売り切れと、次の一歩
朝の光が、六畳の畳をゆっくりと滑っていった。カーテンの隙間から差し込む細い帯が、まだ目覚めきらない空気をやわらかく照らしている。昨日の“初めての発送”の余韻が残っているのか、ナオキの胸の奥には、静かだが確かな温度があった。
布団から体を起こすと、台所でほんの小さな音がした。コトリ、と陶器が触れるような音。
――リヴだ。
そう思って目を細めながら立ち上がる。
「おはよう」
声をかけると、リヴは驚いたように肩を揺らし、すぐに気まずそうに笑った。
「……おはよう……おちゃ……いれる……?」
髪の先が少し跳ねている。寝起きだ。エプロンを結んだまま、湯気の立つカップを両手で持っている姿が、今朝の静かな空気によく似合っていた。
「飲むよ。ありがとう」
温かいお茶をすすると、体にすっと熱が通っていく。夜勤明けの疲れがまだ残っているはずなのに、昨日の達成感がそれを上から薄く塗り替えてくれているみたいだった。
視線の先には、昨日の夜に準備した箱がひとつ置いてある。白い箱。中にはヴェルンの手織り布が丁寧に収められていた。初めて売れた一枚。見ているだけで胸が少し温かくなる。
「ナオキ……きょう……あれ……また、する……?」
「発送? いや、今日は何もないはず――」
そう言いかけた瞬間、机の上のスマホが小さく震えた。
なんとなく胸騒ぎがして、画面を開く。
そして、息を止めた。
「リヴ」
「ん……?」
「……売れた」
言葉が自分の喉から出ていくのが遅い。画面に表示された数字が、現実に追いつかない。
「え……?」
「二枚。いや……二枚同時に」
リヴの目がまるくなり、そのまま固まった。ぱち、ぱち、と瞬きをしてから、ようやく小さな声が漏れた。
「……ふ、ふたつ……? いっしょ……に……?」
「そう。同じ人がまとめて買ったんだと思う」
リヴは胸の前に手を置き、息を吸うのも忘れたみたいに口を開けている。
「すごい……すごい……でも……どうしよう……?」
「どうしようって……梱包して、発送するだけだよ」
「いっしょ……する……?」
「もちろん」
その瞬間、リヴの顔に灯った小さな光は、昨日とは違う種類のものだった。昨日は“初めてできた嬉しさ”。今日は“続いた嬉しさ”と、“小さな責任”が混ざった光。
六畳がほんの少し広く見える。
静かに、忙しくなりはじめた朝だった。
「じゃあ……準備しようか」
「うん……!」
リヴは箱の近くにしゃがみ込み、そっと蓋を開けた。昨日の夜、丁寧に畳んだ布が並んでいる。朝の光が糸の表面に反射して、模様が静かに揺れた。
「……きれい……」
「だろ?」
「なんか……あったかい……」
「布に触る時、いつもそう言うよな」
「うん……むこうの布……すき……」
リヴは指先でそっと布の端を触れ、そのまま胸元に引き寄せる。異世界で布仕事を手伝っていた時の癖が自然に出ている。やわらかい手つきだった。
「よし。ぷちぷち出すか」
「ぷちぷち……!」
リヴがぱあっと顔を明るくした。昨日、量販店の棚いっぱいの緩衝材を前にテンションが上がっていた時と同じ顔だ。
「……ナオキ。きょうは……なんこまで、つぶしていい……?」
「ゼロ個です」
「え……?」
「仕事道具だから」
「……ひとつだけ……」
「気持ちは分かるけど我慢」
「……がんばる……」
そんな控えめなやり取りでさえ、六畳を少し楽しくしてくれる。
ナオキは丁寧に緩衝材を切り、箱の底に敷く。リヴは布を持ち上げ、両手で大事そうに畳み直す。
「この布は……うすいから……こう……?」
「うん、いい感じ。角もそろってる」
「よかった……」
リヴの表情は真剣だった。布に触れるとき、まるで心のどこかが整っていくような気配がある。
香り袋を添えると、ラベンダーの香りがふっと部屋に落ちた。
「……いいにおい……」
「昨日も同じ香りだよ」
「でも……きょう……ちがう……」
「気分が違うんだろうな」
リヴは静かにうなずいた。
「ナオキ……これ……ほんとうに……とどく……?」
「届くよ。昨日のも順調に動いてる」
「おきゃくさん……ひらいたら……なんて言うかな……」
「それは……俺も気になるな」
「……すきって……おもってくれたら……」
「思うよ。あれだけ綺麗な布だし」
リヴは胸の前で手を組み、小さく息を吸った。
「……なんか……むねが……あったかい……」
「それは良いことだ」
穏やかな会話の最中、またスマホが震えた。
「……ん?」
「……いまの……なに……?」
「SNS。昨日の写真が、ちょっとだけ広がってる」
「ひろがる……?」
「いいねが増えてるってこと」
「すごい……にほん……すごい……」
「いや、日本がすごいわけじゃない」
「え……?」
「布と、写真と……あと、リヴが頑張ってるのが伝わってる」
「……ナオキ……そういうこと……かんたんに言う……」
「本当のことだから」
リヴが視線を伏せて、小さく笑った。
「……それ……よわい……」
「ん?」
「そういうの……言われると……」
そこまで言って、リヴは言葉を飲み込むみたいに唇を閉じた。頬がほんの少し赤い。
ナオキは苦笑して、話を作業に戻した。
「さて。ひとつ目、封しようか」
「うん……」
二人の指先が同じ箱に触れ、テープが静かに音を立てた。
ひとつ目を封したところで、リヴがそっと膝の上に手を置いて小さく息をついた。緊張と嬉しさが同時に押し寄せたせいか、肩が少し上がっている。
「もうひとつ……する……?」
「ああ。やっちゃおう」
「うん……がんばる……」
二つ目の布を手に取る指先は、昨日よりわずかに落ち着いている。
「これ……こないだ……むこうで、しごとしたときの布に……にてる……」
「似てるのか?」
「うん……糸のよこが……すこし太くて……さわると……しゃらって……なるやつ……」
「しゃら……?」
「うまく……いえない……」
「音がしそうってことか」
「うん……」
作業は昨日より早かった。呼吸が合ってきた証拠だ。
封を終えた瞬間、ナオキはスマホで販売ページを確認して――動きを止めた。
「……あ」
「……なに……?」
画面の表示が、ひどく短い。
『SOLD OUT』
リヴが意味を理解するまで、数秒かかった。
「……そーるど……あうと……?」
「……売り切れって意味だ」
リヴの目が見開かれる。
「……うりきれ……? もう……ない……?」
「在庫がゼロ。全部出た」
嬉しさが胸に広がるのと同時に、別の現実が一緒に押し寄せた。
――次、どうする?
リヴは箱を見下ろし、そしてナオキを見る。嬉しいのに、どこか不安そうに眉が寄っている。
「……うれしい……でも……」
「分かる。次の布がない」
「……むこう……いく……?」
その言葉が、もう“逃げたい”じゃなく、“進みたい”から出ているのが分かった。
「明日、行こう。ヴェルンで仕入れの相談をする」
「……しれ……?」
「布を、ちゃんと“買う”ってこと。続けるなら、そこからだ」
リヴは胸の前で小さく手を握った。
「……つづける……」
「続けよう。急がずに。まずは今日、発送」
「うん……!」
夕方まで少し休憩して、二人は箱を抱えて外に出た。
ひんやりした風が頬に触れる。街路樹が揺れ、遠くから生活の音が薄く聞こえる。
「ナオキ……おと……いっぱい……」
「夕方はこんなもんだよ。日本の街は生活の音が多い」
「むこうの工房……もっと……しずか……」
「そうだったな。夕方は特に静かだった」
その“静けさ”と“にぎやかさ”の違いが、二つの世界の距離をまた少し意識させた。けれど、不思議と嫌じゃない。
郵便局が近づくにつれ、リヴの歩幅が小さくなる。箱を抱える腕に力が入っている。
「リヴ。大丈夫だからな」
「……うん……ナオキ……そばに……いる……?」
「もちろん。離れない」
自動ドアが開き、明るい照明と、わずかに暖房の匂いが二人を包んだ。
「……ひと……いっぱい……」
「並ぶだけだよ」
列に並ぶ間、リヴは箱の位置を何度も直し、窓口の声が聞こえるたびに身をこわばらせた。それでも逃げずに前を向いている。
「次のお客様、どうぞ」
その声にリヴの肩がびくっと跳ねたが、一緒に窓口へ進む。
「発送お願いします」
係員が伝票を受け取り、淡々と作業を進めていく。リヴは箱が流れていくのを、まるで目で追いかけて引き戻そうとするみたいに見つめていた。
受け取られた瞬間――リヴの呼吸が大きく動いた。
「……いった……?」
「ああ。あとは向こうに任せるだけ」
「ほんとうに……?」
「うん。ちゃんと届く」
リヴの顔が、ふわっと解けるように柔らかくなる。
「……よかった……」
外に出たとき、リヴは胸の前で両手を重ねて深く息を吸った。
「……おわった……」
「終わったな」
「なんか……すごく……ほっとする……」
「頑張ったからだよ」
「がんばった……?」
「うん。立派に」
リヴの頬が少し赤くなり、小さく笑った。
「ナオキ……なんか……すごく……たのしい……」
「楽しい?」
「うん……こわいの……あるけど……たのしい……」
「それなら良かった」
夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていた。リヴの横顔がどこか金色に染まり、胸の奥に小さな自信が芽を出しているように見えた。
「帰ったら……また……しゃしん……えらぶ……?」
「そうだな。次に出す分、整理しよう」
「うん……ナオキと……いっしょに……」
「任せた」
アパートへ戻る頃には、空は群青に近づいていた。商店街の灯りがぽつぽつと灯り、今日一日で見た景色が胸の奥にゆっくり積み重なっていく。
鍵を開けて部屋に入ると、六畳の空気がほのかにやわらかい香りを含んでいた。布と香り袋の匂いが、静かに残っている。
リヴは部屋の中央にそっと座り込み、箱が置いてあった場所を見つめた。そこにはもう何もないのに、その空白がどこか誇らしげだった。
「……あの布……ほんとうに……とどくんだね……」
「うん。二、三日あれば届く」
「おきゃくさん……ひらいたとき……なんて言うかな……」
「気に入ってくれると思う。写真を見て選んでくれたんだから」
「……そうだと……いい……」
リヴは胸の前で両手を重ね、そっと息を吸った。目に浮かんでいるのは、布を織っていた職人たちの姿なのだろう。誰かが知らない場所で、その手仕事を受け取ってくれる。想像しただけで胸が熱くなるのが伝わってきた。
「リヴ。今日のは……ほんとに一歩だよ」
「……いっぽ……?」
「うん。小さいけど確かな一歩。大事なのは、焦らず“続ける”こと」
「つづける……」
「明日、向こうへ行こう。売り切れたから、次の布をちゃんと“仕入れる”」
リヴのまつ毛が小さく震えた。
「……むこうのひと……びっくり……する……?」
「するだろうな。日本で売れてるって知ったら」
「……よろこぶ……かな……」
「喜ぶよ。……そのためにも、ちゃんと話して、ちゃんと買おう」
リヴは、胸の奥を確かめるように手を当てた。
「ナオキ……」
「ん?」
「……ありがとう……」
「何が?」
「ぜんぶ……いっしょに……してくれて……。こわいことも……あったけど……ナオキが……いたから……できた……」
素直な言葉が、胸の奥に静かに響いた。
「俺も、一緒で助かったよ」
「え……?」
「リヴがいてくれたから、俺も踏み出せた。ひとりだったら、売り切れなんて怖くて喜べなかったと思う」
リヴは一瞬言葉を失って、すぐに小さく笑った。
「……それ……やっぱり……よわい……」
「また言う」
「ほんとう……」
照れ隠しみたいに視線を逸らしながら、リヴは湯を沸かし直してお茶を並べた。湯気の立つ香りが六畳を満たして、今日の疲れをゆっくりほどいていく。
ナオキはスマホで販売ページをもう一度見た。
『SOLD OUT』
短い文字が、今日という一日をきれいにまとめてしまうみたいで、少しだけ可笑しい。
(売れた。……だから、次だ)
売れたことはゴールじゃない。始まりだ。
そして――その始まりの次に、やるべきことがある。
「リヴ。明日は準備してから行こう。向こうでの交渉は、勢いじゃなく手順でやる」
「……てじゅん……」
「うん。安全第一。急がない。焦らない。……でも、ちゃんと前に進む」
「……うん……」
お茶を飲み終える頃には、外は夜の色を深めていた。窓から入る風が穏やかに揺れている。
灯りを落とし、布団を整える。
薄い光だけが残る部屋の中で、リヴがそっと声を落とした。
「ナオキ……きょう……ほんとうに……すてきだった……」
「俺もだよ」
「……うりきれ……うれしかった……」
「うん。嬉しかった」
「でも……あした……」
「明日がある。次の一歩だ」
ふたりの呼吸がゆっくり重なり、今日の“初めて”と“売り切れ”が、静かな眠りの中へ沈んでいった。




