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32型テレビが繋g...(略)~手取り15万、現代物資(10秒制限)で成り上がる~  作者: ひろボ


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初めて回転寿司

 日曜の朝は、静けさが少しだけ長く残っていた。

 窓の外から入ってくる柔らかい光が、六畳の空気をなだらかに照らしている。


 ナオキは布団から身を起こし、枕元を見下ろした。リヴはまだ眠っている。細い寝息が、部屋の隅に小さく溜まっていた。

 昨夜までの疲れが薄く残っているせいか、いつもより動きはゆっくりになる。


 そのまま少しして、リヴも静かに目を開けた。寝起きの瞳が曇っていて、光を追うように瞬きをする。

 その仕草に、ナオキは息だけで笑う。


「おはよう、リヴ」


「……おはよう。きょう、やすみ?」


「うん。美咲さんから連絡きてさ。三人で出かけようって」


 リヴは一瞬だけ目を丸くして、すぐに小さくうなずいた。

 期待が滲む。けれど、その期待の端に、別のものも混ざっている。


 外で食事をする——それは、楽しいと同じくらい、怖い。

 写真のあるメニューなら大丈夫でも、「口で頼む」場面になると、言葉が喉で引っかかる。聞き返された瞬間に頭が真っ白になるのが、自分でも分かる。周りの視線が、余計に胸をきゅっとさせる。


「おそとで たべるの……すこし、むずかしい」


「まあ、そうだな。でも今日は回転寿司らしい。写真もあるし、タッチパネルもあるって。無理しなくていい」


 リヴは胸の前で指をそっと触れ合わせ、短く息を吐いた。

 不安の奥に、ほんの少しの楽しみが混ざっている。その混ざり方が、ナオキの胸まで柔らかくする。


「……きょう、できること。ひとつ、したい」


「できること?」


「……じぶんで。ことば、つかう」


 言い終わったあと、リヴは少しだけ目を伏せた。

 たぶん、言った瞬間が一番怖いのだ。


「いいね。じゃあ今日は、リヴが『一言』言えたら勝ちだな」


「……ひとこと」


「うん。ひとことでいい」


 リヴは小さく、でも確かにうなずいた。


 


 午前十一時過ぎ、美咲が車で迎えに来た。

 助手席の窓が開き、美咲が顔をのぞかせる。


「おはよー。二人とも元気?」


「おう。まあまあ」


「リヴちゃんは?」


「だいじょうぶ。おそと、すこし……どきどき」


「大丈夫大丈夫。今日は回転寿司だから。写真もいっぱいあるし、タッチパネルもあるし、わたしたちがついてるし」


 明るい声に押されて、リヴの表情が少しほどけた。

 三人で車に乗り込み、街道沿いの店へ向かう。日曜の昼が近いせいか道路はゆるやかに混み、車内はそのぶん落ち着いていた。


 美咲が最近の仕事の話をして、ナオキが相槌を返す。

 リヴは窓の外を見たり、二人の声を追ったりしながら、言葉の流れを拾おうとする。


(きのうより、はなし……すこし、わかる)


 胸の奥に、そんな手応えが灯る。

 半年。積もったのは単語だけじゃない。耳の慣れ方も、息の整え方も。

 自分でそれを感じ取れたことが、小さな自信になる。


 回転寿司の看板が見えた頃、リヴは背筋を少しだけ正した。

 ナオキが気づいて振り返る。


「緊張してる?」


「すこし。でも……たのしみも、ある」


「なら十分だよ。ゆっくり行こう」


 


 駐車場は昼前なのに車が多かった。

 入口を抜けると、ひんやりした空調の風が頬を撫で、リヴの肩から力が少し抜けた。


 店内は明るい。家族連れの声、皿が滑る音、スタッフの案内。雑多な音が混ざり合う。

 以前なら音の塊に飲まれていた。けれど今は、その中に「区切り」を見つけられる。


「三名様ですね。テーブル席どうぞ」


 スタッフの声が耳に入った瞬間、リヴは小さく目を見開いた。

 ——分かった。聞き取れた。

 その感覚が、胸の奥でぱっと弾ける。


 美咲がそれに気づいて、くすりと笑った。


「今の、分かった?」


「……うん。ことば、はやいけど……わかる」


「えらい! すごいねぇ」


 褒められたリヴは、指をそっと重ねて視線を落とす。

 ナオキはその横顔を見ながら、席へ向かった。


 席に着くと、ベルトコンベアの滑る音がすぐそばで響いていた。

 色とりどりの皿が、ひとつ、またひとつと流れていく。


「……うごいてる」


「回ってるだけだよ」と美咲が笑う。


「わかってる……けど、へん。でも……おもしろい」


 リヴは前のめりになって皿の流れを眺めた。

 流れていくのが、ただの食べ物じゃなくて「次に来る未知」みたいに見える。


 ナオキが取った皿の上で、薄い橙色の切り身が白い皿に静かに光っていた。


「これ……なま、だよね?」


 リヴが指先で示したのはサーモンだった。

 ナオキはうなずく。


「生。新鮮だから、こうやって食べる」


「なまの……さかなを……たべるの?」


 声は小さいのに、驚きは隠しきれない。

 リヴの世界では魚は焼くか煮るものだった。火を通さない魚は、“危ない”と同じ意味だった。


「みんな、たべてる……?」


「ほら、周りも食べてるだろ」


 美咲も笑いながら言う。


「日本じゃ普通だし、ほんとにおいしいよ」


 リヴは周りを見渡し、またサーモンに視線を戻した。

 迷うように息を吸って、それから小さく頷く。


「……すこし。ひとくち……たべてみる」


「どうぞ」


 ナオキが箸で取り、小皿にそっと乗せる。

 リヴは慎重に口に運び、ゆっくり噛みしめた。


 ——そして、目がふっと大きくなる。


「……うまい……?」


 戸惑いと、まっすぐな驚き。

 美咲が思わず笑って机を軽く叩く。


「でしょ! それ、強いよね!」


 リヴはサーモンを見つめたまま、ぽつりと言った。


「なま……なのに……うまい。へんなのに……すごい」


 その“へん”が本音で、その“すごい”が全部の感想だった。

 ナオキは息を吐いて笑う。


「気に入ったなら、もっと食べていいよ」


「たべる。これ……すき」


 リヴは次の皿を真剣な目で狙い始めた。

 サーモン、炙りサーモン、白身、ハマチ。見えるもの全部が知らない世界で、知らないのに怖くない。


 タッチパネルが画面を切り替える音が鳴る。

 リヴはじっと画面を見つめた。


「これ……ことば、いっぱい」


「写真もあるし、ゆっくりで大丈夫」と美咲が言う。


 リヴは一つひとつ、指先で確かめるように押す。

 写真が大きく映り、「あぶり」の文字が目に入った。


「……あぶり……?」


「ちょっと焼いてあるやつ」


「なるほど」


 そう言って頷いた直後だった。

 別の場所を押したつもりが、指がすべって画面が反応した。


 明るい音。


「ご注文を受け付けました」


 画面に映ったのは——うどん。しかも大きい。


「……なんか……ちがうの、でた」


 リヴが画面と自分の指先を何度も見比べ、完全に固まる。

 ナオキは吹き出し、美咲はテーブルに突っ伏しそうになって笑った。


「あるある! あるあるだよ!」


「まあ、そういうこともあるさ」


「うどん……たべる?」


「誰が?」


「ナオキ」


「結局おれか」


 笑っているうちに、店員がうどんを運んできた。

 リヴはまだ動揺したまま、それでもきちんと頭を下げる。


「ありがとう……ございます」


 店員は柔らかく微笑み、戻っていった。

 その背中を見送りながら、美咲が囁く。


「今の、ちゃんと言えてたよ」


「……つたわった?」


「ばっちり」


 リヴは胸に手を当てた。

 恥ずかしさの中に、確かな“できた”が混ざっている。


(ことば……すこし。わたし、できる)


 


 しばらくして、皿の山が少し育ったころ。

 ナオキがメニューの端のボタンを指さした。


「お持ち帰り、ここで頼めるよ。家でも食べられる」


「……おみやげ?」


「うん。好きなの選んで、箱に入れてもらう」


 リヴは少し考え、それから小さく言った。


「わたし……やってみたい。ことば、つかう」


 その瞬間、胸の奥がきゅっと締まるのが分かった。

 さっきの「ありがとう」は、向こうが出してくれた球を返しただけ。

 でも、今度は自分から声をかける。そこが一番怖い。


 ナオキが頷く。


「いいよ。呼ぶ? それとも、通ったときに?」


 リヴは深く息を吸い、近くを歩くスタッフを目で追った。

 喉が乾く。指先が少し冷たい。

 それでも——やってみたい気持ちの方が、ほんの少しだけ勝っている。


 スタッフが近くを通った瞬間、リヴはそっと手を上げた。


「すみません……」


 声は震えた。けれど、消えなかった。

 スタッフがすぐにこちらを向き、にこやかに歩み寄る。


「はい、どうされましたか?」


 リヴは一度だけナオキを見た。

 支えるようにうなずく目がある。


 リヴは小さく息を整えた。


「これ……おみやげ。つくれますか?」


 ゆっくりと、丁寧に。

 持っている日本語を一つずつ、机の上に置くみたいに。


 スタッフは優しく笑った。


「はい、できますよ。どのお寿司を入れますか?」


「……これと……これ。あと……これも」


 好きになった皿を指で示す。指先はまだ少し震えている。

 スタッフは確認しながらメモを取り、頷いた。


「はい、大丈夫です。少しお時間くださいね」


「ありがとうございます」


 返した瞬間、リヴの肩がふっと落ちた。

 緊張が抜けたのだと分かる。


 美咲が身を乗り出す。


「リヴちゃん、今の、最高だった。自分で言ったじゃん」


「こわかった……でも、できた」


 泣きそうな笑顔で、リヴは胸の前で手を重ねた。

 ナオキも、隠さず言う。


「すごいよ。ちゃんと通じたし、ちゃんと相手を見て言えた」


「……うん。すこしずつ。ゆっくり」


「その“ゆっくり”が強いんだよ」と美咲が笑う。


 ほどなくして、箱詰めした寿司が戻ってきた。

 リヴは両手で受け取り、深く頭を下げる。


「ありがとう……ございます」


「こちらこそ、ありがとうございました」


 スタッフが去っていく背中を見て、リヴは箱を抱きしめるように膝へ置いた。

 それはただの寿司じゃなくて、今日の成果そのものに見えた。


 


 会計を済ませ、三人で店を出た。

 外の光が少しまぶしい。駐車場の空気は冷たく、リヴの頬が少しだけ引き締まる。


 車の中で、リヴは箱を膝の上に乗せたまま、そっと眺めた。


「……ふしぎ。なまの さかな、こんなに……おいしい」


「最初はびっくりするよな」とナオキが笑う。


「うん。たべたこと、なかった。でも……すき。すごく」


 美咲が振り返って言う。


「今度は貝とかも挑戦してみよ。絶対楽しいよ」


「たのしい……うん。きょう……たのしかった」


 その言葉は、今日の全部をまとめるみたいに自然だった。

 間違えたことも、震えたことも、ちゃんと通じたことも——全部ひっくるめて、温かい。


 家に着くと、リヴは箱を抱えたまま部屋へ入った。

 テーブルに置き、ふたに手をかける。


「じゃあ開けてみるか」とナオキ。


「……うん」


 ふたが上がると、彩りがそこに並んでいた。店で見たのと同じ、でも自分が選んだ色。


「おお、いいじゃん。きれいだ」


「わたし、えらんだ。これ……すき」


「サーモン多めだな」


 美咲が笑い、ナオキもつられて笑った。

 リヴも、その笑いに引っぱられるように口元をゆるめる。


 それから、リヴは胸に手を当てた。

 今日の感覚が、まだそこに残っている。


「……すこしだけ。じしん、できた」


 小さな声。でも、はっきりした言葉だった。


 ナオキは頷いた。


「うん。今日のリヴ、ちゃんと前に出てた」


 リヴは寿司をひとつ摘み上げ、宝物みたいに見つめる。


「きょうの……おいしかった。はじめて。なま……なのに」


「また行こうな。次は、リヴがもう一言増やせたら勝ち」


「……もうひとこと」


「そう。『お願いします』でもいい」


 リヴは少し考えて、それから小さく笑った。


「……やってみる」


 日曜の午後はゆっくり流れ、寿司の香りが部屋に広がる。

 リヴの中では、今日の“できた”が、まだ温かいまま消えなかった。

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