三人で作る秘密のサシェ
ドアが閉まっても、六畳の空気にはまだ人の熱が残っていた。
美咲が靴を揃えて上がり込んだ瞬間の気遣い、リヴが少し身をすくませていた緊張、直輝が慌ててスペースを空けたときの気まずい笑い──すべてがまだ部屋に浮いている。
リヴは玄関の方に向けていた背をそっと戻し、胸の前で指を重ねる。
緊張と嬉しさのあいだを、細い息が行き来しているようだった。
美咲は軽く伸びをし、肩を回すように一つ深呼吸した。
「さて。せっかくだし、このままサシェ作ろうか。材料そろってたよね?」
声は軽いのに、どこか真剣で。
本当に作る気で来ましたよ、という空気が混ざっている。
その声を受けて、リヴの耳がぴくりと動いた。
「……サシェ、つくる。ミサキ、いっしょ、する……?」
「もちろん。一緒にやろうよ。リヴちゃん、初作品でしょ?」
言われた途端、リヴの頬がゆるんでいく。
普段は控えめな彼女の表情が、少しだけ誇らしげに見えた。
直輝はその二人のやり取りを見ながら、押し入れを見た。
(ミシン……あれ、出すしかないよな)
胸の奥に小さな照れがうっすらと灯る。
ショーツ制作の時の記憶がじんわり浮かぶ。
ミシンのグリップの感触や、リヴの真剣な目、完成品を見せたときの照れた笑い。それらがぼんやり胸をかすめた。
「直輝くん、ミシン出すの手伝おうか?」
「いえ、大丈夫ですよ。すぐ出せます」
言ったものの、押し入れの奥でコードが絡まった箱はなかなか出てこず、直輝は「……あれ?」と声にならない困り顔をした。
美咲はすべて見ていた。
「絶対雑にしまったでしょ、それ」
「あー……まあ、ちょっとだけ」
「ちょっとじゃなかったよ。完全に押し込んだって顔してたよ」
「ナオキ……がんばって……」
リヴの励ましが柔らかいのに、妙に胸に刺さり、直輝は苦笑した。
だがその空気が、三人の距離を始まる前からゆっくり近づけていく。
ミシンをテーブルに置き、小物入れから糸や針を取り出すと、六畳の部屋が段々「作業場」に形を変え始めた。
リヴは目を輝かせながらあたりを見渡し、机の上の一つひとつを確認していく。
香草の束を大事に抱えていたその手元には、緊張よりも期待のほうが強く見えた。
美咲は机の端に置かれていた霧吹きを見つけ、キャップを外す。
「アイロンは無いんだよね? 大丈夫。霧吹きで湿らせて手で伸ばそう」
布に降りかかる細かい霧が柔らかい膜のように広がり、美咲の手がその上をゆっくり滑る。
布の皺がひとつずつ消えていくのを、リヴは吸い込まれたように見つめていた。
「……ミサキ、て……うごき、きれい。すごい」
「慣れてるだけ。でも、こうやると縫いやすくなるよ」
美咲は飾らない声で言いながら、指先をしなやかに動かしていく。
その自然体の手際に、リヴは息まで止めてしまいそうなほど集中し、耳先が熱を帯びていく。
直輝はそれを横目に見ながら、胸の奥でそっと思う。
(美咲さん……やっぱ上手いな。こういうとき頼れる人だ)
ミシンを配置し、椅子を三つ並べた瞬間、六畳の部屋は完全に「三人のアトリエ」になった。
狭いのに不思議と窮屈さがなく、逆にちょうどいい距離感を作ってくれる。
「準備できたね。さ、リヴちゃん。いよいよだよ」
「……うん。ナオキと、ミサキと……つくる」
呼吸を整えるように深く吸い込み、胸の前で指をそっと重ねる。
耳が赤く染まり、そのままわずかに揺れた。
(なんか……この感じ、すごくいいな)
直輝の心の奥に、穏やかであたたかい波が広がる。
三人で作業を始める前の、静かで柔らかい時間が、六畳いっぱいに広がっていた。
ミシンの前に座ったリヴは、背筋をぴんと伸ばした。
椅子の高さを何度か調整して、足元に置いたペダルにそっと足を添える。
緊張が指先に出ているのか、手がほんの少し震えていた。
直輝は横から優しく声をかけた。
「リヴ、大丈夫か? そんなに緊張しなくていいよ」
「……うん。でも、はじめて……だから。まちがえたら……」
「間違えてもいいんだよ。俺なんてしょっちゅうだよ」
「ほんと?」
「ほんと」
リヴはほっとしたように小さく呼吸を吐いた。
その動きを見て、美咲が背後から椅子を少し引いて座り、柔らかい声で言った。
「じゃあ、リヴちゃん。まずここからだよ。縫う幅は、この線に沿って。焦らないで」
「……うん、ミサキ」
美咲はリヴの背後に手を添える。
触れないぎりぎりの距離で、気配だけが伝わる。
「糸はここを通って……こっち。そうそう。すぐできたね」
「ミサキ、おしえるの……じょうず……」
「ふふ。ありがとう。じゃあ、ちょっとだけ縫ってみよっか」
リヴは深呼吸し、そっとペダルを踏む。
布と針が触れ合う小さな音が、六畳に広がった。
カタ……カタ……
まだぎこちないが、手元は真剣だった。
美咲の言葉を一つも逃したくない、そんな眼差しが布の上にまっすぐ落ちている。
「リヴちゃん、ちょっと速度落として……そう。すごく上手」
「……ほんとう?」
「ほんとうに上手。最初はもっとガタガタするものだよ。直輝くんとか」
「いや、なんで俺を例に出すんですか……」
美咲の軽口がふっと空気を柔らかくした。
リヴは緊張の中に小さな笑みを浮かべ、針の動きに集中を戻す。
だが次の瞬間──
針が小さく跳ねた。
「あっ……」
「ここ、少し曲がったね。でも、大丈夫大丈夫」
美咲はすぐに前へ出て、リヴの手をそっと押しやる。
慌てず、急がず。動きの一つひとつに無駄がない。
糸を少し解き、布を平らに整えると、美咲は指先を添えた。
「ほら、こうやって少しだけ返し縫いして……なじませるの。ここ。見てて」
リヴは息を呑んだまま、真剣に見つめていた。
瞳がきらきらしていた。
憧れをそのまま形にしたような光。
「……ミサキ、すごい。ほんとうに……すごい……」
声が震えていた。
泣きそうというより、胸がいっぱいになっている時の震えだった。
美咲は少し照れたように笑い、リヴの頭を軽く指先で撫でる仕草をした。
「泣くほどのことじゃないよ。でも……そんなふうに言ってもらえるの、嬉しいな」
「うん……ミサキ、あったかい……」
直輝は二人のやり取りを見て、胸の奥がほわっと温かくなるのを感じた。
だが、同時にほんの少しだけざわつく。
(……なんていうか、いいんだけど……近いな)
リヴは美咲にぴったり寄って座っていた。
肩が触れ合いそうなほどで、その横顔は完全に信頼しきっていて。
それが悪い感情ではないのに、胸が少しそわそわする。
美咲は直輝の視線にすぐ気づく。
気づいて、目だけで笑う。
「直輝くん、顔に出てるよ?」
「いや、出てないはずですよ」
「出てるよ。かわいいよ、それ」
「かわ……いや、その……」
否定しきれず、言葉が途切れてしまう。
リヴはミシンから顔を上げて、首をかしげる。
「ナオキ、かお……どうした……? いたい……?」
「痛くはないよ。ただの……気のせいだよ」
「……ほんとう?」
「ほんとう」
リヴはじっと直輝の顔を見つめたあと、安心したように小さく笑って、またミシンへ向き直った。
その笑顔が、妙に胸に刺さる。
(……リヴ、楽しそうだな)
そう心の中でつぶやいた瞬間、リヴは布をもう一度ゆっくり送り始めた。
最初よりずっと安定している。
褒められた場所を活かそうと、丁寧に丁寧に手を進めていた。
「すごいよリヴちゃん。ほんと成長早いね。直輝くんより早いんじゃない?」
「美咲さん、そこで俺を比較に使う必要……」
「だって比較対象が分かりやすいから」
美咲は笑いながら、リヴの背中をそっと押す。
「ね、リヴちゃん。直輝くんほんとに優しいけど……こういう細かい作業はね……」
「ミサキ、ナオキ、やさしい……」
「そうそう。でも、縫い方は私のほうが上手いから」
その言い方が自然で、暖かかった。
リヴはリヴで、まるで胸の奥が少しずつ芽吹くように表情を明るくしていく。
「ミサキ、すき……。ナオキも……すき……」
「はいはい、俺も嬉しいよ」
「直輝くん、顔またゆるんでる」
「だから言わなくていいですって……」
三人で笑った。
ミシンの軽い振動がその笑い声に混ざり、六畳の部屋に一定のリズムを作っていた。
そのリズムは、作業というより、三人の生活が混ざる音のようだった
縫い目が整い、美咲の指先が布の端をきゅっと押さえたところで、ミシンの音が一旦止まった。
静けさが戻ると、リヴは小さく息を吐き、緊張の余り固くなっていた肩をそっと下ろした。
「がんばったね、リヴちゃん。とても綺麗だよ」
「……ミサキ、ありがと。ナオキも……みてくれる……?」
「もちろん。ほんと上手だよ。最初からここまでできるのすごいよ」
褒められた瞬間、リヴの耳がふにっと上を向き、喜びを隠しきれないみたいに揺れた。
美咲は机に広げていた香草の束を手に取り、茎の部分をそっと割いて、細かくちぎり始めた。
破けた断面から、淡く甘い香りがふっと立ちのぼる。
「これ……ほんと不思議。地球のハーブじゃないよね。もっと……こう、深い香りがする」
「むこうでは……ふつう。森の、いいところ……に、はえてる」
「ふーん……すごいなあ」
美咲は香草の色を観察しながら、指先をそっと撫でる。
リヴはその横で、香草の扱い方を真剣に見つめ、同じように指を動かしてみせた。
「リヴちゃん、そんなに強く混ぜなくていいよ。香りが開きすぎちゃうからね」
「ひらく……?」
「香りが一気に強くなるってこと。少しずつ混ぜたほうがバランスいいよ」
「……ミサキ、すごい。なんでも……しってる」
「なんでもは知らないよ。でも、人に教えるのは好きかも」
美咲の言葉に、リヴはほっと笑った。
ほんの数週間前まで、地球の生活の基本ですらおぼつかなかった少女が、いまここで、香草を混ぜる手つきに“自信”の影を少しだけ乗せている。
直輝はその小さな変化を見逃さなかった。
(……成長したな。ほんとに)
香草のかけらが皿の上で擦れる、小さな音が続く。
六畳に広がる甘さは、どこか深い森を思わせる匂いだった。
「ねえ……」
美咲がふと思い出したように声を落とす。
「二人って、どうやって出会ったの?」
動きが止まった。
リヴは肩をびくっと震わせ、香草を持っていた指が小さく揺れた。
「ミサキ……それ……」
「ん? 聞いちゃまずかった?」
「いや……まずいとかじゃないんですけど……説明がちょっと」
「直輝くんが照れてる」
「いや……照れてません」
「照れてるよ」
「……否定しにくいです」
美咲がにやりと笑う。
その横で、リヴはゆっくり指を重ね、勇気を集めるように目を伏せた。
「ナオキ……たすけてくれた。わたし……森で、ひとりで……ケガして……いた。こわくて……どうすれば……わからなくて……」
言葉が途切れた。
息が震え、喉の奥がかすかに詰まる。
思い出すだけで胸が苦しくなるような、そんな声だった。
「でも……ナオキが、みつけてくれて。てあてして……まってて……くれた」
リヴは胸の前できゅっと指を結び、そっと俯いた。
耳の先まで赤い。
その赤さには、恐怖の記憶ではなく、今の安心が混ざっている。
美咲はふざけるのを一度やめ、真っ直ぐうなずく。
「……そっか。怖かったんだね。でも、直輝くんがいてくれたんだ」
「うん……。ナオキ、すごく……やさしかった。いまでも……たいせつ……」
その「たいせつ」という一言が、静かに六畳に落ちた。
小さな音なのに、真っ直ぐすぎて胸の奥がじんとした。
直輝は少し目を伏せ、小さな息を吐く。
「リヴが頑張ってるから……俺も助けられてますよ。ほんとに」
美咲が目を細め、軽く笑う。
「直輝くん、そういうところだよ。そりゃ懐かれるよ」
「そうですかね……」
「そうだよ。だから名前も自然に呼べるんじゃない?」
促され、リヴは直輝を見上げた。
緊張で指が少し動き、その後で、ぽつりと声がこぼれた。
「……ナオキ」
いつもよりずっと自然な発音だった。
直輝は驚き、胸の奥が少し跳ねた。
「すごい……きれいに言えてるよ、リヴ」
「ほんとう……?」
「ほんとう」
美咲もうれしそうに口元をゆるめる。
「前よりずっと上手。がんばってたんだね」
リヴはこくりと頷いてから、美咲へと向き直り──
「ミサキ……おしえてくれて……ありがと」
その声音が、あまりに自然だった。
美咲は少し驚いて、それから目尻を下げるように笑った。
「どういたしまして。ちゃんと伝わって嬉しいよ」
(……なんか複雑だな)
直輝は胸の中にふわっとしたざわめきを感じた。
美咲への感謝も嬉しい。
けれど、それが自然に言えてしまうリヴの成長が、なぜかくすぐったい。
「直輝くん、また変な顔してる」
「してないですよ」
「してるよ。わかりやすいって」
「ミサキ……ナオキ……もじもじ……?」
「もじもじじゃないよ……」
三人の声が少し重なり、甘い香草の匂いに混じって、笑い声が柔らかく六畳を包む。
香草の調合が落ち着き、縫い上がった布の端が揃うと、三人は自然とテーブルの中央へ集まった。
完成に向けての最後の工程──袋へ香草を詰める作業だ。
リヴは皿の上の香草を両手ですくい、そっと布の袋へ落とす。
動きは慎重で、息まで静かだった。
まるで大事な贈り物を扱っているように、ぎこちなくも丁寧に指を動かす。
「リヴちゃん、そのくらいでいいよ。入れすぎると形が崩れるから」
「……はい。ミサキ」
「あとね、口をぎゅっと縛る前に、内側を少し整えると綺麗に見えるよ」
「ここ……? このへん……?」
「そうそう。上手だよ」
褒められた瞬間、リヴの耳がもう一段階ふわっと立ち上がった。
その変化が自然すぎて、美咲は思わずほほえむ。
一つ、また一つ。
香草の量を調整し、紐を通して布の口を締める。
結び目を作る手つきはまだぎこちないが、努力がそのまま形になっていく。
「できた……? ナオキ、みて……これ……」
リヴは直輝の方へ小さく差し出した。
差し出した手が、少し震えている。
「うん。すごく上手だよ。形も綺麗だし、丁寧に作ってるのが分かる」
「……ほんとう?」
「ほんとう」
直輝が素直に言うと、リヴは胸の前で指を重ね、息をほっと落とした。
その小さな仕草が、胸の奥を柔らかく撫でてくる。
「よし。三つできたね」
美咲がテーブルに並べると──
三つのサシェは見事に形も香りも違った。布の色、縫い目の雰囲気、詰められた香草の分量……
でも、その違いこそが三人で作った証のように見えた。
「これ、絶対売れるよ」
美咲は本気の声で言った。
冗談が一つも混ざっていない。
その声に、直輝とリヴは自然と美咲へ視線を向けた。
「ミサキ、ほんとうに……?」
「本当だよ。だって香りがまずすごくいい。市販のと全然違う。落ち着くっていうか……なんか、気がゆるむ感じがする」
美咲はひとつ手に取って、深く息を吸った。
「……ねえ直輝くん。これってさ、何が入ってるの?」
「香草と……あと、向こうの魔素の残り香が少しだけ混ざってるんです」
「魔素……って、魔法ぽいの?」
「はい。でも害はないですよ。ただ、向こうの世界の……空気みたいなものです」
美咲は驚いたように目を見開き、それから何度もうなずいた。
「そりゃ落ち着くわけだ。……ほんと、この三つ。すごいよ」
リヴはその言葉を聞き、胸の前にそっと手を当てた。
耳がやわらかく揺れた後、ゆっくり微笑む。
「ミサキ……ありがと。ナオキ……つくれて……うれしい」
「うん。よく頑張ったよ」
「すごいよ、リヴちゃん」
褒められるたびに、リヴは照れたように体を縮める。
でも、目だけは嬉しそうに輝いていた。
「……ああ、直輝くん。嫉妬してる?」
「してませんよ」
「してるね。顔に出てる」
「リヴ、ナオキ……へんなかお……?」
「言わなくていいんだよ、リヴ……」
笑いが漏れた。
その笑い声が、甘い香草の匂いに混ざり、六畳の空気をふんわり広げていく。
やがて、外の暗さが濃くなり始めたころ。
美咲はバッグを肩にかけ、三つのサシェを見渡した。
「ねえ直輝くん。ほんとにこれ、もっと作るつもりなら……いずれ作業場いるよ?」
唐突な声だったが、全く軽くない。
現実味のある、未来を見据えた声。
「六畳は限界くるよ。ミシンも増やすならスペースも必要だし。作り続けるなら考えたほうがいい」
「……たしかに。そうですね」
直輝は素直に頷いた。
その横で、リヴはサシェを胸に抱きしめ、耳をゆっくり動かす。
「ミサキ……ナオキ……つぎ……もっと、つくる……」
その声には、迷いがなかった。
大きな声ではないのに、芯があった。
美咲はその言葉に気づき、にっこり笑う。
「よし。将来の工房、期待してるよ」
靴を履きながら、美咲はドアの前で振り返る。
「二人とも。今日はほんとにありがとう。また一緒に作ろうね」
「はい。美咲さんこそ、ありがとうございました」
「ミサキ、また……いっしょ……つくる……?」
「もちろん」
ドアが静かに閉まり、足音が遠ざかっていく。
部屋に静けさが戻った。
けれど、さっきまでの温度がそのまま残っている。
リヴはサシェを抱えたまま、直輝に寄り添うように近づいた。
「ナオキ……きょう……たのしかった」
「俺もだよ。すごくいい時間だったな」
「……うん。これ……もっと、つくる。ナオキと……ミサキと……」
リヴは胸の前で指をそっと重ね、決意を閉じ込めるように小さな呼吸をした。
六畳の空気が、ほんのり甘い香りを帯びて、静かに揺れた。
その揺れの中に、三人で始めた小さな“ものづくり”の続きが、確かに芽生えていた。




