道の先で待つもの
朝の空気は冷たかった。
街を包んでいた昨日の熱は少しずつ抜け、かわりに澄んだ光が静かに降りていた。
商会の家の前には馬車が止められ、荷台に巻かれたロープがしっかり締められている。木の車輪に反射する白い光が、出発の気配をゆっくりと告げていた。
ナオキは深く息を吸い、街を見渡した。
鍋の火をつける音。
どこかの家から漂う焼き立てのパンの香り。
仕事に向かう人々が荷を背負いながら小さく交わす挨拶。
昨日までと同じ朝なのに、すべてが少しだけ明るく見えた。
「ナオキ、荷物まとめ終わったよ」
荷台の隅でロープを押さえていたリヴが振り返った。
前髪を指で軽く払う仕草に、いつもの落ち着きがあった。
「馬車、けっこう揺れそう。昨日、道の土が掘り返されたって聞いたから。気をつけてね」
「うん。ありがとう」
荷台に足をかけると、木板は夜の冷気をそのまま残していて少し冷たかった。
ナオキは腰を下ろし、街をもう一度見た。
そのとき、家の角を回って、小柄な女性が駆けてきた。
胸に布の包みを抱えて、息を整えながらナオキに近づいてくる。
「ナオキさん……昨日は、本当に、ありがとうございました」
声は震えている。でもそれは涙の震えではなく、前へ進む人の震えだった。
「昨日の面接、行けたんです。今日も……仕事に行けるんです。こんなこと、ずっとできなくて……」
ナオキは胸がじんわり温かくなるのを感じた。
「それならよかった。続けられるなら、それが一番だよ」
女性は深く頭を下げ、布包みを差し出した。
「これ……うちで採れた乾燥野菜です。旅の途中、少しでも……」
「ありがとう。無理しなくていいから」
「……はい」
女性は涙ではなく、安堵の笑みを浮かべて戻っていった。
すぐに、別の青年が歩み寄ってきた。
汚れの残った作業着を手に下げている。
「ナオキさん。……俺、昼の仕事、戻れるようになりました。あの言葉……胸に来ました。逃げないでやってみようって」
青年は拳を胸に当て、目を逸らすことなく言った。
「帰ってきたら……見てください。ちゃんと働いてるところ」
「楽しみにしてるよ」
青年は照れくさそうに頭を下げ、そのまま朝の通りへ歩いていった。
そのあとも、二、三人が歩み寄り、短い言葉を置いていった。
感謝の言葉は遠慮がちで、でも真っ直ぐだった。
(……こんなに、届いてたんだ)
胸の奥が少し苦しいほど温かかった。
「ナオキ」
リヴがそばに立ち、街の人たちを見ながら言った。
「これが昨日の答えだよ。……街の返事」
あくまで静かに、けれど確かに伝わる声だった。
そのとき、ヴァルターが馬の首を軽く叩きながら歩いてきた。
「よし、もうすぐ出るぞ。砂利が緩んでる。最初は揺れるから、気ぃつけろよ」
「はい」
答えると、ヴァルターは目を細めて近づいた。
「ナオキ。……お前の帰る場所、ここにもある。忘れんなよ」
「……うん。ありがとう」
セラもリヴの隣に立ち、厚手の布を差し出した。
「向こう寒いんでしょ。これ持っていきなさい。細いんだから、すぐ冷えるわよ」
「ありがとうございます」
ラナが勢いよく手を振ってくる。
「ナオキさん、気をつけてね! 帰ってきたら……もっとおいしいパン作るから!」
「楽しみにしてるよ」
ラナは顔を赤くして何度も手を振った。
そして、馬車がぎし、と音を立てて動き出した。
ゆっくり、ほんの少しずつ街が後ろに遠ざかっていく。
鍛冶屋の黒い看板。
パン屋の窓に立つ湯気。
働きに出る人が振り返り、さりげなく手を上げる。
(……また戻ってこよう)
その瞬間、胸の奥が軽くなった。
馬車が街道に出ると、街の匂いは薄れ、草と土の匂いが強くなった。
リヴが荷台に腰を下ろし、ナオキの方へ体を寄せて言う。
「今日は……街、すごくあたたかかったね」
「うん。ほんとに……あたたかかった」
リヴはうれしそうに目を細め、軽く肩を寄せた。
その動きは言葉より静かで、深く伝わるものがあった。
馬車は揺れながら、森へ向かう道を進んでいった。
街道に入ると、朝の光は少しずつ強くなり、丘の向こうへ伸びる影がゆっくり形を変えていった。
馬車は砂利の上を進み、揺れるたびに木板がかすかに鳴った。
「ごめんね。……本当に揺れるね」
リヴが手すりを軽く握りながら言った。
「大丈夫だよ。前より慣れてきたし」
そう口にすると、リヴは安心したように小さく笑った。
街の光景が後ろに少しずつ遠のいていく。そのたびに胸の奥の緊張が、ほんの少しずつほぐれていくのを感じた。
「ナオキ」
落ち着いた声が、揺れの合間に静かに届いた。
「さっき……街の人たちの顔。あれ、すごくよかったよね」
「うん。あんなにたくさん届けられるなんて、思ってなかった」
「わたしね、嬉しかったんだよ。あの人たちの表情、ちゃんと変わってたから」
リヴが膝の上で指を組みながら言う。
その横顔には、安心と誇りが混ざった静かな光があった。
「働きに行けるって……すごく大事なんだよ。今日食べられるっていう安心も。あの顔を見てたら、戻れる場所ができたんだって伝わってきた」
「うん。……そうだね」
「ナオキの言葉がさ、ちゃんと届いてたよ」
「そう、なのかな」
「そうだよ」
リヴがこちらをまっすぐ向く。
揺れる馬車の中で、その眼差しだけは揺れなかった。
「街が動いた理由、ナオキが思ってるより大きいよ。ナオキは、自分を少なく考えすぎ。……ほんとは、あの人たちの背中押したのはナオキだよ」
ナオキはすぐに返事ができなかった。
胸の奥がぎゅっとして、けれど苦しくはなく、どこか熱を帯びるような感覚だけが残った。
馬車が森の入口にさしかかると、空気が少し冷えた。
湿った土の匂い。草に残った露の匂い。風の温度が、一歩ずつ変わっていく。
「ほら、地面がまだ乾いてない。木の根が出てるところ、揺れるよ」
「ありがとう。気をつける」
「ナオキは平気って言うから危ないんだよ」
「そんなこと……言う、かな」
「言うよ。絶対言う」
「……言うかもしれない」
「ほら」
リヴは少し得意げに笑った。
その笑顔に、森の光が優しく落ちた。
木漏れ日が荷台の上にちらつき、馬車の影が道の上に揺れながら伸びていく。
しばらく進むと、木々の間が開けた小さな休憩地に出た。
「ナオキ、少し休も。馬も疲れてると思う」
「そうだね」
二人は荷台を降り、冷たい空気を胸いっぱいに吸った。
風の中に混じる樹液の香りが、森全体を静かに満たしている。
「ナオキ、手……冷たい」
リヴがナオキの指先にそっと触れた。
思わず少しだけ肩が跳ねる。
「寒いんでしょ。……やっぱり、地球の空気とは違うよね?」
「うん。ちょっと冷えるかも」
「もう。早く言ってよ」
リヴは包むみたいに両手でナオキの指を握った。
その温度がじんわり伝わり、胸の奥まで温かくなる。
「風邪ひいたら困るんだよ。地球戻ったら、仕事あるんだから」
「ありがとう」
そう言うと、リヴは少し照れたように視線をそらした。
そのとき、休憩地の奥から足音がした。
枝の折れる音に続いて、年配の男と女性が姿を現した。
「おや、商会の馬車じゃないか」
「街からの帰りかい?」
リヴが丁寧に答える。
「はい。今出たところです」
だが、女性がナオキを見ると、目を大きく開いた。
「もしかして……工房の看板を作った方……?」
「え、あ……はい。そうです」
「助けてもらいました。本当に……ありがとうね」
女性の声は震えていたが、悲しみの震えではなかった。
「うちの子がね……読むの苦手で。でも看板見て、行ってみたいって言ったんです。そんなこと、今までなかったの。昨日、並んでましたよ」
「……そうだったんですか」
「今日も行くって言ってました。あそこなら、昼ごはん出るって聞いて……。安心したんでしょうね。……わたしも安心しました」
女性は深く頭を下げた。
ナオキは胸の奥に言葉が詰まったようになり、返せなかった。
少しだけ息が震えた。
リヴがそっと一歩前に出る。
「大丈夫ですよ。明日も来てくださいって、伝えてくださいね」
女性は何度もうなずき、去っていった。
静けさが戻ると、ナオキは小さく呟いた。
「すごい……重いな。でも……悪くない重さだ」
「そうだよ。悪い重さじゃないよ」
リヴがナオキの袖を軽く引いた。
「さっきの人、安心してたよね。あれ、本当にすごいことなんだよ。食べられる日があるって、それだけで人は変わるんだよ」
「うん……」
「だからね、ナオキ。胸にしまっておいて。街の人は、ちゃんとナオキに返してくれてるよ」
ナオキは深く息を吸った。
胸の奥の熱が、静かに落ち着いていった。
馬車に戻り、荷台へ座り直すと、森の奥への道がゆっくり続いていた。
木々の葉が揺れ、鳥の声がいくつも重なって消えていく。
「ナオキ」
「ん?」
「さっきね……胸がぎゅっとしたんだ。街を離れるのもだけど……それだけじゃなくて」
「うん」
「街の人たちがナオキに向けてた言葉。あれ聞いてたら……なんか、胸がいっぱいになった」
リヴは両手を膝の上に置き、ゆっくりと言葉を続けた。
「ナオキ、ずっとがんばってたじゃん。隣で見てたよ。あれ、全部ちゃんと届いてたよ」
ナオキは、どこから返したらいいのか分からなくなった。
胸の奥が少し痛くて、でも温かくて、言葉がうまく出てこなかった。
「ありがとう」
「ううん。……わたしも嬉しかったから」
森の奥へ進むほど、光は細くなり、かわりに風の音が強くなる。
葉が擦れる音がいつまでも続いていた。
森の奥に入るほど、光は細くなり、木々の影がゆるやかに重なっていった。
馬車はゆっくりと進み、車輪が湿った土を踏む音が一定のリズムで響いている。
「ナオキ」
リヴが声を落とした。
風が吹き抜け、彼女の髪が少し揺れる。
「向こうに着いたら……サロンの道具、全部見ようね」
「うん。壊れてるもの、ないといいけど」
「壊れててもいいよ。直せばいいから」
「直す、か」
「うん。直すのって、一緒にやると早いよ。工房の瓶詰めも、薬草の仕分けも……ナオキ一人じゃないから」
リヴは視線を前に向けたまま、小さく続けた。
「一緒に生きるって、そういうことだよね。どっちの生活も、一緒に整えるってことだと思う」
森の風が、静かに二人の間を通り抜けた。
その言葉は冗談にも聞こえたが、胸の奥にやわらかい芯のように残った。
「ありがとう。……本当に、ありがとう」
「うん。ちゃんと言ったね」
「また子ども扱いだ」
「だってナオキ、抱え込むから」
リヴは少し笑い、揺れる馬車の縁に指先をかけた。
森の奥へ進むにつれて、鳥の声が低く遠くなり、代わりに木々の擦れ合う音だけが続いた。
「ナオキ」
「ん?」
「街の人たちの顔……忘れないよね?」
「うん。絶対に忘れない」
「わたしも。あの人たち、また来るよ。絶対」
リヴの声は静かだったが、その静けさの中に強さがあった。
ナオキは短くうなずき、胸の奥の熱をそっと残したまま森の隙間から差す光を見つめた。
木漏れ日の先、道がなだらかに傾き始める。
湿った空気がふっと軽くなり、視界が開けていく。
「あ、丘だ。もう少しで拠点だよ」
リヴが指さした先に、馴染みのある斜面が広がっていた。
丘の向こうには、森の拠点がある。
二人にとっての通い慣れた入り口であり、もう一つの生活の玄関だった。
「帰ってきた、って感じがするな」
「うん。ここもちゃんと帰る場所だよ」
馬車は丘を登り、ゆっくりと頂へ向かって進んだ。
風が少し強くなり、木々の影が細かく揺れる。
馬の息づかいが白く揺れ、ナオキは手すりに軽く体重を預けた。
「ナオキ」
リヴの声が、揺れの中でもはっきり届いた。
「着いたら……地球に帰るまで、ちゃんと休もうね。体が疲れたままだと、気持ちも疲れるから」
「うん。そうするよ」
「サロンの道具も見ようね。ちゃんと動くか、一緒に確認しよう」
「ありがとう」
「ううん。ナオキの生活だもん。一緒に見たいよ」
リヴがそう言って微笑んだとき、胸の奥の緊張がすっとゆるんだ。
その笑顔は、街とも森とも違う、ナオキのために向けられた静かな光だった。
丘の向こうに、ついに拠点の森が見えてきた。
何度も出入りした場所なのに、今日だけは少し違って見えた。
「ナオキ」
「うん?」
リヴはそっとナオキの袖をつまんだ。
その仕草はいつもより少しだけ慎重で、静かだった。
「行こう。帰る場所も、戻る場所も……どっちも大事にしていこうね」
「うん。……大事にするよ。ちゃんと、どっちも」
リヴが満足そうに微笑む。
その顔を見た瞬間、ナオキの胸の奥が静かに落ち着いた。
森の風が、これから向かう二つの生活の間をそっとつなぐように吹き抜けた。
二人は拠点へ向かい、ゆっくりと最後の坂を下っていく。
街から届いた温度も、森の静けさも、
これから向かう地球の暮らしも――
すべてがひとつの線になって続いていく。
明日には、また別の生活が始まる。
でも、ここにも確かに帰る場所がある。
そのことが、何より心強かった。




