手伝いたい朝と、少し先の気持ち
朝の光がカーテンの隙間から静かに入り、六畳の空気を少しずつ温めていた。
ナオキが目を覚ますと、台所のほうで控えめな水音が聞こえた。
「……おはよう、ナオキ」
振り返ると、湯気の立つ急須の前にリヴが立っていた。
前よりも迷いのない目つきで、両手をそっとカップに添えている。
「おはよう。早いな」
「きょう……おきゃくさん、くるって……おもって……。おちゃ……すこしだけ、あつくしたほうが……いいかなって……」
「へえ。もう分かるようになったんだな」
リヴは少し照れたように肩をすくめた。
「きのう……ナオキが、おきゃくさん……体、さむそうって……言ってたから……。だから……あったかいほうが……いいかなって……」
「覚えてたんだ。すごいな。俺より気が利いてるかも」
「そんな……。ちがう……。わたし……まだ、いっぱい……まちがう……」
「間違えていいんだよ。こうやって考えられるのがすごいって話」
ナオキがカップを受け取ると、少し濃い目の香りがふんわり広がった。
リヴは小さく息をつき、ほっとしたように微笑んだ。
「……よかった……。におい……ちゃんと、した……」
「ありがとな。美味しいよ」
その言葉を聞いたリヴの耳が、ほんの少し赤く染まった。
「ナオキ。きょう……わたし……もうすこし……がんばってみる」
「がんばるって?」
「……ことば。おきゃくさんが……来たとき……ちゃんと……いえるように」
「うん。リヴなら大丈夫だよ」
リヴは胸の前で指先を軽く揺らしながら、真剣にうなずいた。
「うん……。やってみる……」
小さなその声に、ナオキは静かに笑った。
彼女の日本語は、確かにゆっくり上達している。
単語を迷ったり、言い換えたりすることが増えたのは、語彙が広がっている証拠だ。
「よし。じゃあ今日は、お客さんの前に出る練習するか」
「れんしゅう……?」
「うん。俺が客のふりするから」
「……ナオキの……きゃくのまね……?」
「なんか変な言い方だな」
「へんなの……?」
「いや、かわいいけどさ」
こういうところがコミカルになる。
リヴは首を傾げたまま、けれど真剣に話を聞いていた。
「じゃあ、俺が扉の向こうから入ってくるから。挨拶言ってみ?」
「……うん。やる……」
ナオキは玄関に向かい、扉を軽く開けてすぐに戻る。
そして少しだけ間を置き、客の声を真似た。
「こんにちはー、予約した者ですが」
リヴは一瞬びくっと肩を揺らした。
だがすぐに息を吸い、小さな声で言葉を出した。
「……い、いらっしゃいませ……」
「いいじゃん。ちゃんと言えてるよ」
「ほんと……?」
「ほんと。声が聞こえたから、それだけで十分だよ」
リヴは胸に手を当て、そっと息を吐いた。
「……すこし……できた……」
「うん。その調子」
ナオキが笑うと、リヴもおそるおそる笑い返す。
その表情は、昨日よりも確かに自信があった。
「じゃあ実戦は、今日のお客さんで……かな」
「……だいじょうぶ……かな……」
「俺が横にいるから安心しろよ」
リヴは小さく「うん……」と返し、視線を落としながらも、口元だけは少し明るかった。
こうして、リヴの“声に出す練習”の朝はゆっくり動き出した。
午前の光が少しずつ強くなり、サロンの空気が落ち着いた温度に変わり始めた。
カーテンを閉じすぎないように調整しつつ、ナオキは施術台のタオルを整えていく。
リヴは掃除機をゆっくり動かしながら、たまに日本語の口の形を確認していた。
「……いらっしゃいませ……いらっしゃいま……せ……」
練習しているつもりなのだろうが、小声すぎて吸い込まれていきそうだった。
「もうちょい声出していいんだぞ」
「う、うん……。でも……でない……」
「大丈夫。今日の客は穏やかな人だから」
「おだやか……?」
「やさしいって感じの人」
「やさしい……」
その言葉に、リヴの顔にほんの少し余裕が生まれた。
日本の言葉に触れ続けてきた半年で、彼女は音の柔らかさを聞き分けられるようになっている。
やがて、入り口のチャイムがやさしく鳴った。
「あ、来た」
リヴは身体を固くしたまま、胸の前で指をぎゅっと握りしめた。
「りょ、りょかい……」
「緊張しなくていいからな。俺も前に出るから」
「う、うん……」
ナオキが扉へ向かうと、見覚えのある常連の女性が小さく会釈した。
落ち着いた声で言う。
「こんにちは。予約の……えーっと、十一時の者です」
「どうぞ。お待ちしてました」
そのとき。
リヴが、ナオキのうしろからそっと顔を出した。
「……い、いらっしゃいませ……」
声は細い。
けれど、確かに聞こえた。
「あら、こんにちは。前にも会った……よね? あなた、ナオキさんの……」
リヴは、視線を落として一度指先を揺らし、それから意を決したように顔を上げた。
「り、リヴ……です……。きょう……おてつだい……すこし……します……」
女性は一瞬驚き、それから柔らかく笑った。
「すごい。前よりずっと日本語が……上手ですね」
「え……」
リヴが固まった。
「ほんとうに。前は挨拶だけだったけど、今日はちゃんと説明してくれた。すごいですよ」
「すごい……?」
「うん。がんばってるんだなってすぐ分かった」
リヴのまつ毛がふるえ、胸のあたりをそっと押さえるようにさわった。
「……がんばって……る……かな……?」
「うん。ちゃんと伝わってるよ」
優しい声は、緊張したリヴの胸にゆっくり染み込んでいくようだった。
「よかったですね、ナオキさん。こんなに成長して」
「そうなんですよ。毎日すごく努力してて」
「……ナオキ……」
名前を呼ぶ声が少しだけ震えていた。
恥ずかしさと嬉しさが入り混じった声だった。
「じゃあ、施術準備しますね。こちらへどうぞ」
ナオキが案内すると、お客さんはリヴに向けて軽く手を振った。
「またあとでね。ありがとう、リヴちゃん」
「……あ……ありがとう……ございます……」
最後の「ます」が少し上ずったが、声には確かな手応えがあった。
扉が閉まると、リヴはふっと息を吐き、その場にへたり込みそうになりながらナオキの袖をつまんだ。
「ナオキ……いま……わたし……ちゃんと……できた……?」
「できたよ。すごかった」
「……すごかった……?」
「うん。あれは完璧だよ」
リヴは両手で頬を押さえた。
「……なんか……ここ……あつい……」
「緊張したからな。でもちゃんと伝わってたよ」
「ほんとうに……?」
「うん。相手が笑ってただろ? あれは“伝わってる”証拠」
リヴは胸のあたりをつかむようにして、ゆっくりとうなずいた。
「……よかった……。ほんとうに……よかった……」
声が震えていた。
ただの日本語の成功ではない。
これは“自分の言葉が相手に届いた”という、小さくて大きな経験だった。
「ナオキ……わたし……もうすこし……できるように……なる……」
「うん。なれるよ。その調子だ」
リヴは指先で胸元をさわりながら、小さく、しかし確かに笑った。
「……うれしい……」
その笑顔は、今日いちばん明るかった。
施術が終わり、午前の客が帰っていくと、サロンは一度静かになった。
リヴは受付前の机を拭きながら、先ほどの言葉を思い返していた。
「……じょうず……って……いわれた……」
自分に言われたとはまだ実感がないようで、胸のあたりを何度も触っている。
「リヴ。午後は美咲さんだからな」
「みさき……?」
「うん。前に少し会ってるだろ? ナオキくんの味方って言ってた」
「あ……やさしいひと……」
「そう。その人がもうすぐ来る」
リヴは少しだけ緊張し、そして深呼吸した。
「ナオキ……いまの……みたいに……できる……かな……」
「できるさ。美咲さんは話すの上手いし、リヴのこと気にしてくれてるから」
リヴは胸に手を当て、小さな声でつぶやいた。
「……だいじょうぶ……だいじょうぶ……」
そのとき、外のドアベルが軽い音を立てた。
「こんにちはー、予約の美咲でーす」
明るい声は、少しだけ部屋の空気を上向きに変える。
リヴは一度固まり、それから勇気を出し、受付台の横にそっと立った。
そして、意を決したように顔を上げる。
「……い、いらっしゃいませ……」
美咲が軽く目を見開いた。
「リヴちゃん? ……え、すごい、前よりずっと自然じゃん」
「え……」
「声が出てるし、ちゃんと言えてるよ」
美咲は口元をふわっと緩め、全く構えない自然な褒め方をした。
それがリヴには一番効く。
「……じ、じつは……きょう……すこし……がんばって……て……」
「うん、伝わってる。だって、今の挨拶だけで分かるよ」
リヴは照れたように、胸の前で指をもじもじさせた。
「……がんばった……の……わかった……?」
「分かるよ。ナオキくんのところの子は、いつも真っすぐだもん」
「まっすぐ……?」
「そう。努力が顔に出るタイプ」
リヴは聞き慣れない褒め方に戸惑い、ナオキのほうを見た。
「ナオキ……いまの……よかった……?」
「うん。すごく良かったよ」
「……ほんとうに……? へんなとこ……なかった……?」
「全然。美咲さんが驚いてただろ? あれは“良い意味での驚き”だよ」
美咲が笑いながら口を挟む。
「そうそう。可愛いし、がんばってるのが分かるし、好感度めっちゃ高いよ」
「こうかんど……?」
「人気ってこと」
「にんき……?」
「人に好かれるやつね」
リヴの耳が少し赤くなった。
「……わ、わたし……にんき……?」
「あるある。少なくとも私は好き」
「……す、すき……?」
「うん。話しやすいし、素直だし」
リヴは一瞬固まったあと、胸にぎゅっと手を重ねた。
「……よかった……。すき……って……いわれた……」
「素直に喜ぶとこも可愛いなあ」
「ナオキ……」
「うん?」
「……いま……うれしい……」
「良かったよ。ちゃんと伝わってる証拠だな」
美咲はナオキのほうにも視線を向けた。
「ねえナオキくん。リヴちゃん、すごいよ。ここ数ヶ月でこんなに話せるようになるって、相当努力してるよ」
「知ってます。毎日がんばってますから」
「あなたも、ちゃんと支えてるんだね」
「まあ……できることだけですけど」
リヴはそれを聞いて、また目を潤ませてしまった。
「ナオキ……」
「どうした?」
「……なんか……いっぱい……ほめられて……どうしたら……いい……」
「そのままでいいよ」
「そのまま……?」
「うん。今のリヴで十分だよ」
リヴは胸の前で指をぎゅっと握り、ほっとしたように微笑んだ。
「……よかった……」
美咲はリヴの肩を優しく軽く叩いた。
「今日のリヴちゃん、めっちゃいいよ。ほんとに」
「……ありがとう……ございます……」
まっすぐに返したその言葉は、今までで一番“会話”らしい形になっていた。
美咲の施術が終わる頃、サロンにはやわらかい午後の光が差し込んでいた。
施術を終えてベッドから起き上がった美咲は、肩の力が抜けたような顔でゆっくり伸びをした。
「はあ……やっぱりナオキくん、うまいね。なんか気持ちが明るくなる」
「ありがとうございます」
ナオキが静かに頭を下げると、リヴはその横でそっとお茶を差し出した。
手が少し震えているのに、こぼさないように慎重に持ってきている。
「……どうぞ……」
「ありがとう、リヴちゃん。え、すごい。ちゃんと自然に出てるね、その言い方」
「え……い、いま……?」
「そう。前よりずっと落ち着いてる。会話になってる」
「かいわ……」
「うん。ちゃんと“伝わる日本語”になってるよ」
リヴは驚いたようにナオキを見て、そして胸に手を置いた。
「……ほんとう……?」
「本当だよ。聞いてて安心するくらいだ」
美咲は湯飲みを手にしながら、少しだけ表情を和らげた。
「ねえリヴちゃん。前に会ったときより、言葉がしっかり届いてるの。自信つけていいよ」
「じしん……」
「そう。今日のリヴちゃんは、すごく良かった」
その言葉が、静かに胸の奥へ染みるようだった。
リヴはぎゅっと目を閉じて、それからそっと開く。
「……うれしい……」
「うん。その“うれしい”もちゃんと伝わってるよ」
美咲は笑いながら立ち上がり、カバンを肩にかけた。
「じゃあまた来るね。次も楽しみにしてる」
「……はい……また……きてください……」
「うん。ありがとうね、リヴちゃん」
美咲がドアを出ていき、ベルの音が静かな室内へ消えた。
そのあと、リヴは入口のほうを見つめたまま、しばらく動かなかった。
胸のあたりをそっと押さえ、言葉を探すように息を吸う。
「……ナオキ……」
「ん?」
「……ちゃんと……つたわった……?」
「伝わってたよ。美咲さんの反応を見れば分かるだろ?」
「……わたし……しゃべれた……?」
「しゃべれてた。会話になってたし、気持ちも届いてた」
リヴの目がゆっくり揺れ、そして小さな震えを含んだ声が落ちた。
「……よかった……」
その言い方は、安堵がゆっくりほどけていくような響きだった。
「リヴ」
「……うん……」
「今日のリヴは、すごく頑張ってたよ。ちゃんと見てた」
リヴは胸の奥に指を当てたまま、また少し目を潤ませてしまう。
「……がんばった……の……わかった……?」
「分かったよ。全部」
「……ナオキ……」
「うん」
「……きょう……いっぱい……ほめられた……」
「そうだな」
「……なんか……へんなきもち……」
「へん?」
「ううん……へんじゃない……。むねが……あったかい……」
「それはいいことだよ」
リヴは深く息を吸って、ゆっくり吐いた。
「ナオキ……きょうね……すこし……わかった……」
「何が?」
「ことば……って……こわいけど……でも……つたわると……すごく……うれしい……」
「うん。リヴの言葉、ちゃんと届いてたよ」
「……ほんとうに……?」
「ほんとだよ」
リヴは両手を胸の前でそっと重ねて、まるでその“嬉しさ”を手で包んでいるようだった。
「ナオキ……つぎも……がんばる……」
「焦らなくていい。今日みたいに、一歩ずつでな」
「……うん……いっぽ……ずつ……」
六畳のサロンには、ゆっくりとした満足の空気が流れていた。
外の光は夕方に向かって傾き始めている。
その光に照らされたリヴの横顔は、昨日よりも少しだけ大人びて見えた。
「ナオキ……」
「ん?」
「きょう……すこし……じぶんのこえ……すき……って……おもえた……」
その言葉は、今日一日の中でいちばん深く響いた。
「……それは、すごくいいな」
「うん……」
小さな自信が芽を出して、その芽が風に折れないように、そっと育てていく。
そんな穏やかな未来の輪郭が、静かな六畳に静かに広がっていった。




