夜のテーブルで交わる心
昼と夕方のあいだの光が少し傾き始めたころ、アパートの廊下に小さな足音が混じり、呼び鈴が控えめに鳴った。短い音だったのに、部屋の空気がひと息で変わる。
窓のそばにいたリヴが、帽子のつばをゆっくり持ち上げた。マスクの内側で息が揺れ、目の奥がかすかに緊張で震える。
(この時間に来るなら、美咲先輩だよな)
ナオキは玄関へ向かいながら胸の奥でそう思い、扉を開けた。そこに立っていたのは、予想通りの人物だった。
「二人に会いたかったから、こっちから来たよ」
「すみません」
「まあいいけど」
美咲は靴を脱ぎ、そっと室内へ視線を送った。
壁際に溶け込むように隠れていたリヴが、気配に押されるように一歩だけ前へ出た。胸の前で指をそろえ、小さく息を整えてから頭を下げる。日本語はまだたどたどしいのに、その声はまっすぐだった。
「……ミサキ。ひさしぶり。きょう……きてくれて、ありがとう」
美咲は一瞬、瞬きを忘れた。
声の意味だけじゃない。
その“日本語として届いてくる形”に、胸の奥がほんの少し震えた。
「……リヴちゃん……すごいね」
「ひさしぶり、だけじゃなくて……日本語で……こんなに……」
言葉が続かず、美咲はゆっくり笑った。
驚きと喜びが混ざって、表情が自然に緩む。
「会えて嬉しいよ。本当に。こんなふうに、ちゃんと日本語で……話してくれるなんて」
その声は明るいのに、どこか包み込むような安心を含んでいた。
リヴは照れたように帽子のつばを軽く押さえ、胸の奥がほどけるような小さな笑みをこぼした。
「……がんばった……。ナオキ、おしえてくれた……」
「そうなんだ……。ほんとにすごいよ、リヴちゃん。聞けて嬉しい」
美咲は、まるで宝物を受け取ったみたいな表情だった。
「ミサキ……げんきそう……。よかった」
「元気なのはそっちじゃないの。私、ずっと心配してたんだから」
その言葉にリヴは視線を落とし、肩をすこし縮めた。
けれど、胸の前でそっと手を握り直す。その仕草には、遠慮と、会えた喜びが少しずつ混ざっていた。
「……ごめん、なさい」
「謝らなくていいって。大丈夫」
美咲はリヴのそばまで歩み寄り、その目線に合わせるように身体を少し屈めた。
リヴは自然と背を伸ばし、美咲の動きを追うように見上げた。
「今日は三人で行くんでしょ?」
「はい。よければ」
「行くよ。誘われるの待ってたんだから」
軽く手を叩く美咲の仕草に、部屋の空気がやわらかく前へ進み始めた。
「リヴちゃん、外は大丈夫そう?」
「……だいじょうぶ。ちょっと……こわい。でも……いける」
「うん、ゆっくりね」
「……ゆっくり」
三人で外へ出ると、昼と夜が交じるような風が頬に触れ、街の音がやわらかく流れ込んできた。すれ違う自転車の音、買い物袋の擦れる音、子どもの笑い声が遠くで重なり合う。
リヴは広がる音を胸いっぱいに吸い込み、帽子のつばを押さえた。
「ひと……いっぱい」
「土曜だからね。でも大丈夫。私と直輝くんがいるから」
「うん……がんばる」
「がんばらなくていいよ。歩けるだけで十分」
「……ゆっくり」
リヴはその言葉を胸の奥におさめ、小さくうなずいた。
三人は自然と横に並び、ナオキはリヴの歩幅に合わせた。美咲は二人の呼吸を確かめるように少し後ろを歩く。
「リヴちゃん、前にナオキと来たファミレス、覚えてる?」
「おぼえてる……。しろい……やわらかい……ドリア。すごく……おいしかった」
「やっぱり好きなんだね。直輝くんから話だけは聞いてたよ。あんなに目を輝かせてたって」
「……はずかしい」
「可愛かったよ。ほんとに」
「ミサキ……やさしい」
「それも可愛い」
軽いやり取りが続くたびに、リヴの肩の緊張がほんの少しずつほどけていった。
「前に甘いのいっぱい食べて、倒れかけたって聞いたよ?」
「……いわないで……」
リヴはマスクの端を押さえて俯き、美咲は楽しげに笑った。
「でも嬉しそうだったんでしょ。そんなに喜んでくれるなら、連れてきた甲斐あったね」
「……うれしい」
街角で信号が赤に変わり、三人は立ち止まった。車の通りすぎる音が風と混ざり、光が地面に淡く広がる。
「しんごう……」
「青になったら渡ろうね」
「うん……」
素直に待つリヴの姿に、美咲はそっと目尻を緩めた。
「今日のリヴちゃん、すごく落ち着いてるよ。前よりずっと」
「……ナオキと……ミサキ……いっしょだから」
その言葉に美咲は、足元を見てふっと笑った。
「まっすぐだね。ほんと」
信号が青になり、三人は横断歩道を渡った。
「かわいすぎるって……ほんと反則級」
「これ……たべたい」
「じゃあハンバーグね。飲み物は?」
「……みずいろの……きらきら……」
「ソーダ?」
「そーだ……。ちょっと……こわい。でも……のむ」
美咲は思わず口元を押さえた。
「なんで怖いの?」
リヴは胸の前で手をそろえ、小さくうつむく。
「……まえ……コンビニで……ナオキが……いった……」
「俺?」
「うん……。ふた……とぶこと……ある、って……」
美咲は一瞬ぽかんとし、次の瞬間、声を殺すように笑った。
「直輝くん、なんでそんな説明したの」
「……いや、炭酸のボトル振ったらたまに飛ぶって話を……」
「そのまま伝わってるじゃん。そりゃ怖いよね」
リヴは小さく頷いた。
「はじめて……のむ……。むこう……ない……。こういう……しゅわ……する、のみもの……」
「そりゃ、怖いし気になるよね。でも大丈夫。爆発しないから」
「ほんと……?」
「ほんと」
リヴはグラスの方をそっと見つめた。
淡い青のソーダが小さく泡を立て、光を受けてきらきら揺れている。
「……きれい……。でも……つよそう……」
「飲み物に強さを感じるの、もう好きだわ、その言い方」
美咲の言葉は笑っているのに、どこか嬉しそうだった。
注文を終えるころには、三人の空気がゆっくり落ち着き、美咲がナオキへ視線を向けた。
「直輝くん」
「はい」
「向こうのこと、話すのはいつでもいいからね。急がなくていい」
「……ありがとうございます」
「でも一つだけ言わせて。帰ってきてくれてよかったよ」
その言葉は軽い調子なのに、重ねてきた時間が深く滲んでいた。
リヴはその横顔をじっと見つめた。
「ナオキ……がんばった……?」
「まあ……少しだけ」
「すこしじゃ……ない」
美咲も笑った。
「すぐ否定すんの。そこ心配なんだよね」
「……直します」
「直さなくていいよ。気づいてさえいれば」
リヴは胸に手を置き、小さくつぶやいた。
「ナオキ……ひとりで、がんばる……すきじゃない……」
「リヴ……」
「いるよ……わたし……そばに……」
美咲はその言葉を静かに受け止め、やわらかくうなずいた。
「言ってくれてありがとう、リヴちゃん」
その直後、テーブルに淡い青のソーダが置かれた。
リヴは両手でそっとグラスを包み、泡のひとつひとつを確かめるように見つめた。
「……きれい……」
光を吸ったように揺れる泡が、小さく弾けては消える。
リヴは息をひとつ飲み、決意するように口を近づけた。
恐る恐る、ほんの少しだけ舌に触れさせる。
次の瞬間、肩がふわりと跳ねた。
「……しゅわ……する……。あたま……ひかる……?」
「光ってないよ」
「ひかるきもち……。なか……くすぐる……」
リヴは眉を寄せ、でもどこか嬉しそうに目を瞬いた。
“初めての感覚” が身体のあちこちに散っていくのが分かるようだった。
美咲は笑いすぎて、手で口元を隠した。
「直輝くん、説明通りの反応だよ。完全に初炭酸じゃん……」
「俺のせいなんですかね……」
「完全にあなたのせいだよ」
美咲は笑いながらグラスを指さす。
「でも、怖がってたのにちゃんと飲めてる。偉いよ、リヴちゃん」
リヴはまだ頬を赤くしながら、小さく胸に手を置いた。
「……なんか……すごい……。でも……すき……かも……」
テーブルの上に落ちる光は、三人の距離を静かに近づけながら、夜の入口へと導いていった。
料理が運ばれてきたのは、それから少しあとだった。
店内のざわめきが落ち着き、空気がひと呼吸ゆるんだころ、鉄板の上のハンバーグがじゅっと音を立てた。ソースが弾かれ、香りがふわりと広がる。
「きた……」
リヴは背筋を伸ばし、胸の前でそっと手を揃えた。
その呼吸には、緊張と期待が小さくたゆんでいる。
「熱いから、ゆっくりだよ」
「うん……きをつける」
フォークを握り、そっとハンバーグに触れる。
思っていたより柔らかく沈み、その瞬間、リヴの目が驚きで揺れた。
「……やわらか……」
かすかに口の中で呟くように、言葉が漏れる。
慎重に切り取り、小さく息を吸ってから口へ運ぶ。
一口噛んだ瞬間、肩がわずかに震えた。
「……あ……やわらかい……」
「うん。よかったな」
「なか……あたたかい……。おにく……ふわってする……。まえ……たべたのと……ぜんぜん……ちがう……」
美咲が手を止めた。
「前に食べたのって……あれでしょ? スーパーの簡単なやつ」
「うん……。ナオキ、おしえてくれた……やすい……やつ……。すきだった……けど……」
「けど、これは違う?」
リヴは小さく頷き、胸の前でそっと指を組んだ。
「……ちがう……。こっち……やさしい……。なかが……とける……」
美咲は笑いながらスープを一口飲んだ。
「ほんと好きだわ、リヴちゃんのこういう言い方。お肉を“とける”とか“ふわってする”とか……聞いてるこっちが楽しくなる」
リヴは恥ずかしそうに眉を寄せ、マスクの端をそっとつまんだ。
「……へんな……?」
「へんじゃないよ。いい意味だよ。食べたもの全部ちゃんと感じて、言葉にするのがすごく上手」
リヴは胸にそっと手を置き、少しだけ呼吸を整えた。
「……よかった……。はじめて……こんな……おいしい……」
「リヴちゃんの言葉って、まっすぐで優しいの」
「やさしい……?」
「うん。味をそのまま受け取ってる感じがして、聞いてて嬉しくなるよ」
その言葉にリヴは静かにうつむいた。胸のあたりをそっと押さえ、もう一口ハンバーグを食べる。
「……あまくないけど……やさしい……。しょっぱい……おいしい……」
「そういう味なんだよ」
サラダを口に運ぶと、レタスが音を立てた。
「しゃき……する……。みず、でてくる……」
「野菜はそういうやつ」
「やさい……すき……。むこうの……やさい……もっと、かたかった……。にがい……。これ……やさしい……」
美咲は一度まばたきをしてから、小さく首を傾けた。
「……ねえリヴちゃん」
「あなた、どんな土地に住んでたの?」
ツッコミというより、本気の驚きが先に出た声だった。
「そんなに固いの? にがいの? サラダでそんな反応する子、初めて見たよ……」
けれど言い終える頃には、声の奥に心配も混ざっている。
「向こうって……環境、きつかったの?」
リヴは少し考えるように胸の前で指を揃えた。
「……きつい、じゃない……。ただ……おおきい人……よわい人……すこし……ちがう……。やさい……すこしだけ……つよい……」
「つよい野菜……?」
美咲は思わず吹き出した。
「やっぱり聞いたことない言い方するね。可愛いけど……なんか切なくもあるなあ」
リヴはきょとんとしたまま、胸の前でぎゅっと手を握った。
「……へんな、かな……?」
「変じゃないよ。むしろ正直でいい」
美咲はやさしい目をして、そっと続けた。
「向こうの土地がどんな場所か少しわかってきた気がする。
だから、こんなふうにちゃんと食べられてるのを見ると……ほんと、安心するよ」
リヴは静かに頷いた。
「うん……ここ……こわくない……」
「可愛いね、ほんと」
「……かわいくない……」
「可愛いよ。直輝くんだって思ってるでしょ?」
急に振られ、ナオキは手元のフォークを持ったまま小さく息を呑んだ。
否定しようとして、けれどリヴがこちらを見ている気配が胸の奥でほどける。
「いや……まあ……はい」
その答えに、美咲がふっと笑った。
からかい半分の笑いなのに、どこか安心が混ざっている。
「やっぱりね。あんたの顔、全部出てるんだよ」
リヴはきょとんとしたまま、胸の前で小さく手を握った。
「ナオキ……? わたし……へんじゃない……?」
「変じゃないよ。……ほんとに可愛いよ」
言葉にした瞬間、リヴの肩が小さく震えた。
照れと安心が同じ場所で、そっと揺れるように。
「……うれしい……」
美咲はナイフの動きを止め、ナオキの目をまっすぐ見た。
「帰ってきてからさ、少し痩せたよね。向こう、相当大変だったんでしょ?」
「いや……まあ、色々ありましたけど」
「ほら。そうやって濁す」
「濁してるつもりは」
「あるんだよ。私にはわかる」
リヴも静かに頷いた。
「ナオキ……むこうで……つかれた……。でも……すこし、やわらかい……いま」
「やわらかいって……」
「うん……。おとが……すこし、あたたかい」
美咲は軽く吹き出して、でもすぐ真面目な顔に戻った。
「そうらしいよ? ほら、自覚しなよ」
「……そう見えるなら、ちょっと安心しました」
「安心していいよ。無理してる顔じゃないから」
店内の照明が少し落ち、テーブルの影がゆるく揺れた。
「直輝くん」
「はい」
「帰ってきた理由、私たちにもちゃんとわかるようにしてよ。
全部じゃなくていい。あなたの負担にならない範囲でいいから」
ナオキは水を口に運び、息を整えた。
(説明……どう言えば……)
そこへ、リヴがそっと袖をつまむ。
「ナオキ……むこうで……がんばった……。でも……ひとりで……がんばるの……よくない……」
「……よくない、か」
「うん……。いる……ひと……いた……。でも……ナオキ……ひとりで……あるく、とき……あった……。すこし……さみしい、おと……した」
美咲はテーブルに手を置き、落ち着いた声で言った。
「直輝くん。帰ってきたってことはさ、ちゃんと“逃げてもいい場所”に戻ってきたってことだよ。
逃げるって悪い意味じゃないよ。自分の身を守るために選んだ場所ってこと」
その言葉に、胸の奥の重さが少しほどけるのが自分でわかった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うとこじゃないよ。ほんとにそう思ってるだけ」
リヴが安心したように微笑んだ。
「ナオキ……ここ……すき……?」
「うん。二人といると、楽だよ」
リヴの瞳が静かに揺れた。
「……よかった……。それ……ききたかった……」
美咲もふっと表情を緩めた。
「ならいいじゃん。こっちで休めばいい。
ちゃんと二人いるんだから」
「二人……?」
「私とリヴちゃん」
リヴは胸に手を置いて、小さくうなずく。
「いる……。ここ……すき……」
その言葉が落ちた瞬間、テーブルの空気がすこし変わった。
三人の呼吸が静かに揃い、店内の明るさの中で、夜の影と温かさがゆっくり混ざり合っていく。
プリンのときみたいに大きな皿じゃないのに、
三人で分けて食べる時間は、小さな祭りのように感じられた。
リヴはしばらくチョコケーキを見つめ、
ゆっくり胸の前で指を揃えた。
「ミサキ……あったかい……。ナオキの……あったかいに……にてる……」
美咲はフォークを止め、少し照れくさそうに笑った。
「似てる……んだ?」
「にてる……。おと……やさしい……。きもち……やさしい……」
ナオキもどこかくすぐったい気持ちになりながら言う。
「そう見えるなら、たぶんそうなんだと思います」
「直輝くん、なんか照れてる?」
「照れてないです」
「照れてるじゃん」
リヴは嬉しそうに小さく笑った。
「ふたり……にてる……。すき……」
その声は、どこにも嘘がなかった。
静かに揺れる照明の下、三人の心はゆっくりと交わり始めていた。
デザートを食べ終え、テーブルに残ったグラスの水面がゆるく揺れていた。店内の照明は昼より落ち、夜の静かさを呼び込むように柔らかい光を落としている。
リヴはスプーンをそっと置き、胸の前で指を重ねた。
「……おいしかった……。ミサキと……ナオキと……たべるの……すき……」
「嬉しいこと言うね、リヴちゃん」
美咲は口元を緩め、水をひと口飲む。
「直輝くん、昔はこんなふうに“美味しいね”って言い合う時間なかったよね」
「まあ、仕事ばっかでしたから」
「そうそう。あの頃ほんと余裕なかったよ」
リヴは二人の会話を静かに聞き、そっとナオキを見る。
「ナオキ……むかしより……いま……すき……。おと……やわらかい……」
「おとって……俺の声のこと?」
「うん……。いま……あったかい……」
その言葉に美咲が小さく笑う。
「ほらね。リヴちゃんには全部ばれてるんだよ」
「まあ、否定しないですけど」
「しないんだ」
「……しません」
美咲はその言い方が少し嬉しそうで、ナプキンを指先で軽く押さえた。
「ねえ直輝くん、リヴちゃんの前ではちゃんと優しいじゃん」
「そりゃあ……そうですよ」
「ならいいよ。ちゃんと伝わってるし」
リヴは深く喉を鳴らし、胸に手を当てる。
「ナオキ……やさしい……。わたし……ちゃんと、わかる……」
その言葉が静かに落ちると、美咲は真面目な声音で言った。
「……直輝くん。ちゃんとこの子を見てあげなよ」
心臓が少し跳ねた。
「見てるつもりですけど……」
「つもりじゃなくてね。今日のリヴちゃん、すっごく頑張ってるんだよ?」
リヴははっとしたように美咲を見た。
「がんばってる……?」
「そうだよ。こうやって日本語で話して、知らない場所で食べて……あなたたち二人の間にちゃんと入ってきてるんだから」
「……わたし……がんばって……る……?」
「うん。すごくね。ちゃんと“来てる”んだよ、こっちに」
その言葉にリヴはゆっくり胸元へ手を当て、俯いた。
「……うれしい……」
「ほら。ちゃんと響いてるじゃん、直輝くん」
「……そうですね」
ナオキは小さく息を吐いた。
嬉しさも、少しの戸惑いも、自然と胸に溶けていく。
「じゃあさ」
美咲は手を叩き、少し軽い声を戻した。
「お腹も落ち着いたし、そろそろ行こっか」
「行くって……どこへ?」
「ちょっと外散歩。リヴちゃん、夜の街って見たことないでしょ?」
リヴは目を丸くした。
「みたい……。ナオキと……ミサキと……いっしょ……」
「よし、決まり」
美咲は伝票を持ち、ナオキに向けて微笑んだ。
「三人で歩くのって、悪くないよね」
「悪くないですね」
リヴは帽子を軽く押さえながら、控えめに微笑んだ。
「……すき……。ふたりと……いっしょ……」
その言葉が、これから始まる夜の景色の扉をそっと開いていった。
店を出ると、自動ドアが静かに閉まり、外の空気がふっと頬へ触れた。
昼の熱気がようやく抜け、地面にはほんのり温かさが残っている。それなのに、風だけは夜の色をして、指先に少し冷たかった。
リヴは一歩外へ出た瞬間に、胸の前でそっと手を合わせた。
「……すずしい……。さっきより……きもち、すっきり……」
「中、暖房きいてたもんね」
美咲は軽く伸びをしながら言う。
「寒くない? リヴちゃん」
「さむくない……。だいじょうぶ……。すずしい、すき……」
「ならよかった」
ナオキは店のガラスを一度だけ振り返る。
温かい光が背後で揺れて、いま三人が歩いていく夜道との境界を静かに照らしていた。
三人が並んで歩き出すと、夜の街の音が自然と耳に戻ってきた。
コンビニの自動ドアの音、車がゆっくり走るエンジン音、遠くの笑い声。
そのどれもが、昼とは違う静けさをまとっている。
リヴは歩きながら、帽子のつばを押さえて言った。
「ミサキ……このみち……まえも、きた……」
「よく覚えてるね」
「うん……。いろんな、おと……あった……。すこし、こわかった……」
「うん、怖かったね」
美咲は歩く速度を少し落とし、リヴの足に合わせた。
「でも今日は?」
リヴは胸元を押さえて答える。
「……だいじょうぶ……。ふたりといっしょ……」
美咲は自然に笑った。
「そう言ってもらえるの嬉しいよ」
「うん……」
「でもさ、直輝くん、あんた歩くの早い」
「え、俺ですか」
「はいはい。リヴちゃん基準だからね今日は」
「了解です」
ナオキが歩幅を合わせると、リヴは嬉しそうにほんの少し近づいた。
「ふたり……なかよし……」
「まあ、なかよしですよ」
「否定しないんだ」
「否定しても負けますし」
「その通りだよ」
そんなやり取りに、リヴはふわっと笑った。
三人は大通りから一本はずれた静かな道へ入った。
街灯はまばらで、みずいろの光が歩道を薄く照らす。
風の音が本当にゆっくりで、葉の擦れる音さえ穏やかだった。
「ここ……すき……」
リヴは少し前へ出て、並木道を見上げた。
葉の影が揺れて、その間を街灯の光がこぼれる。
「きれい……。しずかで……こわくない……」
ナオキはその横顔を見ながら問いかける。
「静かなところ、落ち着く?」
「うん……。やさしい、音……。にがい音……ない……」
美咲がゆっくり頷いた。
「分かるよ。私も人多い場所苦手だから」
「ミサキも……?」
「そうそう。だから今日みたいに食べたあとに散歩するの好きなんだよね」
「……うれしい……。わたしだけじゃない……」
「そんなことないよ。苦手なものがあるって、普通だよ」
リヴは胸に手を置き、小さく息を吸い込んだ。
「ミサキ……やさしい……。ことば……あたたかい……」
「そうかな?」
「そう……。きくと……ここ、すこしひらく……」
リヴは胸の真ん中を指で軽く触れた。
美咲は驚きつつも、ゆっくり言葉を返した。
「ひらくって、いいね。それ」
「うん……しめてると……くるしい……。ひらくと……あったかい……」
風がひゅうと抜け、三人の髪を軽く揺らした。
「ねえ直輝くん」
突然美咲がナオキを見る。
「はい」
「この子、ちゃんと開いてるよ。あなたの前で」
「……そう、見えますか?」
「見えるよ。すごくね」
リヴが少し恥ずかしそうに目を伏せる。
「ナオキ……すき……。いっしょ……いると……あたたかい……」
胸の奥にじわっと何かが広がった。
「ありがとう。俺も嬉しいよ」
「ほんと……?」
「ほんと」
リヴはその言葉に、小さく肩を震わせてほっと息をした。
「ミサキ」
「ん?」
「きょう……また……いっしょに、ほこうね……?」
「もちろん。何度でも付き合うよ」
風が軽く吹き抜け、三人の影がゆっくり揺れた。
その影は、まるで距離を少しずつ近づけるように寄り添って見えた。
「直輝くん」
「なんですか」
「次、どこ行きたい? 三人で」
リヴが期待で目を丸くする。
「ナオキ……いきたいとこ……ある……?」
ナオキは少し考え、照れながら答えた。
「夜の公園とか……どうですか。静かだし」
「こうえん……? よるの……?」
「夜は風が気持ちいいよ」
リヴはぱっと顔を明るくした。
「いきたい……! おおきい草……みたい……」
「草じゃなくて木ね」
「き……?」
「そう。すぐ見えるよ」
美咲は満足げに手を叩いた。
「いいじゃん。行こ行こ。私も好きだよ夜の公園」
「いきたい……ふたりと……いっしょ……」
「決まり」
三人の歩幅が自然にそろい、夜風がその足音に軽く重なる。
その足音は、夜の街でひとつだけあたたかく響いていた。
公園をあとにして歩き出すと、道は少しずつ明るさを取り戻した。
夜の空気は静かなままなのに、街灯が増えるだけで世界がふわりと開けていくように見える。
リヴは帽子のつばを押さえながら、歩道の白い線をなぞるように歩いた。
その足取りは少し軽くなっていて、さっきまでの緊張がほどけたのがよく分かった。
「ミサキ」
「ん?」
「きょう……たのしかった……」
美咲は少しだけ歩を緩め、横に並んだリヴの顔を覗きこんだ。
「うん。私も楽しかったよ。ほんとに」
「……また、あいたい……?」
「もちろん。またすぐ会おうね」
美咲の声は迷いがなくて、リヴは胸の真ん中をそっと押さえた。
「……よかった……。ほんとに……よかった……」
その様子を見て、ナオキは自然と笑っていた。
リヴの声は小さいのに、ちゃんと夜道の空気に溶けて、まっすぐ届いてくる。
やがて、アパートの明かりが見えてきた。
玄関前の外灯が静かに照らし、三人の影を足元へ落とす。
「じゃあ、今日はここまでかな」
美咲が立ち止まって言った。
その声は明るいのに、名残惜しさが少し混じっていた。
「ミサキ……きょう……ありがとう……」
リヴは胸の前でそっと指を揃え、深く頭を下げた。
美咲は慌てて手を振った。
「そんなにしなくていいって。こっちこそありがとね。……会えて嬉しかったよ」
「うん……わたしも……」
リヴは照れたように帽子のつばを触り、小さく笑った。
美咲はナオキの方へ向き直り、軽く顎を上げた。
「直輝くん」
「はい」
「今日さ。……二人とも、顔がちゃんと元気だったよ」
「そう見えました?」
「うん。だから、帰ってきてよかったねって思った」
その言葉は、夜の空気より静かに胸へ落ちた。
ナオキは少しだけ息を吸い、穏やかに頷いた。
「……はい。ほんとに」
美咲は満足したように微笑むと、ゆっくり歩き出した。
「じゃあね、二人とも。またすぐ」
「うん……また、すぐ……!」
「先輩、ありがとうございました」
「はいはい。また連絡するよ」
美咲の背中が街灯の向こうに溶けていく。
その歩き方は軽くて、最後まであたたかかった。
リヴはその姿が小さくなるまで見つめ、ゆっくりとナオキの袖をつまんだ。
「……やさしい……ことば……あたたかい……」
「そうだな。優しい人だよ」
「うん……。きょう……しあわせだった……」
ナオキは立ち止まり、ゆっくりと答えた。
「俺もだよ」
リヴは目を細め、小さく息を吐いた。
夜風がその髪を揺らして、ふたりの間だけに静かさが落ちてくる。
「ナオキ……かえろ……?」
「帰ろうか」
アパートの階段を上がり、鍵を開けると、暗い部屋が静かに迎え入れてくれた。
スイッチを押すと、やわらかい光が六畳の空気にふわっと広がる。
靴を脱いだリヴは、明かりの下で胸の前に手を置いた。
その仕草は、どこかほっとしたようで、少し照れくさそうだった。
「ナオキ……きょう……ずっと、あったかかった……」
「そうだな。いい時間だった」
「うん……。わたし……このせかいで……こういうの、はじめて……」
ナオキはリヴの横に立ち、静かに答えた。
「また行こう。三人でも、二人でも」
「いきたい……。いっぱい……」
リヴは小さく頷き、足元を見て微笑んだ。
部屋の灯りがその頬をほんのり照らし、夜風の名残がそっと消えていく。
ナオキは靴をそろえながら、胸の奥に浮かんだ言葉をそっと抱えた。
そのあたたかさだけが、そっと部屋に残った。




