ゆっくり息を吸う朝のこと
カーテンの隙間から差し込む朝の光は細く、六畳の部屋に静かに広がっていった。
その光が布団の端を淡く照らし、壁に落ちた影を一段明るくする。
ナオキは目を開けてすぐに、胸の奥に残る微妙な重さを感じた。数日前に見たあの妙な夢の名残りだった。夜中にときどき目が覚める癖も、まだ少し続いている。しかし朝になれば起きられる程度には落ち着きつつあった。
(あの夢、ほんとにしんどかったな。なんで俺、夢の中でまであんなに追われてたんだか)
警察に囲まれ、裁判官に判決を言われ、金貨や薬草軟膏や魔石を持ち込んだ罪で捕まるという、どうにも理不尽な夢だった。夢の中の自分が右往左往し、逃げ、怒鳴られ、最後にはリヴにまで心配そうな顔をされていた光景が、まだ脳裏に残っている。
布団から半身を起こすと、キッチンのほうから静かな器の音がした。水道の蛇口が開閉される微かな音も聞こえる。
「ナオキ、起きたの?」
振り返ると、リヴがゆったりした部屋着のままキッチンからこちらを見ていた。以前より日本語はずっと滑らかで、ナオキと話すときにはもう迷いがほとんどない。朝の光が髪の毛を柔らかく照らし、瞳の奥まで穏やかに光を宿していた。
「うん。今起きた。リヴ、朝早かったね」
「今日は少し早く目が覚めたの。ナオキ、夜は眠れた?」
「眠れたよ。ありがとな。最近はだいぶ平気」
リヴは胸元にそっと手を当て、ほっとしたように表情をゆるめた。
「よかった。あの日は驚いたよ。夢の中で誰かに追われてるみたいに声が震えてたから」
「ほんとにごめん。俺は寝てただけなんだけど、夢の中の俺が勝手に走り回ってたみたいで」
「夢の中のナオキは忙しすぎるよ。こっちまで心臓が速くなったんだから」
リヴは小さく笑いながら、椅子を引いてナオキにも座るよう促した。
テーブルには味噌汁と焼き魚と少しの野菜が並んでいる。器の並べ方も盛り付けも静かで、その手つきがリヴの日常をつくっていた。
「ありがとう。こんな朝から用意してくれて」
「ううん。ナオキ、最近ちょっと疲れてるように見えたから。少しでも落ち着いてくれたらいいなって思って」
味噌汁をひと口飲むと、胃の奥がじんわりほどけるようなあたたかさが広がった。
(やっぱり、こういうのが現実だよな)
夢の騒がしさよりもずっと、こういう朝の方が確かな感覚を持っている。
リヴが箸を置き、そっとナオキを見つめた。
「ナオキ。数日前の夢、まだちょっと気になってるの?」
「気になってはないよ。ただ思い出すと、変な汗だけは出るけど」
「金貨の夢のこと?」
「金貨も、薬草軟膏も、魔石も。よくあそこまで揃ったと思うよな、夢とはいえ」
リヴは少し肩の力を抜き、息を静かに吐いた。
「現実じゃ売らないでしょ?金貨も薬草も。あれ全部、夢の中なんだから」
「もちろん。現実では絶対やらないよ。夢を見てから余計に思ったんだ」
「どんなふうに?」
「異世界のものを持ってきても、現代じゃ簡単にお金にならないってこと。夢の中であれだけ大騒ぎだったんだし、現実でやったらもっと大変なことになるよなって」
リヴは穏やかにうなずいた。
「そうだね。ヒビレアのものを日本でそのまま使うのは難しいよ。こっちにはこっちの決まりがあるんだから」
「うん。それに俺……たぶん、ちょっと急ぎすぎてたんだと思う」
「急ぎすぎてた?」
「なんとかしようって気持ちだけ焦ってて。できることを一つずつやればいいのに、自分の中で勝手に走ってたっていうか……そんな感じだよ」
リヴはしばらく黙って見つめた後、ゆっくり口を開いた。
「ナオキ……苦しい?」
「苦しいってほどじゃないよ。ただ、ちゃんとしたいって気持ちがあって。リヴのせいじゃなくて、俺自身の問題だよ」
そう言った瞬間、リヴがそっとナオキの手に触れた。
軽くて、でもしっかりとした温度だった。
「……ナオキ。全部わかるわけじゃないけどね」
リヴは少しだけ言葉を探すように視線を揺らした。
「わたしがここに暮らしてるのに、お金がいるのは分かってるよ。ナオキが大変なのも感じる。でも……それをひとりで抱えなくていいと思う」
ナオキは視線を落とした。
「リヴに負担をかけてるって思わせたくなくてさ」
リヴは首を横にふる。
「負担なんかじゃないよ。わたし、ナオキが嫌ならとっくに追い出されてるよ」
「そんなわけないだろ」
「でしょ?だから、お金のことだって隠さなくていいよ。わたしにもできることがあるし。ナオキだけが頑張ってるみたいに見えると、さびしくなるの」
リヴの声は、叱るでも慰めるでもなく、ただまっすぐだった。
ひとりきりで背負わせたくないという気配が、その声の隅々にあった。
そしてリヴは、朝の光を背にしながら静かに言った。
「……ねえ。わたし、ナオキと暮らすのが好きだよ」
ほんのり照れた声だったが、言葉はまっすぐ届いた。
「だから、仕事のことも生活のことも、ひとりで全部抱えないでね。ふたりで暮らしてるんだから、ふたりで考えるよ」
ナオキは思わず視線を上げた。
「ありがとう。……その言葉、たぶん今一番欲しかったよ」
リヴは湯呑みを持つ手をぎゅっと握り、小さくうなずいた。
「うん。それならよかった」
テーブルに置かれた湯気が揺れ、ふたりの間に漂う空気もやわらかく変わっていった。
その静けさは、過度な緊張をほどくように穏やかなものだった。
「わたしはね、ナオキといるこの時間が好きだよ。だから、お金のことがどうとか、夢で変なことになったとか、そういうのがあっても……わたしはここにいる」
リヴはそう言って、少し照れたように視線を落とした。
まっすぐな告白に近い言葉なのに、押しつけがましさはひとつもない。ただ、静かに寄り添おうとする意思だけが伝わってくる。
「……ありがとう。リヴにはいつも助けられてるよ」
「助けてもらってるのは、こっちも一緒だよ」
ふたりの間に落ちた沈黙は、重さのない穏やかなものだった。
朝の空気の中に湯気がゆっくりと伸び、食卓の上に柔らかい気配が流れていく。
(夢は夢だ。今の朝が現実だ。リヴがいて、味噌汁の匂いがあって、こうして一緒に息ができる)
そう思うと、胸の奥のざわつきが少しずつほどけていくようだった。
朝食を終えると、リヴは器を重ねて流しに運んだ。水音がふわりと響き、部屋の空気に溶けていく。
ナオキは椅子から立ち上がり、タオルを手に取った。
「洗い物、俺もやるよ」
「大丈夫。少しだけだから。ナオキは着替えしてきて。今日は買い物に行くんでしょ?」
「うん。食材も日用品も減ってるし、そろそろ買わないとね」
「じゃあ、あとで一緒に行こう」
淡い声なのに、そこにある安心がよく伝わってきた。
リヴはもう、この部屋の生活に自然に馴染んでいる。最初の頃は食器を洗いながら泡を不思議そうに眺めていたのに、今は小さな戸棚に静かに皿を戻し終えていた。
ナオキは着替えをすませて戻ってくると、リヴが小さなバッグを肩にかけたまま待っていてくれた。
「準備できた?」
「できたよ。行こうか」
玄関の扉を開けると、涼しい風が頬を撫でた。寝起きに感じていた胸の重さがその風でほんの少し軽くなる。
歩道に並んで歩き始めると、リヴが小さな声で言った。
「ナオキ、今日はゆっくりでいいからね」
「うん。ありがとう。リヴと一緒だと落ち着くよ」
「落ち着くならよかった。ずっと変な夢見てたから、今日は静かに過ごそう」
「そうするよ」
十五分歩く道の途中、公園から子どもの声が響いてきた。
リヴは立ち止まり、そちらへ小さく首を向ける。
「日本の子どもたち、元気なんだね」
「うん。こうして外に出ると安心するよな」
「わたし、この公園の匂い、好きだよ。草の匂いと、土の匂いと、笑ってる声が混じってて……全部ちゃんと生きてるって感じがする」
「リヴは嗅覚がするどいからな」
「うん。ヒビレアの匂いとは違うけど、日本の匂いも好き。ナオキと過ごす場所の匂いだから」
ナオキは思わず視線をそらした。
「……それはちょっと、照れるよ」
「照れなくていいよ」
ふたりはまた歩き始め、スーパーへ入った。
自動ドアが開くと、冷たい空気が体を包む。リヴはカゴを手に取り、自然とナオキの隣に立つ。
「まずは野菜?」
「うん。いつもどおり」
キャベツの値段を見て眉が寄ると、リヴが横から覗き込んで言った。
「高い?」
「高いな。節約できるところは節約したいかも」
「無理して買わなくてもいいよ。他の野菜でも平気だから」
「ありがとう。リヴ、ほんと助かるよ」
「助け合いだよ。わたしも暮らしてるんだから、できることはするよ」
ふたりでいくつかの野菜と調味料を選んでいく。
洗剤コーナーでは、リヴが棚の前で立ち止まった。
「ナオキ。この前の洗剤、香りがちょっと強かったよね? 別のにする?」
「そうだな。リヴが気になるなら変えよう。香り弱めのやつにしよう」
「うん。強すぎると頭が重くなるときもあるから」
「じゃあ、これにしよ。無香料の」
カゴの中で少しずつ増えていく品物は、ふたりの生活そのものだった。
選ぶものにも、互いを思いやる気配が自然に混じっていた。
(こういうのが現実なんだよな。金貨や魔石より、ずっと大事だ)
会計をすませ外へ出ると、リヴが少し肩の力を抜いた。
「たくさん買ったね。重くない?」
「大丈夫だよ。リヴは軽いほうを持って」
「ありがとう。ナオキ、歩きながら顔が少しやわらかくなったね」
「そう見える?」
「うん。安心してるみたい」
「……リヴと買い物してると、夢で残った変な焦りが落ち着くのかも」
「焦り?」
「夢の後遺症みたいなもんだよ。でも今は、大丈夫だよ」
リヴは歩幅を合わせながらそっと言った。
「ナオキが自分の歩く速さを取り戻せば、それでいいよ。早くても遅くても、わたしは横で歩くから」
「……リヴは強いな」
「強くないよ。でも、ナオキがひとりで苦しまないでほしいとは思うよ」
アパートが近づくころ、ナオキが静かに言った。
「リヴ。少しずつ働く準備をしようと思う」
「うん。でも急がないで。ゆっくり、ね?」
「わかってる。焦らないよ」
リヴは立ち止まり、まっすぐナオキを見た。
「ナオキは急がなくていいの。わたしはここにいるから。だから夢の中みたいに無理しなくていい」
「もう思わないよ。あんなの懲りた」
「よかった」
アパートに着き、扉を開けると、リヴが小さく言った。
「ナオキ。帰ってきたね」
「うん。ただいま」
「おかえり」
その声には確かな安心があった。
部屋に入ると、昼の光が穏やかに広がった。
買ってきた食材は袋の中でまだ冷たく、部屋の空気はいつもの静けさに戻ったところだった。
「ナオキ、冷蔵庫に入れるね」
「うん。俺は乾物を棚にしまうよ」
カサカサと袋を開ける音が部屋に響く。ふたりで作業するこの静かな時間が、いつもより少し心地いい。
買い物の最中も、帰り道も、リヴと話すうちに胸の中のざわつきがすっかり消えていた。
(夢で焦って、金貨だ薬だって追いかけられて……本当に変な夢だったな。でも、今は現実がここにある)
ナオキは乾麺を棚の奥にしまいながら、胸の奥でゆっくり息を吐いた。
「お水、飲む?」
リヴがそばに来て、冷たい水の入ったコップを差し出した。
「ありがとう。助かるよ」
水を飲むと、指先の冷たさが胸のあたりに静かに落ちていく。
リヴはナオキの顔を見て、少しだけためらいながら口を開いた。
「さっきの夢のことだけどね」
「うん」
「……ナオキ、本当に苦しかったんじゃない?」
リヴの視線は逃げずに、まっすぐこちらを見ていた。
心配の色が濃いわけではない。ただ、確かめたいという静かな意思があった。
「夢の中で金貨とか薬草とか魔石とか、いろんなもの抱えてたんでしょ? 現実じゃできないことなのに、夢の中のナオキは、それを全部持って逃げてて……」
「……確かにな。あんなに追われる夢は初めてだったよ」
「見てるだけでも苦しそうだったよ。寝てるのに息が速くて、涙が出そうだったもん」
「そんなふうに見えた?」
「うん。こわい場所にひとりで放り込まれてるみたいだった」
ナオキは視線を落とし、言葉を選んだ。
「……たぶん、自分でも気づかないうちに焦ってたのかもしれない。できないことを急いでやろうとして、ひとりで勝手に追い詰めてたんだろうな」
「言ってくれればよかったのに」
「言えるくらい整理できてなかったんだよ。夢の中で暴走した分、現実で余計にしんどかったのかもな」
リヴはゆっくりと近づき、そっとナオキの手首に触れた。
指先の温度が、まるで言葉のように伝わってくる。
「ナオキは、誰かを守りたいって気持ちが強いから、自分のことを後回しにしちゃうんだよ。でも……苦しくなるなら、ちゃんとわたしに言ってほしい。わからないことがあっても、ちゃんと聞くから」
その声は細くて柔らかいのに、芯がある。
ナオキは胸の奥がじんわりほどけていくのを感じながら頷いた。
「……ありがとう。心配かけてごめん。リヴと話すと楽になるよ」
「心配くらいするよ。大事な人なんだから」
不意に刺さるような優しいひと言だった。
ナオキは目を伏せ、それから照れたように笑った。
「そう言ってくれて、嬉しいよ」
「うん」
午後の光が部屋に揺れ、ふたりの影を柔らかく落としていく。
しばらくしてリヴが言葉を続けた。
「ナオキ。日本では金貨も魔石も使えないんでしょ?」
「うん。絶対に使わない。夢の中でも大ごとになったくらいだしな」
「じゃあ……無理なものに頼らなくていいよ。ナオキはちゃんと生きてるし、わたしたち今日もこうして買い物して、ご飯作って、眠って、起きてるでしょ?」
「そうだね」
「じゅうぶんだよ。わたしにはそれでじゅうぶん」
その言葉は強くないのに、ふしぎと胸に深く染みた。
(そうだよな……焦る必要なんてない。少しずつでいい)
「ありがとう。なんか、やっと落ち着いた気がするよ」
「よかった。じゃあね、今日はゆっくりしよう。洗濯物あとで回すね」
「俺も手伝うよ」
「ふたりでやろ」
リヴはそう言ってナオキの腕に軽く触れ、洗濯カゴを手に取った。
洗濯機の前に並び、二人で洗濯物を入れていく。
洗剤の量を量るとき、リヴの表情は真剣で、なんだか可愛らしい。
スイッチを押して洗濯機が回り出すと、リヴがそっと肩を寄せた。
「ナオキ。あの夢みたいに焦らなくていいんだよ。わたし、いつも横にいるから」
「いるよな。……ありがとう、リヴ」
「どういたしまして」
ほんの短いやり取りなのに、心がすっと静かに整っていく。
リビングへ戻り、ふたりでソファに座った。
寄りかかるでも、手をつなぐでもない。
ただ、ほんの少し近くにいて、同じ呼吸をしているだけ。
それだけで十分だった。
窓の外の光がソファに落ちて、午後の空気を淡く照らしていた。
洗濯機の回る音がゆっくりと部屋を満たしていく。
「ねえ、ナオキ」
「ん?」
「今日みたいな日でいいよ。無理しなくていい。わたし、ここにいるから」
「……うん。わかってる」
ナオキは深く息を吸った。胸の奥にゆっくりと安定した温度が戻ってくる。
(大丈夫だ。焦らなくていい。現実にはリヴがいる)
「夕方になったら、ご飯作ろうね」
リヴが柔らかい声で言った。
「うん。一緒に作ろう」
そのやり取りだけで、胸の奥にあった不安や焦りはすべて溶けた。
窓の外で木の葉が揺れ、小さな影がゆらゆらと部屋に映る。
ふたりの時間は、静かに、確かに、前へ動いていた。
夢に追われていた夜は遠ざかり、
今、六畳の部屋には
落ち着いた現実と、そばにいる人の温もりが
静かに満ちていた。




