雨の夜に溶けていくもの
雨が降り始めたのは夕方だった。帰り道の舗道に落ちた雫がじわりと広がり、家々の屋根に淡い音を積み重ねていった。夜になる頃にはすっかり本降りになり、六畳の部屋は窓越しの雨に囲まれて静かに沈んだ。
ナオキは机に向かい、今日の帳簿を見返しながらペンを走らせていた。たいした売り上げではない。それでも数字を書き写すことで、自分の生活の足場がどこにあるのか確かめられるような気がした。
ペン先が紙をかすかに擦る音と、雨の音が混ざる。
その背中はいつもより少し疲れて見えた。
リヴはソファに膝を抱えて座り、窓の外の雨に目を向けていた。暗い雲の下で揺れる街灯の光を眺めていると、胸の奥に小さな波が広がっていく。
「……ナオキ。雨、好き?」
ふいに声を出してしまったのは、静けさの中にひとつ何かを落としたかったからかもしれない。
ナオキは手を止めず、顔だけをゆっくりとリヴへ向けた。
「雨か……嫌いじゃないな。落ち着くし、音が静かでいい」
「そうなんだ……」
リヴは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。その声の柔らかさだったり、呼吸の仕方だったり、小さなことが胸の奥を動かしていく。
「さっきからね、ナオキ、すごく静かだったから……寂しいのかなって思ったの」
「そんなことないよ。リヴがいるしな」
その返事は自然で、まっすぐで、飾りがなかった。
胸の奥がじんわりと甘く揺れる。
(……ナオキって、こんなふうに言うんだよ……反則だよ……)
そんなふうに思わずにはいられなかった。
リヴはそっと立ち上がり、ナオキの隣へ近づいて腰を下ろした。少し距離を詰めるだけで、部屋の空気が変わった気がした。
「ねえ、ナオキ。……少し聞きたいことがあるんだけど」
「うん。なんでもいいよ」
「昨日じゃないけど……ちょっと前……泣いてたの、覚えてる?」
ナオキはペンを置いた。その動きはゆっくりで、言葉を選ぶようだった。
「……覚えてるよ。あのときのリヴ、胸がぎゅっとしてた」
「うん……すごく苦しかったの。ナオキ、夢であんなに追われて……怒鳴られて……ひとりで逃げてて……」
リヴは胸元を押さえた。あの夜の光景が、はっきり蘇る。
寝ているナオキの呼吸が乱れ、眉間に皺が寄り、手が布団をつかむように動いていた。夢の中で何かに追われているのが、誰の目にも明らかだった。
「心臓がすごく速くなってて……触ったら熱くて……声も出てて。怖かったよ……」
言葉が震えた。
ナオキが目を開けたあとも、心臓はしばらく落ち着かなかった。
「リヴ。あれは……お前が悪いんじゃないよ」
ナオキは静かに言った。
「知らなかったのは、俺が“見せなかった”からだよ。向こうで楽しそうにしてるリヴを見たくて……余計な不安を見せたくなかったんだ」
「……でも、ナオキが大変だったの、わたし……知らなかった」
「知らなくてよかったんだよ」
「よくないよ」
リヴは強く首を振った。涙が滲みはじめていた。
「わたし、ナオキの隣にいるのに……見えてなかったの、嫌だよ」
雨の音が強くなった。窓にぶつかる雫が弾ける。
ナオキは少し姿勢を変え、ゆっくりとリヴの手に触れた。指先は温かくて、ほんの少し力が入っていた。
「……ありがとう。そう言ってくれて。
でも……俺は、一人で大丈夫だって思い込んでたんだ。慣れてたからな」
「慣れてほしくないよ……」
リヴが呟いたその言葉は小さかったが、とても真剣だった。
「ナオキ。……雨の夜って、ひとりだと寂しい?」
「そうだな……正直、寂しいよ」
静かで、嘘のない声。
雨音が落ちてきて、胸の奥がしんとした。
「でも、もうそんなに寂しくないんだ」
「なんで……?」
「今はリヴがいるからだよ」
リヴは息を飲んだ。胸の奥があふれそうになって、思わず顔をそむける。
(なんでそんなこと……自然に言うの……)
(聞いたら……泣いちゃうよ……)
けれど目はそむけても、心の奥でははっきりと受け止めていた。
「……ナオキ」
「ん?」
「わたし……昨日、ひとりで考えたことがあるの」
「うん」
「ナオキの“ひとりだった時間”……全部抱きしめたいって。
そんな気持ちが出てきたの。なんでかわからないけど……」
リヴはナオキの手を包むように握りしめた。
「そばにいたかったんだと思う。あの夢で……ナオキが苦しそうなの、もう見たくないって思ったの」
ナオキは驚いたように目を開いたが、すぐにまっすぐな笑みに変わった。
「そんなふうに言ってくれるの、リヴだけだよ」
「言いたくなるんだよ……気づくと、言いたくなってるの……変かな」
「変じゃない。すごく嬉しいよ」
雨音は優しくなった。
部屋の中の静けさは、重くも冷たくもなく、ただ温かく包み込んでいた。
(このまま、ずっとそばにいたい)
(ナオキの寂しかった夜を、少しずつ埋めたい)
リヴはそう願いながら、そっとナオキの肩に頭を預けた。
「もうね……ナオキが寂しい夜は、ひとりで過ごさなくていいよ」
「ありがとう。そう言ってくれるだけで、心強いよ」
「うん……」
二人の呼吸が静かに重なり、夜の雨がゆっくりと流れていった。
雨は止む気配を見せなかった。窓を打つ水の粒が細かく揺れて、室内の空気をより静かにしていった。小さな六畳の部屋なのに、その静けさは広い場所のように感じられた。
リヴはナオキの肩に頭を寄せたまま、しばらく動かなかった。呼吸がかすかに触れ合うだけで、心の奥がゆっくり落ち着いていく。
「ナオキ……もう少し話してもいい?」
「もちろん。話したいことがあるなら聞くよ」
「うん……」
リヴはゆっくりと顔を上げ、ナオキを見た。
瞳の奥には迷いと、確かめたい思いと、伝えたい温度が混ざっていた。
「……夢の話を聞いたときね、わたし、変な気持ちになったの。
ナオキが、ひとりで知らない場所にいるみたいで……」
「そんなふうに見えた?」
「うん。暗いところで……誰もそばにいなくて……。
見てるだけなのに胸が痛くなった。たぶん、怖かったんだと思う」
ナオキは視線を落とし、少し息を吸い込んでから答えた。
「リヴにそんなふうに思わせたのは悪かったな。
……でも、俺も怖かったよ。夢の中で何をしても追いつかれそうで」
「うん……」
「けど、目が覚めたらお前がいて、安心したんだ」
その言葉はゆっくりと、リヴの胸の奥に届いた。
「ナオキ……わたしね、あの夜……泣いたんだよ」
雨音が一度、弱くなる。
ナオキは驚いたようにリヴを見た。
「泣いた……?」
「うん。ナオキが目を覚ましたあと、見えないようにしてたけど……こっそり泣いてた。
心がぎゅっとして、どうしようもなくて……涙が出たの。
ナオキに怖い思いをさせた夢なんだけど、わたしも怖かったんだよ」
「……気づかなかった」
「気づかれたくなかったんだよ……。ナオキが落ち着いてきたところだったし」
リヴは照れたように視線をそらした。
でも、その頬にはほんの少し赤みが差していた。
「泣いちゃった理由、はっきりしてるの?」
「うん……。ナオキが苦しそうだったから、怖くて……
そして……わたしの知らないところで、ひとりでずっと頑張ってきた人なんだって……改めて気づいて……」
そこまで言うと、リヴの声が少し震えた。
「わたし……もっと早く気づいてあげればよかった。もっと寄り添えばよかった」
「そんなことないよ」
ナオキは優しく言った。
「リヴは十分だよ。俺の方が勝手に隠してたんだから。
でも……気づいてくれたその気持ちはすごく嬉しい」
「本当に……?」
「本当だよ。俺はリヴに何かしてもらおうと思って一緒にいるんじゃない。
お前がいてくれるだけで支えになるから……だから、それで十分なんだ」
リヴは小さな息を吐いた。
それはホッとした音で、胸の奥を温かくする音だった。
「……ナオキ、わたしね、たぶん、もっと知りたいんだと思う」
「なにを?」
「ナオキのこと。ひとりで生きてきた時間のことも、辛かったことも、寂しかったことも……ぜんぶ、少しずつでいいから」
雨の音が静かに続いた。
「知ったら……寄り添えるから。わたし、それがしたいんだよ」
ナオキは少し驚いたように瞬きをし、それからゆっくり笑った。
「不思議だな。
リヴって時々……すごくまっすぐなこと言うよな」
「まっすぐって……変?」
「変じゃない。……嬉しいんだよ」
リヴは照れくさそうに頬に手を当てた。
「あのね、ナオキ。わたし……昨日からちょっと思ってることがあるの」
「うん。聞きたい」
「ナオキがひとりだった夜も……わたしが知らなかった夜も……
少しだけでもいいから、これから溶けていけばいいなって。
雨で流れるみたいに、消えていけばいいなって」
言葉は拙いけれど、そのままの気持ちが詰まっていた。
ナオキは頷き、そっとリヴの頭を撫でた。
「……ありがとう。そんなふうに思ってくれるのが、なんか……救われるよ。
俺も全部話せてるわけじゃないけど……ゆっくりでいいなら、少しずつ話していくよ」
「うん、ゆっくりでいいよ」
「急かすようなこと、されたくないだろ?」
「うん。でも……待つのは得意だよ。ナオキが話してくれるなら、いくらでも待てるよ」
その言葉があまりに自然で、ナオキの胸の奥がやわらかくほどけた。
静かな夜だった。
雨はまだ降っている。
けれど、さっきまでの寂しさや不安みたいなものは、もうこの部屋のどこにもなかった。
リヴがいて、隣で息をしているだけで、こんなにも違うものなんだとナオキは思った。
「リヴ」
「なに?」
「ありがとう、ほんとに……。今日、話してくれて」
「こちらこそ……聞いてくれてありがとう」
ふたりはそっと視線を合わせ、微笑んだ。
その笑みには、雨の夜に溶けていく孤独と、これから積み重ねていく静かな時間があった。
静けさに包まれた部屋の中で、ふたりはしばらく言葉を交わさずに座っていた。雨の音だけが続いている。その音が、まるで何かを洗い流すように優しく響いていた。
リヴは膝の上で両手を重ねたまま、ゆっくりと息をした。
その仕草ひとつが、心を整えようとしているのがわかる。
「ねえ、ナオキ」
「うん」
「ナオキは……わたしに強がってない?」
「強がってるところもあるかもな。でも、それは守ろうとしてるっていうより……お前に心配かけたくなかっただけなんだよ」
「心配するのは悪いことじゃないよ?」
「悪くはないけど……お前が不安になったり、悲しくなるのは嫌なんだよ。
でも……今日話してみて、ちゃんと向き合わなきゃいけないんだって思った」
リヴはうなずき、少し身体を前に傾けた。
「向き合ってくれるのは嬉しい。でも、ひとりじゃなくていいんだよ」
「ひとりじゃないって……思っていいのか?」
「うん。思ってほしい」
その一言には、揺るぎのない気持ちがあった。
ナオキは胸の奥がゆっくり熱くなるのを感じながら、言葉を探した。
リヴが隣にいる。それだけで息がしやすくなるような、不思議な安心があった。
「リヴには……救われてばっかりだな」
「救ってるつもりはないよ。わたしはただ……ナオキが辛そうだと、勝手に胸が痛むだけ」
「それが救いなんだよ」
リヴは小さく瞬きをした。
それから、ほんのすこし恥ずかしそうに視線を落とした。
「ナオキって……やさしいよね。わたしには、ずっとそう」
「自分では分からないけど……リヴがそう思ってくれるなら、それでいいかな」
「うん。そう思ってるよ」
雨音は少し弱まってきていた。
けれど、外の湿った空気が部屋にまで感じられるようで、ふたりは自然と距離を縮めたまま座っていた。
「……リヴ」
「なに?」
「昨日泣いたって言ったけど……どんな気持ちだったんだ?」
その問いに、リヴは一瞬だけ肩をすくめた。
泣いたという事実を話すのと、その理由を詳しく話すのでは重さが違う。
そのためらいが、表情にわずかに浮かんだ。
しばらくして、リヴはゆっくり口を開いた。
「ねえ、ナオキ」
「うん」
「……わたし、日本に来てからね、たしかに幸せだった。
毎日、食べるものがあって、眠る場所があって……ナオキがいて。
全部が新しくて、全部が嬉しかった」
「うん」
「でもね……ナオキの夢を見た日の夜……わたし、初めて怖くなったの。
ナオキの過去を何も知らないまま、ナオキのそばにいることが……
いつか、ナオキを苦しめるんじゃないかって思ったの」
その言葉は細くて、少し震えていて、けれど逃げない力があった。
「そんなことないよ、リヴが苦しめるなんて」
「でも……知らないって、こわいよ。
ナオキがなにを抱えてきたのか、どんな夜を過ごしてきたのか……。
知らないまま、そばにいるのは……すごく不安になるときがある」
リヴは胸元をそっと押さえた。
「昨日の夜ね、ナオキが苦しそうにしてて……それ見て、溢れてきたの。
わたし、何も知らないままじゃだめなんじゃないかって。
だから……泣いたの」
その告白は、小さな叫びのようだった。
ナオキは息を飲み、それからゆっくり言った。
「リヴ……そんなふうに思わせてたんだな。ごめん」
「謝らなくていいよ。悪いのはわたしのほうだよ。
知らないことに怖がって……勝手に泣いたんだから」
「勝手じゃないよ。
俺のために泣いてくれたんだろ?
それは……大事にしたい気持ちだよ」
リヴは驚いたように顔を上げた。
ナオキの目は優しくて、まっすぐで、逃げるところがない。
「俺も……全部の過去をすぐに話せるわけじゃないけどさ。
でも、話していいって思えたら……ちゃんと、お前に話すよ。
それでいいか?」
「うん……。ゆっくりでいい。
わたし、急かさないから。
ただ……そばにいたいだけ」
リヴの声は涙の名残のように柔らかく震えていた。
「リヴ」
「なに?」
「いつも……ありがとう」
その一言に、リヴはほんの少し肩の力を抜いた。
「うん。ナオキに言ってもらえると……なんだか安心する」
「安心していいよ」
「うん……」
ふたりは自然と身体を寄せ合った。
雨は弱まり、ベランダの向こうで風が少しだけ音を立てていた。
ナオキは胸の奥に、静かなぬくもりが広がるのを感じた。
(こんなふうに誰かと寄り添えるなんて、昔は考えられなかったな……)
その思いが、ゆっくり言葉に変わった。
「リヴ。
お前が隣にいてくれて良かったよ。
ほんとに……良かった」
「わたしも……同じだよ」
リヴが言うと、ふたりの間の空気が柔らかく揺れた。
それは、雨の夜に浮かぶ灯りみたいな静けさだった。
ふたりだけの、優しい時間だった。




