地球の六畳に帰る日
足元の感触が、ふっと途切れた。湿った土の重さも、森を抜けていく風の匂いも、背中に残っていた揺れも、まとめて音を立てて遠ざかっていく。代わりに、乾いた空気が肌に触れた。六畳の部屋を満たす、地球の空気だ。
蛍光灯の白い光が天井に広がり、冷蔵庫の低い唸りが耳の奥をじわり押す。胸の内側で張りつめていた息が、遅れてほどけた。吐いた拍子に肩がわずかに落ちる。
(帰ってきたんだな)
街の朝の光。工房の入り口に並んだ人たちの気配。震える声と、涙の温度。旅のあいだに見てきたものが、乾いた空気に触れた途端、輪郭を薄くしていく。夢が醒めるというより、いったん棚に戻されるみたいに、静かに遠のいた。
「ナオキ」
名前を呼ばれて振り向くと、リヴが目を細めて立っていた。肩にかかった白い髪が蛍光灯を拾って、ふんわり揺れる。何度も来ているはずなのに、毎回この瞬間だけは、呼吸の置き方を探している顔をする。
「……この感じ。地球に帰ってきたね」
「戻った。空気の乾き方が、もう違うな」
そう返すと、リヴは部屋を見渡してから、カーテンの隙間へ指先を伸ばした。触れたというより、光をつまむふりをしただけなのに、ほっとしたように息をつく。
「向こうより乾いてる。でも……ここも落ち着く。音が、一定で」
「よく気づくな。俺は逆に、うるさく感じるときがある」
「ナオキの生活の匂いがするから、すぐ分かるよ」
その言い方がやわらかくて、胸の奥が小さく揺れた。返す言葉を探している間に、リヴはもう一度だけ短く息を吐いて、包みを抱え直す。
荷物を床に下ろすと、緊張が抜けていくのが分かった。旅のあいだずっと抱えていた重さが、畳の上にそっと降りたみたいだった。リヴは俺の顔を覗き込み、声を落として言う。
「ナオキ、座ってて。荷物はあとで一緒に片づけよう。いま、足が止まりそうな顔してる」
「助かる。……少しだけ、息を整える」
布団の横に腰を下ろすと、畳のひんやりした感触が足の裏にじわり広がった。冷蔵庫の唸り、外を走る車の音、どこかの家の扉が閉まる乾いた響き。向こうの世界にはない種類の音ばかりなのに、逆に「帰った」と実感させる。
リヴは抱えていた小さな包みの角を指で確かめた。
「これ、崩れてなかった。よかった……」
「大事に運んできたからな。途中で揺れたときも、離さなかっただろ」
「うん。あれだけは、壊したくなかった」
言い終えると、彼女はシンクの前にしゃがみ込んだ。横顔が少しだけ真剣になる。
「お湯、出るか見てもいい?」
「頼む。いま出なかったら、俺が泣く」
冗談のつもりで言ったのに、喉の奥が乾いているのが自分でも分かった。リヴは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく息を吐く。笑うというより、緊張をほどくみたいに。
「じゃあ、泣かせない。確認するね」
蛇口に両手を添える動きが丁寧だった。ひねる角度まで慎重で、薬草を扱うときの指先と同じだ。まず冷たい水が勢いよく落ち、金属に当たって乾いた音を立てる。少し遅れて、流れの温度がゆっくり変わっていった。
指を伸ばして確かめたリヴの肩が、ほんのわずかに下がる。
「出た。……あったかい」
俺は息を吐いた。
「給湯器の勝ちだな。向こうの薪より、ずるいくらい便利だ」
息を吐くと、胸の内側の固さが少しほどけた。たったそれだけで、この六畳が「戻ってこれる場所」に戻った気がする。
水を止め、立ち上がったリヴは部屋を見回して小さく笑った。
「ここも、ちゃんと生活してるね」
「生活してる、ってどういう意味だよ」
「机の上の散らかり方とか、布団のへこみとか。誰かがここで暮らしてる空気がある。……ナオキが帰ってきたって、部屋が言ってるみたい」
胸の奥に、ゆっくり熱が落ちた。向こうで積み重ねてきたものと、ここで続いているものが、一本の線で結ばれたみたいに感じる。
スマホを手に取ると、画面いっぱいに未読通知が並んだ。ほとんどが美咲からだ。
『生きてる?』
『帰省したら連絡しろって言ったよね?』
『サロンのお客さんが待っていますよ~』
『既読も付かないから心配・・・』
思わず苦笑が漏れた。謝る言葉より先に、生存報告だ。俺は短く指を動かす。
『帰ってきた。明日連絡する』
送信すると、胸の奥がかすかに軽くなった。顔を上げると、冷蔵庫を覗いていたリヴがこちらを見ている。
「ミサキ?」
「うん。向こう行く前に『連絡しろ』って釘刺されてた」
「優しい人だね。声が、落ち着いてる」
「声だけで分かるの、相変わらずすごいな。心配性なだけだよ」
「心配してくれるのは、大事にしてるってことだよ」
嫉妬も警戒もない。ただ、事実として言っている感じだった。
リヴは冷蔵庫を開け、中身をひとつずつ手に取って確認していく。もやし、卵、ウインナー。見慣れない形のウインナーを指先で転がし、興味深そうに目を細めた。
「もやしと卵と……このウインナー、向こうにはない形だね」
リヴが指先で転がして、光に透かして見た。
「安いやつ。安いけど、味はちゃんとしてる。焼くと香りも出るぞ」
「安いのに、かわいい形……ナオキの国は不思議だね。これ、先に炒めていい?」
手つきがやさしくて、触れるものが少し上等に見える。リヴは振り返り、小さく首をかしげた。
「ナオキ、お腹すいてる?」
「少しだけな。胃が落ち着いたら、腹が鳴り出した」
「じゃあ作る。今日は帰ってきた日なんだし、ナオキは座ってて」
言われて断る理由が見つからない。俺は椅子を引いて座り直し、台所の邪魔にならない位置へ足を寄せた。
「いいのか。リヴも疲れてるだろ、さっきまで森で」
「疲れてるけど、作りたい。こっちの料理も覚えたいし……ナオキに食べてもらいたい」
まっすぐな声だった。俺は「頼む」とだけ言い、代わりに黙って頷く。リヴは小さなキッチンに立ち、フライパンを温め始めた。
油が広がる音、卵が割れる柔らかな響き、もやしの水分が弾ける細い音。ウインナーが少し跳ねるたび、六畳の空気がじわじわ温かくなる。商会の厨房とも、森の焚き火とも、街の屋台とも違う匂いだ。油と卵と鉄板の匂い――俺の部屋にだけある匂い。
「ナオキ」
振り返ったリヴの頬が少し赤い。火の熱か、料理の緊張か、その曖昧さが妙に愛おしい。
「炒めたよ。味、どうしよう。これが醤油?」
「それで合ってる。少しだけ入れて、すぐ混ぜて。焦げやすいから」
「分かった。焦がさないように、よく見る」
薬草を扱うときと同じ、丁寧で慎重な手つきだった。無駄がないのにやさしくて、そのまま見ていたくなるくらい静かだ。
「できた」
テーブルの上に皿が二つ並ぶ。湯気がゆっくり立って、六畳の空気がほんのり明るくなる。卵ともやしの炒めもの、ウインナー、それからインスタント味噌汁。豪華じゃないのに、この部屋にやけに似合っていた。
リヴがひと口食べて、目を丸くする。
「……おいしい」
「よかった。塩加減、強くなかった?」
「ちょうどいい。卵がやわらかいのに、香りが強い。……ナオキの家の味だね」
「家の味ってほどじゃない。俺、雑に作る側だし」
「雑じゃないよ。いま、一緒に食べてるから、ちゃんとおいしい」
ふわっと笑った表情が、部屋の狭さをやわらかくしていく。俺は言い返せず、味噌汁をひと口すすった。喉の奥が温まって、ようやく体が「帰宅」に追いつく。
食べ終えると、六畳にはまた静けさが戻った。外を走る車の音が細く流れ、蛍光灯がかすかに唸る。異世界では決して聞こえない種類の静けさだ。
そのとき、スマホが震えた。画面には美咲の名前が光っている。
「……出る。用件だけ伝える」
「うん。声、落としてね。眠気が来てる」
俺は通話ボタンを押し、耳に当てた。
『もしもし。やっとだね、生きてた?』
美咲の声を聞いた瞬間、肩の力がすっと抜けた。
「生きてる。既読つけられなくて悪かった」
『悪かったじゃないのよ。心配するでしょ。……今、どこ?』
「家。さっき帰ったところ」
『声が疲れてる。リヴちゃんのとこに行ってたんだよね?』
「まあ……そんな感じ。向こうが忙しくてさ」
『忙しいって言い方、雑。休んでたの? 働いてたの?』
「半々。休む暇があると次が降ってくる」
『はい出た、いつものナオキ。……でも帰ってきたならよかった』
笑いが混じらない温度だった。胸の奥の固さが少しほどける。
『サロンのお客さん、待ってるよ~って言ったけど、冗談じゃないからね。いつ来れる?』
「明日、午後に顔出す。鍵、まだ預かってる?」
『預かってる。掃除も軽くしといた。来たら連絡して』
「助かる。ほんと、ありがとう」
『で、リヴちゃんは?』
「一緒に帰ってきた。いま皿拭いてる」
『さらっと言うなって。普通に異世界から人連れて帰るなよ』
ようやく笑いが出た。向こうを向いたリヴが、こちらを見て少しだけ口元を緩めている。
『リヴちゃん元気?』
「元気ではあるけど疲れてる。さっき飯作ってくれたから助かった」
『え、作ってくれたの? なにそれ、仲いいじゃん。いいことだよ』
「俺が作れって話なんだけどな」
『反省は明日。今日は休みな。……ほんとに、帰ってきてくれて安心した』
その一言が変に重かった。軽く流せなくて、息を整えてから返す。
「心配かけた。明日ちゃんと顔出すから、待ってて」
『待ってる。無理すんな。……おやすみ』
「おやすみ」
通話が切れると、蛍光灯の音が急に近く感じた。リヴがタオルを畳みながら、静かな声で言う。
「美咲さん、優しいね。怒ってるのに、安心したって言う」
「優しいし、怖い。俺の逃げ道塞ぐのが上手い」
「逃げ道を塞ぐのは、守りたいからだよ」
リヴはそう言って、タオルを棚にしまった。次にスマホ画面へ目を向け、並んだ通知を見て首をかしげる。
「このお知らせ、まだ来てる?」
「来てる。家賃とか電気とか、現実がね」
「現実、逃げないんだね」
「逃げない。ちゃんと追ってくる」
「なら、追いつかれないように一緒に歩こう。ナオキ、さっきから息が浅い」
言われて、俺は自分の呼吸を確かめた。確かに、どこかで止める癖が戻っていた。
寝る支度をする。二人でマットレスを広げ、シーツを整えると、ふわりと埃が舞って蛍光灯の下で細い光を拾った。リヴは布団の端に座り、目をこする。
「ここで寝るの、久しぶり。森の風はないけど……ここもあったかい」
「こっちは音が多い。慣れないと眠りづらいかもしれない」
「大丈夫。ナオキがいるから、眠れる」
言い切る声が、料理のときと同じくらいまっすぐだった。リヴは横になり、枕に頬を落とす。肩の力が抜け、呼吸が少しだけ深くなる。
「この部屋、いい匂い。ナオキの部屋って感じがする」
「そんな匂い、するかよ」
「する。落ち着く匂い」
まぶたがゆっくり降りていく。眠りの縁に沈みかけたところで、リヴが小さく言った。
「ナオキ、どっか行かないで。目が覚めたとき、いないの、嫌」
「行かない。ここにいる。明日も、ちゃんと起きる」
返すと、リヴの指先が布団の上で小さく丸くなった。安心を握るみたいな形だ。
冷蔵庫の唸りが一定のリズムで続き、外の車の音が遠く流れる。六畳の天井は淡く光り、夜の白さだけが静かに残っていた。向こうで背負ったものはまだ胸の奥にある。それでも、いまはこの部屋の音が、ちゃんと受け止めてくれている気がした。
明日、連絡して、顔を出して、また動く。そう決めて目を閉じかけたとき、隣から、息と息の間に小さな声が混ざった。
「……おかえり、ナオキ」
その一言で、胸の奥が静かにほどけた。俺は声を落として返す。
「ただいま」
暗い部屋にそっと落ちた言葉は、冷蔵庫の一定の唸りに紛れて、深い夜へ溶けていった。




