境界が滲む夜
朝の光は弱く、六畳の部屋へ染み込むように広がっていた。
リヴの気配で目が覚めたわけでもないのに、胸の奥に残ったざわつきが寝起きの意識をゆっくり締めつけていく。
昨日の夜、テレビの奥で揺れた黒い影。
リヴが耳を押さえ、痛みを堪えていた姿。
あれがただのノイズで済むとは、もう思えなかった。
直輝が身を起こしたとき、布団の隣でリヴがゆっくりと目を開けた。
金色の髪が朝の光をふわりと拾い、耳が弱く伏せられる。
「おはよう、リヴ」
「……おはよう……ナオキ……」
小さな声だった。
いつもの柔らかさはあるのに、わずかに曇りがかかっていて、胸の奥に刺さる。
「耳は痛まないか?」
「……すこし……おと……する……」
直輝は言葉を選ぶ。
怖がらせたくないのに、嘘もつきたくない。
だが、答えを急がせるのも違う。
「無理するなよ。スープ温めるから、座って待っててくれ」
「うん……ナオキの……すき……」
その一言だけは、昨日までと同じ温度だった。
キッチンでスープを温めていると、玄関がノックされた。
コン、コン。
美咲の声が明るく響く。
まるでこの部屋の空気に新しい風を運んでくるようで、直輝はほんの少し救われた気持ちになる。
「おはよ。二人とも、生きてる?」
「おはよう、美咲」
「おはよう……みさき……」
美咲は靴を脱ぎながら、二人の顔色をざっと確認した。
その視線は鋭いのに優しい。ずいぶん長い付き合いだから、誤魔化しは効かない。
「……なんか、違う?」
けれど、決定的な違和感にまでは気づかない。
それが逆に、妙に心を締めつけた。
朝食を三人で囲む。
いつものパンとスープ。
なのに、リヴの視線はときどきテレビの裏へ吸い寄せられていく。
耳が弱く震えていた。
美咲はパンを一切れつまみながら、軽く言った。
「リヴちゃん、疲れてる? 昨日けっこう頑張ってたし」
「……すこし……だいじょうぶ……」
「無理しない方がいいよ。ナオキは仕事でもなんでも、休ませないから」
「おい」
そのやりとりで一瞬笑いが生まれた。
だが直輝の心は笑っていなかった。
(……今日も“来る”かもしれない)
美咲がスープを飲みながら言う。
「午後からちょっと出かけるから、夕方までは戻れないよ」
その言葉が胸を冷やす。
不吉な予感というほど大げさではないのに、身体が勝手に反応した。
(今日……夕方まで不在……か)
そして、食事が終わる頃。
テレビが一瞬だけ黒く沈んだ。
ほんの一秒。
見間違いだと片づけるなら簡単な暗転。
だが、リヴの耳が跳ねたことで、見間違いではなくなった。
美咲は気づかない。
気づいてはいけないのかもしれない。
昼前、美咲は玄関で靴を履きながらリヴに向き直った。
「リヴちゃん。ほんと、何かあったらナオキじゃなくて私を呼んでいいからね」
「……うん……ありがとう……」
「ナオキくんはね、案外こういう時頼りにならないから」
「いや、どういう評価なんだよそれ」
美咲は笑いながら手を振り、階段を降りていく。
足音が途切れ、扉の向こうに完全に消える。
その途端、部屋が“変わった”ように感じた。
空気が沈んだ。
外の音が遠のいた。
温度がひとつ落ちたように。
リヴが膝を抱え、小さく呟く。
「……いま……うしろ……
なにか……ゆれた……」
直輝は息を飲んだ。
まだ“おかしくなる前”の午後なのに。
それでも——始まったのだと、静かに分かった。
ここからが“境界が滲む夜”の本番。
美咲が去ってからの静けさは、朝よりも重かった。
六畳全体に薄い膜が張られたようで、空気が冷たく沈んでいた。
外で車が走る音がするはずなのに、遠い。
耳に届いているのに、どこか別の世界の雑音みたいで、六畳の空気と馴染まない。
直輝が目を向けるまでもなく、リヴはもうソファの端で膝を抱え、じっとテレビを見ていた。
視線は弱く震え、耳の先がほんの少しだけ伏せられている。
「……リヴ」
「……いる……」
小さく漏れた声が、直輝の胸に刺さった。
「また聞こえるのか?」
「……うん……
さっきより……ちかい……
でも……ことばじゃない……
ひくい……ひびき……
おと……じゃなくて……
でも……きこえる……」
その説明は相変わらず曖昧だ。
けれど、彼女の耳は嘘をつかない。
異常は間違いなく“続いている”。
直輝はゆっくり立ち上がり、テレビとの距離を縮める。
画面は相変わらず黒く、ただ沈んでいるだけのように見える。
だが——その“黒”が重い。
闇というより、奥行きが深すぎて反射していないような黒さだった。
「ちょっと離れてろ。俺が見てくる」
そう言って、画面の近くへ手を伸ばす直輝の背中に、リヴの小さな声が重なる。
「……ナオキ……まえ……たたないで……」
振り返ると、彼女の瞳がわずかに揺れていた。
「大丈夫だ。触らせない」
そう答えても不安は消えない。
それが分かる。
画面に顔を寄せた瞬間だった。
——ふるり。
ガラス越しの奥で、黒がわずかに動いた。
風の揺れでも、振動でもない。
“奥の層”が動いた。
「……っ!」
リヴの耳が跳ね、胸を押さえてうずくまる。
直輝は距離を取り、急いで彼女に駆け寄った。
「痛いのか?」
「……ちがう……
いま……て……みたいな……
なか……から……
ガラス……さわった……」
「さわった……?」
リヴは震える指で床の一点を指さす。
それは、画面の中央の高さ——“誰かが画面越しに触れる位置”だった。
背中が冷える。
まるで、指先でなぞられたかのような気配が部屋の空気に残っている。
「画面から……手が出たってことか?」
「……でてない……
でも……
なか……から……
さわった……
ここ……まで……」
リヴの肩が小刻みに震えた。
(画面“の奥”から、触ってきた……?
出てきてはいないのに、触れた……?)
直輝の喉が乾く。
「匂いは?」
「……すこし……
あの……むこう……の……におい……
こげた……つち……
くずれた……におい……
すこし……だけ……」
崩壊核の匂いだ。
異世界で一度だけ嗅いだ、あの不気味な匂い。
それが、テレビの中にある。
地球側に届こうとしている。
リヴは胸を押さえ、苦しそうに顔をゆがめる。
「……さがしてる……かんじ……
なにか……わからない……
でも……
さわろう……としてる……
ここ……に……」
「何を“探してる”んだ……?」
直輝は思わず呟いた。
リヴは答えず、ただ震える。
その沈黙こそが答えだった。
彼女も分かっていない。
ただ“向こうの何かが、ここを探している”という感覚だけが確かにある。
「リヴ……お前だけ聞こえるのは……どうしてなんだ?」
その問いは怖すぎた。
でも聞かずにはいられなかった。
リヴは小さく息を吸い、震える声で答えた。
「……ナオキ……に……
きこえたら……
みつかる……から……」
「……みつかる……?」
「……うん……
あれ……
ナオキ……が……きいたら……
まっすぐ……
くる……
まっすぐ……
さがす……」
その言葉はひどく残酷だった。
美咲が去った今日、
真っ先にリヴが“盾になって受けていた”という事実が胸に刺さる。
「……今まで全部……お前が受けてたのか?」
リヴは小さく頷くしかなかった。
「……ナオキ……
こわがる……から……
わたし……が……きいた……」
その姿が痛いほど愛おしく、胸が締めつけられた。
「リヴ。
俺は怖がるけど……
それでいいんだ。
ひとりで受けるな」
「……ナオキ……」
その言葉だけで、リヴの目に涙がひらりと浮かぶ。
しかしその瞬間だった。
——ビリ……ッ。
画面の奥で、黒い“渦”が突然濃くなり、形を変える。
細い影のようなものが一本、奥の闇から手前へにじむ。
「……っ……!」
「……ナオキ……ちかい……!」
影は細い。
枝にも、手にも見えた。
だが形は定まっていない。
揺れる闇が必死に形を作ろうとしているような動きだった。
「これ……今日触れるか?」
「……きょう……は……
ぎりぎり……
とどかない……
でも……
あした……は……
ほんとうに……わからない……」
“明日、触れる”。
その予感が、部屋の空気をさらに冷たくする。
そしてリヴが震える声で言った。
「……ナオキ……
むこう……で……
なにか……
はじまってる……
これ……
その……まえ……ぶれ……」
直輝は静かにリヴを抱きしめた。
彼女が震える肩に手を添え、落ち着かせるようにゆっくりと呼吸を合わせる。
「大丈夫だ。
何が来ても……
俺がそばにいる」
「……ナオキ……
すき……
こわい……
でも……
ナオキ……いるから……
いける……」
その言葉が終わるより早く、画面が“ぺたり”と沈んだ。
生き物の掌がガラスの内側から押されたような——
そんな、あまりに生々しい沈み方だった。
リヴが息を呑む。
直輝の腕を、必死に握った。
影は近い。
境界は滲んでいる。
そして、明日——
“触れる”。
夜の光は、六畳の部屋の色を一段深く沈めていった。
蛍光灯をつければ明るくなるはずなのに、直輝はスイッチに触れなかった。
光をつけてはいけない。
なぜなのか、理由は説明できないが——
“光の方へ寄ってくる”という直感が、妙な確信をもって胸に貼りついていた。
部屋は薄暗いまま。
カーテンの隙間から洩れる橙の外灯だけが、静かに床を照らしている。
リヴは直輝の腕にしがみつき、小さな肩を縮めていた。
息は浅く、胸が弱く震えている。
「……ナオキ……
よる……になると……
おく……もっと……ちかい……」
「夜になると、近いって……?」
「……うん……
ひるより……よる……
しずか……だから……
むこう……の……ゆれ……
こっち……に……きやすい……
まど……うすく……なる……」
境界が薄くなる、ということなのだろう。
リヴの声は震えているのに、言っていることは淡々とした“実感”そのものだった。
直輝は、そっと彼女の背をさすった。
「ここにいる。離れない」
「……うん……
ナオキ……そば……に……
いる……から……
だいじょうぶ……だいじょうぶ……」
自分に言い聞かせる声。
その弱さが胸に刺さる。
しかし、その安堵は一瞬で破られた。
——ビリ……。
テレビの黒が、深さを増した。
画面の奥で、影が渦を巻くように集まり、ゆっくりと形を作り始める。
丸く、あるいは伸びるように。
定まらない形が波立ち、もがくように揺れる。
リヴは耳を押さえ、苦しそうに顔をゆがめた。
「……また……いた……い……
ちかい……
すごく……
さがしてる……
ここ……の……におい……
“ここ”……に……ある……」
「におい……?」
直輝は聞き返す。
リヴは息を震わせながら説明した。
「……ただの……においじゃない……
むこう……の……こわれる……におい……
すきま……に……ちかい……
あつまってる……
このへや……の……どこか……
むこうから……“ひらけそう”……って……
さがして……る……」
その説明は曖昧だが、直輝の中で一つの結論に変わり始めていた。
(境界の“穴”を探してる……
突破口を探して……
触れる場所を探ってる……)
その時だった。
——ぴたり。
渦の回転が止まった。
生き物が耳を立て、獲物を探すみたいな静止。
黒い中心が、こちらへ向いた気がした。
「……ナオキ……」
リヴが掠れた声で言った。
「……いま……
“こっち”……むいた……
さがしてる……
なにか……
におい……ちかくて……
よってきてる……」
「俺たち……か?」
「……わからない……
でも……
わたし……に……つよい……
ナオキ……にも……すこし……
でも……
わたし……のほう……
よわいにおい……
さがしてる……
“とどくもの”……」
リヴは胸を押さえ、
「……これ……
なにか……えらんでる……
さわれる……もの……」
“触れる対象を探している”という意味にしか聞こえない。
直輝は深く息を吸い、彼女の肩を抱き寄せた。
「……怖いか?」
「……うん……
こわい……
でも……
ナオキ……いる……
だから……
にげない……」
その瞬間、画面が——
——ゴッ と、低い振動を立てて沈んだ。
声にならない音。
耳ではなく、胸の奥で響くような揺れだった。
画面の奥で、黒がひときわ濃く集まり——
そこから、細く、長い影が一本、にじり出ようとしていた。
「……っ!
ナオキ……!
いま……
て……!
かたち……つくってる……!」
形はまだ曖昧だ。
だが指のような、枝のような影が、画面の内側をゆっくり撫でた。
ガラス越しに“ぺたり”と押し当てられている。
「触ってる……」
直輝は息を呑んだ。
「……もう……
さわれる……すぐ……
きょう……じゃない……
でも……
あした……」
リヴは震えながら言う。
「……あした……
ここ……
さわれる……
わたし……か……
ナオキ……
どっちか……」
テレビの奥で黒が沈んでいく。
昼の光がまだ残っているはずなのに、
六畳だけがゆっくり暗くなり始めていた。
リヴは直輝の袖を掴んだまま、震える指を強く重ねる。
「……ナオキ……
いま……おく……で……
“ひらくところ”……きめた……」
「どこだ……? テレビの裏か?」
リヴは目を閉じ、耳を伏せて、小さく頷いた。
「……うん……
そこ……いちばん……うすい……
そこ……“やぶる”……
むこう……きめた……」
黒い陰が、まるで呼吸するように画面の奥で脈打つ。
押す力を覚えた生き物が、出口を前にして息を潜めている動き。
“準備が整った”。
直輝は喉をならす。
「……来るのは、今日じゃないんだよな?」
リヴは胸を押さえながら、苦しそうに答えた。
「……うん……
きょう……は……まだ……
ちから……たりない……
でも……
あした……」
「明日……?」
リヴの声は震えながらも、はっきりしていた。
「……あした……
“ゆうがた”……
そこ……いちばん……ひらきやすい……
むこう……ねらってる……
ゆうがた……
ぜったい……くる……」
直輝は息を呑んだ。
(夕方……美咲さんが来る時間帯だ……)
逃げることもできない。
隠すこともできない。
境界はもう決まり、
時間まで指定された。
この六畳の“ここ”に、
明日の夕方——
向こう側の“何か”が触れようとする。
リヴが弱々しく袖を掴み、震えた声で言う。
「……ナオキ……
こわい……
でも……
ナオキ……そば……にいる……から……
いける……」
直輝はその手を握り返し、抱き寄せた。
「大丈夫だ。絶対に一人にはしない。
明日、何が来ても——必ず守る」
リヴは目を閉じ、小さく息を震わせた。
「……ナオキ……だいすき……」
「俺もだ」
それだけで僅かに肩の震えが治まった。
テレビの奥では、
黒い影が“決まった一点”をじっと見つめているようだった。
破れる場所は決まった。
破れる時間も決まった。
六畳の午後は、静かにその時を待ち始めていた。




