判断を誤る怖さは、嫌というほど思い知っている。
だからこそ、「効くもの」の怖さも知っておきたかった。
「……やるなら、今日は仕事がない日だ」
自分に言い聞かせるように呟き、二杯目のスープを準備する。
今度は、さっきと同じ量のキノコをもうひとかけら追加した。
しっかり冷ましてから、ゆっくりと飲む。
一気に飲み干さず、少しずつ喉を通す。
数分もしないうちに、体温が一段階上がったような感覚がやってくる。
指先まで血が巡るような、軽い興奮に似た感覚。
心臓の鼓動は、速くはなっていない。
ただ、体の奥から「もうひと踏ん張りできるぞ」と背中を押されているような、不思議な感覚だった。
(……これ、最悪“合法ドーピング”だな)
胸の奥で、冷たい声がひとつした。
(職場の誰かに「体が軽くなるキノコ茶」なんて勧め始めたら、その時点で終わりだ)
ノートに、「倍量」「持続時間」「体温」「心拍」「気分」の欄を作り、今の状態を書き込む。
字が妙に軽快になるのを、自分で苦笑しながら見つめた。
「仕事の前に飲むのは、少量だけにしておこう」
声に出して決める。
決めておかないと、そのうち「今日だけ」「もうちょっと」と線が曖昧になっていく自信があった。
六畳の魔石。
ウロのキノコ。
どちらも、一歩間違えれば簡単に足元をすくってくる。
(俺の強みは、魔法でも才能でもない。ビビりなところと、メモ魔なところだ)
苦笑して、ペンを握り直した。
スープの最後の一口を飲み終える頃、ウロの入口の布がふわりと揺れた。
森側から、かすかな気配が近づいてくる。
布の隙間から、フード付きの小柄な影がこちらを覗いた。
「……リヴ」
名前を呼ぶと、彼女はホッとしたように表情を緩め、中に入ってきた。
今日は、小さな布袋を二つ抱えている。
ひとつは、見慣れた薬草の束。
もうひとつは、前より少しだけ増えた干しキノコだった。
リヴは、薬草の束をナオキの前に差し出す。
それから、ウロの中を見回し、砂糖と塩、小さな軍手とトング、石鹸に気づいた。
目が、ふっと丸くなる。
ナオキはスケッチブックを示し、絵を指差した。
薬草の絵。
砂糖と塩の絵。
矢印。
三日のち、という文字。
リヴは繰り返し絵を見て、薬草の束と砂糖の小袋を交互に見つめた。
しばらく考えたあと、ゆっくりと頷く。
青い瞳が、少しだけ笑った。
言葉は通じない。
けれど、「これからも続けよう」という意思だけは確かに伝わった気がした。
その日の帰り道、ナオキはウロから六畳へ戻っても、しばらくテレビの前に立ち尽くしていた。
部屋の明かり。
プランターの上の透明なケース。
中に差し込んだ小さな薬草の切れ端。
どれも、見た目としては大したものではない。
けれど、六畳と十畳と森の向こうとを一本の線で結ぶ、「始まり」のように見えた。
仕事効率が上がれば、夜勤のミスは減らせる。
薬草の使い方が分かれば、リヴの世界でも、こちらの世界でも、誰かの傷や痛みを少しは軽くできるかもしれない。
どれも大げさな話ではない。
ただ、目の前の生活を少しだけマシにするための、小さな工夫の積み重ねだ。
「……こういうのも、投資って言うのかな」
ぽつりと呟き、苦笑する。
株も仮想通貨も持っていない。
勉強する余裕も、元手もない。
それでも、今日使ったお金と時間が、いつかどこかで自分と誰かの役に立てば、それで十分だった。
プランターのケース越しに、土をじっと見つめる。
(うまくいっても、いかなくても)
(この六畳とウロで、できることをひとつずつ増やしていく)
胸の奥で、そんな決意が小さく固まる。
手取り十五万。
冷蔵庫の安い食材。
中古の三十二型テレビ。
その全部を抱えたまま、ナオキは小さく息を吐いた。
明日はまた、いつもの職場だ。
夜勤の前には、キノコをほんのひとかけらだけスープに落とすつもりでいる。
その一口が、自分の足を前に出す力になってくれるのなら。
それもまた、ささやかな「未来への投資」に違いなかった。




