出発前夜
工房の梁に触れていた夕陽がゆっくりと消えていき、街に夜の気配が落ち始めた。昼間の熱を吸い込んだ木材は、夜風に冷まされながら、まるで大きな獣が息を整えるみたいに静かに落ち着いていく。どの家からも夕餉の匂いが漂い、気が抜けたような笑い声と、今日一日を語り合う声があちこちから聞こえていた。
ナオキは工房の柱に手を置き、深く深呼吸した。今日、あれだけの涙と笑顔に向き合ったのだから、心に疲れが残っても不思議はない。けれど、その疲れの底には、どこか満ちるような感覚があった。
(……地球のサロン、大丈夫かな)
冷蔵庫の低い唸り。買い置きの少ないトイレットペーパー。
あの六畳の部屋の光景が、胸の奥にひっそり戻ってくる。
思い浮かべると、胸の奥で微かな罪悪感と生活の匂いが同時に立ち上がった。
「ナオキ」
すぐ隣から声がした。リヴは梁を見上げていたが、振り返るまでもなくナオキの気持ちを読んでいた。
「そろそろ地球に戻る気なんでしょ?」
「……なんで分かるんだろうね、リヴって」
「息の抜け方で分かるよ。今日のは“戻らないといけない息”だったもん」
「息だけで判断するの怖いな……」
「だって隣にずっといるんだよ? 分かるよ」
リヴは深刻さなど一切なく、ただ目元だけで笑ってみせた。
「でも、今日の夜に急いで出なくていいよ。明日の朝でじゅうぶん。森の拠点までは五日でしょ?」
「うん。今日は休んで、明日の朝出ようと思ってた」
「そのほうがいいよ。街も工房も動きすぎたし、ナオキも“ちゃんと疲れてる”」
「ちゃんとって何」
「ちゃんとだよ」
リヴは小さくナオキの袖を引いた。
「ねぇ、ナオキ。これからも行ったり来たりするんだよ? 地球もこっちも、ナオキがいるほうがちゃんと動くの。だから、いちいち深刻にならなくていいんだよ」
「なんかプレッシャーあるな、それ」
「違うよ。これは“いつも通り”って意味」
胸の奥にしみるような言い方だった。
「じゃあ……明日の朝、出発する」
「うん。旅支度はわたしが全部やる。ナオキはぼーっとしてて」
「ぼーっとって……」
「だってナオキ、荷物の三割は忘れるもん」
「……否定できないのほんと悔しいな」
「ほらね」
リヴの肩が揺れた。笑っていた。
工房から離れると、街路は夕餉の匂いに満ちていた。煮込んだ豆の甘い香り、焼いた肉の香り、香草を刻む音。家々の窓から柔らかな光が漏れ、昼間泣いていた人々の顔が思い浮かぶ。
(みんな……明日も来るんだ)
街全体が“今日泣いた理由”を明日の希望に変えようとしているようだった。
「ナオキ、リヴ。おかえりなさい」
商会に戻ると、セラが大鍋を抱えて振り返った。昼間の涙の列を見たせいか、目元は少し赤い。しかし表情には、どこか強い誇りがあった。
「ただいま、セラさん」
「ご飯できてるから、座って座って。今日の街、本当にすごかったわね」
テーブルではラナが布を整えていた。彼女もまた、昼間の空気を引きずったまま、どこか興奮気味だ。
「ナオキさん、見たよ! 列が街の角まで伸びてた! あんなの初めてだよ!」
「うん……すごかったね」
ヴァルターは椅子にふんぞり返り、汗を拭きながらこちらを見た。
「お前ら、座れ。話したいことは山ほどあるが……まず飯だ」
広げられた皿の上には煮込みとパン、香草の和え物。どれも家庭の味が強くて、商会主の家らしい温かさがあった。
「いただきます」
スープを口に含んだ瞬間、身体の芯に温かさが落ちていく。昼間の緊張がひとつひとつほどけるようだった。
「……で、ナオキ」
ヴァルターが湯飲みを置く。
「明日の朝、森の拠点に向かうんだな?」
「ああ。五日かけて向かうよ。そこから……地球の生活に戻る」
「いつも通りに戻ってくるんでしょ?」
リヴがさらっと補足する。
ヴァルターは安心したように息を吐いた。
「なら問題ねぇ。お前の帰る場所は、こっちでも作っちまったからな」
「……ありがとう」
「当たり前だ。街があれだけ動いた日に、主役がいなくなったら困る」
「主役って……」
「そうだよナオキ」
ラナがパンをちぎりながら言う。
「だってあの看板、ナオキが出したんでしょう? 探せばできる形はあるって言われた人たち、みんな泣いてたよ」
ナオキは胸が詰まった。
自分ではただ思いついてやっただけのことなのに、誰かにとっては救いの形になっていた。
「ナオキ」
セラが微笑む。
「向こう……寒いんでしょう? 冬に帰るなら厚着しないとだめよ。あなた細いもの」
「うっ……はい」
ラナがくすっと笑った。
「ナオキさん、細いよね。風に飛ばされそう」
「飛ばないよ……」
「飛ぶよ」
「飛ばない!」
食卓に笑い声が広がった。
その笑いは、昼間の涙と同じくらい胸に刺さる温度を持っていた。
外はすっかり夜になっていた。商会の家の窓からこぼれる灯りは、揺れる蝋燭ではなく油皿を使った柔らかい光だ。ゆらゆらと壁に影が映り、ヴァルター家の文化が静かに息づいているのが分かる。
スープの鍋を下げたセラが台所に向かうと、ラナも皿を手に取りながら小走りでついていく。木の器が重ねられる音、香草を刻む刃の音。それらはこの家にとって“変わらない日常”なのに、今日はどこか明るいリズムがあった。
「ナオキさん、明日出発なんでしょ?」
ラナが戻ってきて椅子の背に手を置いた。
「うん。明日の朝、馬車に乗って出るよ。五日くらいの旅だね」
「五日……ながいよね。でも帰ってくるんだよね?」
「あったり前でしょ」
リヴが先に答えた。
「ナオキは行ったり来たりするんだよ。どっちも生活なんだから」
「ふたりの生活って……なんかかっこいい……」
ラナは胸に手を当て、憧れ半分、心配半分の顔をした。
ヴァルターが机の上に放り出した図面を片づけながら、ふと声を潜めた。
「ナオキよ。お前の向こうの暮らしは、大丈夫なんだよな?」
「まぁ……ギリギリですね」
「ああ、お前んとこは物価が高いと言っていたな……」
「まぁ……そんな感じです」
「金策は?」
「いろいろです、なんとか……」
「そっちの国も面倒なんだな」
「……はい」
ヴァルターは大きく笑う。
「よし。なら帰りやすいように……馬車手配は任せろ。明日の朝には入口に回しておく」
「ありがとう」
セラが湯飲みをふきながら言う。
「ナオキ、旅のあいだ食べる物ちゃんと持っていくのよ。あなた、忙しいと食べるの忘れるでしょ」
「ぐ……なんで分かるんです?」
「母親をやってるとね、食べない顔って分かるのよ。あなた、昼間ぜんぜん食べてなかったもの」
「だって面接が……」
「そうやって理由をつけるのが危ないの」
リヴが横で同じように腕を組む。
「セラさんの言う通りだよ。ナオキ、寒い国帰るのに体力なかったらだめだよ」
「だから地球そんな北国じゃないって」
「いつも寒いって言ってるじゃん」
「いや、あれは……」
「ナオキ。細い体して謎の見栄いらない」
「……リヴ、今日ちょっと強気じゃない?」
「街ががんばった日だから、わたしも強気なの」
ラナが笑いながら布をたたんでいた。
食卓を片づけ終えると、宿舎の奥の廊下から薪の匂いが流れてきた。暖炉の残り火が、まだ赤い光を放っている。
「じゃあ、旅支度始めよっか」
リヴが髪を結び直して言う。
「手伝う!」
ラナがすかさず手を挙げる。
「ラナ、今日ずっと動いてたんでしょ? 疲れてないの?」
ナオキが心配すると、ラナは勢いよく首を横に振った。
「疲れてても平気! ナオキさん出発なんだよ? 送れるところまで送らせてほしい!」
「送るって、ええと……ここ二階だけど?」
「き、気持ちの問題だよ!」
リヴがほほえみながら荷袋を広げた。
「ラナ、瓶を布で包んでほしいの。揺れると割れるかもしれないから」
「まかせて!」
ラナは机に並べられた手吹きガラスの瓶をひとつずつ丁寧に布で包み始めた。職人が吹いた独特の凹凸、光を受けたときの淡い反射、それをじっと観察しながら包む姿は真剣そのものだった。
「ナオキ、そっちは?」
「持ち帰る物の確認してる。アロマ用の素材……」
「素材はもう大丈夫。入れた」
「早いな……ほんとに便利だよね、その……」
「片づけ魔なんだよ、わたし」
「ふぅん。ラナも片づけ苦手だから、リヴに習ったほうがいいんじゃない?」
「むっ……わたしだって、やればできるもん」
ラナがむくれたように唇を尖らせると、リヴはくすりと笑った。
「ラナはできるよ。今日のパンだって上手だったし」
「えっ……ナオキさん食べた?」
「食べたよ。美味しかったよ」
「わ……よかったぁ……!」
ラナは安堵の顔で胸をなでおろした。
窓の外からは、街の夜の音が細く届いている。
乾物屋の女将の笑い声、鍛冶屋の火を落とす音、井戸端で話す老人の低い声、どれも文化としての生活の音だ。
「ねぇ、聞こえる?」
リヴが窓に近づく。
「外の声?」
ナオキも耳を澄ませた。
「今日、並んでた人たち……また明日来るんだよね」
ラナがぽつりと言った。
「うん。あの列は今日で終わりじゃない。明日からが本番だよ」
ナオキが答える。
「なんかさ……嬉しいけど、ちょっと怖いね」
ラナは窓枠を撫でた。
「街全体が変わってるの、初めて見るから。泣いてた人が笑ったりして……」
「わかるよ」
リヴがそっと肩に手を置く。
「でも、それって悪い変化じゃないよ。前に向かう変化だよ」
ラナは頷き、窓の外の揺れる灯りを眺めた。
「……明日も、みんな来るんだね」
「うん」
ナオキは深くうなずいた。
「それが、始まりなんだ」
夜気がさらに冷えて、宿舎の窓ガラスが薄く曇った。外の街路には油皿の灯りがひとつずつ残り、家々の扉が閉じられ、鍛冶屋の煙突からはまだ暖かい湯気がたなびいている。街そのものが今日の出来事を噛みしめるように静かに深呼吸していた。
リヴは窓から離れ、荷袋の口をもう一度開いて中身を指先で確かめた。
乾燥した香草、手吹きガラスの瓶、旅用のケープ。順番に触れながら、息をひとつ整える。
「ナオキ」
結びかけた紐を握ったまま、リヴが振り返る。
焚き残りの火の光が、彼女の横顔にやわらかい影を作っていた。
「前はさ……旅って命がけだったんだよ。街と森の間なんて、盗賊も獣も出るし。ひとりじゃ絶対に無理だったよ」
リヴは少し笑い、でもその奥に昔の緊張が残っているようだった。
「でも今は……ナオキのおかげで、街と森を安心して行き来できるようになったんだよ」
ナオキは苦笑しながら首を振った。
「いやいや……全部、リヴの才能と努力だよ。俺なんかよりずっと」
リヴは一瞬だけ目を丸くした。
そのあと、少しだけむっとしたように頬をふくらませる。
「違うよ。ナオキがいたからだよ」
彼女は紐を握ったまま、少しだけ前に出る。
「ナオキが一緒にいてくれるだけで、魔法も旅も……変わったんだよ。
うまく言えないけど……ナオキの影響、大きいよ?」
「影響?」
「うん。こういうときは落ち着くとか、危ないときは怖がっていいとか。
ひとりで抱え込まないとか。
……そういうの、ナオキに教えてもらったの」
リヴは少し照れたように視線を落とした。
「なんかもう……いまのわたし、けっこうナオキの影響なんだよ?」
ナオキは息を吸って、そっと笑った。
「……そんな大げさな、一緒に生活していただけだよ」
「でも、変わったよ。わたし、昔よりずっと強くなったと思う」
リヴは胸に手を当てる。
「ナオキと魔法を覚えて、一緒に森を歩いて、街を歩いて……そのたびに、ちょっとずつ怖くなくなった。あれ、全部ナオキのせいだからね」
「……せいって言われると、なんか悪いことしたみたいだけど」
「いい意味で、だよ」
リヴは指先で荷袋を軽く叩き、ほんの少し笑った。
「だから、ナオキ。旅も前よりずっと平気なの。
だって……もうひとりで旅してる気がしないんだもん」
その言葉には、夜の静けさより深い温度があった。
ナオキは少しだけ言葉を失い、
それから静かに返した。
「……ありがとう。そう言ってもらえると、嬉しいよ」
「わたしもね……言えてよかった」
「だって、本当に慣れてきたんだよ。前より疲れなくなったし、馬車の揺れも気にならなくなった」
「でも……ナオキは細いんだから」
また細い問題である。
そこへ、ラナが布に包んだ瓶を持ち上げて頑張った声をあげた。
「ナオキさん、これ全部包んだ! どう? 割れないと思う!」
「おお……丁寧だね。ありがとう」
ナオキが頭を撫でると、ラナは耳まで真っ赤にして硬直した。
「わっ……な、ナオキさんに頭なでられた……!」
「そんなに珍しい?」
ナオキが苦笑すると、ラナは両手で頭を押さえたまま首を振る。
「べつに珍しくないけど……うれしい……!」
リヴがじっとラナを見て、ひそかに胸の内で笑った。
(ふふ、ラナったら素直でかわいい……)
「ラナ」
リヴが声をかける。
「ん?」
「ナオキはね、わりと無自覚に優しいから、慣れすぎるとぎゅーんってなるよ」
「ぎゅーん……?」
「胸がへんな感じになるやつ」
「う、うん……なんか分かる気がする……」
「リヴ、変なこと教えないで」
ナオキが抗議すると、リヴは頬をつつんで上目遣いになった。
「だってほんとのことだし」
そんなやり取りにもラナはころころ笑い、荷袋の紐を結んでまた次の仕事を探し始める。今日のこの家は、街全体の緊張が嘘のように明るく柔らかかった。
薪の弾ける音が、宿舎の天井に跳ね返り、階段の手すりを撫でるように降りていく。夜は徐々に深く、静かに沈み、呼吸の音まで聞こえるほどだ。
「そういえば……」
ナオキが暖炉のそばに腰を下ろしながら言った。
「ヴァルターは……明日、見送り来てくれるのかな」
「来ると思うよ」
リヴが答える。
「だってあの人、街の誰よりもナオキの旅にうるさいし」
「うるさいって……」
「うるさいよ。すごく心配してたもん。今日の面接の列の途中で、お前に声かけようとしてためらってたし」
「え、ヴァルターさん、そんなそぶりあった?」
「あった。あれ気づいてないナオキがすごいよ」
「俺は気づかないことに特化してるから」
「胸張るところじゃないよ」
リヴが肩を落とす。
ラナが椅子に座り、足をぶらぶらさせながら言った。
「お父さん、ナオキが街に来てからずっと嬉しそうだったよ。家でこんなに表情変わるの初めて見たもん」
「そんなに?」
「うん。お父さんって普段、仕事の顔ばっかりでしょ? でも今日は……お父さん、なんかちょっと若い顔になってた」
ナオキはその言葉に力を失ったように息を漏らした。
「なんか……申し訳ないな」
「なんで?」
ラナが首をかしげる。
「だって……俺、街に何かやろうと思って来たわけじゃないんだ。ただ追い詰められて店開いただけだし」
口にしてみて初めて、胸の奥が少し重くなるのが分かった。
リヴはその気配にすぐ気づく。
「ナオキ」
リヴは静かに近づき、膝をついて目線を合わせた。
「今日……並んでた人、泣いてた人、笑った人、その全部が動いたのは、ナオキのせい“じゃない”。」
「じゃない……?」
ナオキは思わず聞き返す。
「ナオキの“せい”じゃなくて、ナオキの“おかげ”なんだよ」
リヴの言葉は強くなく、でも揺るぎなかった。
淡い焔に照らされたその横顔は、感情よりも確信で満ちている。
「街はね、ずっと誰かに動かしてほしかったんだよ。誰でもよかったんじゃない。ナオキがよかったんだよ」
「……買いかぶりすぎだよ」
「そんなことないよ」
リヴはすぐに否定した。
「ナオキは、自分が開けた扉を大したことないって言うけど……扉がないと、誰も入れないんだよ。入り口がないと、誰も未来に行けないんだよ」
静かな部屋に、リヴの声だけが真っ直ぐ伸びた。
「ナオキがやったことは、その“入り口”なんだよ。街の人たちが泣くぐらいに欲しかった入り口を、ナオキは置いたの」
ラナまでが、そっとナオキの肩に触れた。
「……わたしも、そう思うよ」
ナオキの胸の奥がじんわりとほどけていく。
気づけば両手がひざの上で震えていた。
「……ありがとう。そう言ってくれて」
リヴはふわりと笑った。
「ナオキってね、自分に一番厳しいんだよ。もっと優しくしていいんだよ」
「……考えてみるよ」
「考えなくていいよ」
リヴは言葉を重ねた。
「優しくしなきゃだめ、ってことだけ覚えておいて」
あまりに真っ直ぐで、ナオキは笑いながらうつむいた。
「うん……わかったよ」
ナオキは暖炉の火を見つめた。
赤い残り火が沈んでいくほどに、明日の旅と地球の生活のイメージが頭にゆっくりと浮かぶ。
(……よし。明日からしっかり行こう)
夜が深まり、宿舎の外では街灯代わりの油皿が少しずつ消されていく。残った灯りがまばらになり、街は静けさと余熱をまとった眠りへ沈んでいく。
ナオキは廊下に出て、軋む床をゆっくり歩いた。宿舎の二階から見下ろす街は静かだが、今日あった出来事の熱が夜気にまだほんのり残っているようだった。
泣き崩れた母親。袖を握って震えていた孤児。読み書きができないと泣いていた少女。それらを包むように揺れていた街の空気が、今もどこかで脈打っている。
(……すごい一日だったな)
ナオキがぽつりと呟いたとき、階段の方から軽い足音がした。
リヴが夜着の上に薄い羽織をまとうようにして現れた。髪をまとめず降ろしたままなのは、もう寝るつもりだったからだろう。
「ナオキ、どこ見てたの?」
「街。なんか今日は……静かだけど、静かじゃないというか」
リヴはナオキの横に立つと、同じように街路に目を向けた。
風が家々の屋根に当たり、乾いた木の壁を渡り歩いていく音がやさしく響いた。
「街が呼吸してるみたいだね」
リヴが言った。
「うん。今日……変わっちゃったからね」
「変わったよ。たぶん、ずっと変わらなかったところまで」
リヴの声は小さいけれど、確信を含んでいた。
しばらく無言で二人並んで立つ。
夜風がリヴの髪を揺らし、それがナオキの肘にふわりと触れた。
その一瞬が、どうにも胸にひっかかった。
「リヴ」
ナオキは思わず口を開いた。
「……ん?」
「今日さ……俺、ちょっとだけ思ったんだ」
リヴが横顔を向ける。
目だけが月明かりを受けて静かに光った。
「工房のことも、街のことも、あの列のことも……全部“誰かの生き方”だったなって」
「うん」
「だから……軽く言えないなって。これから工房を動かしていくのって……ほんとに簡単じゃないんだろうなって」
リヴは少し目を細めた。
「ナオキ、今日ずっと気を張ってたよね」
「そうかな」
「そうだよ。わたし、ずっと隣で見てたんだよ」
リヴは小さく息をついた。
「並んでいた人の顔、全部見ちゃったでしょ。泣いてた人、笑った人、諦めてた人、震えてた人……全部背負っちゃうじゃん」
「……そんなつもりじゃなかったけど」
「そういう性格だから、仕方ないよ」
リヴはくすりと笑ってみせた。
「でもね、ナオキ」
「ん?」
「背負ったなら……背中を支える人がいるって思って」
ナオキは目を瞬いた。
「支える人?」
「うん。わたしも、ヴァルターも、セラも、ラナも。
この街の人たちも……たぶん気づかないうちにナオキを支えるよ」
「俺を?」
「そうだよ。ナオキだけが街を変えてるわけじゃなくて、街もナオキを変えてるんだよ」
その言葉が胸に深く染み込んだ。
街の泣き声も、笑い声も、今日感じた熱も、そのまま自分の背中を押していたのだと。
ナオキはようやく理解し始めていた。
「……ありがとう、リヴ」
「なにが?」
「なんか……気づけてなかったことを、気づかせてもらった気がする」
リヴはふわりと笑った。
その笑顔はやさしく、まっすぐで、昼間の工房の炎のように温かかった。
「ねぇ、ナオキ」
「うん?」
「しばらく街から離れるの、さみしいね」
その言葉はあまりに自然で、胸の奥が少しだけ熱を帯びた。
離れる対象は街であって、ナオキではない。そこが大事だった。
「工房、今日あんなふうに動き出したばかりなのにさ……
しばらく見られなくなるのって、ちょっとだけ……さみしい」
リヴは柵に手を置き、建設中の工房を見つめる。
「でも、一緒に行くからね? ナオキだけで行かせるわけないし」
「もちろん。一緒に行こう」
「うん。だから、“ナオキの心配”はしないよ。わたしが横にいるし」
当たり前みたいに言い切るその声に、胸が軽くなる。
「ただ……」
リヴは少しだけ視線を落とした。
「みんなの顔が見られないのがさみしいだけ」
そのさみしさは、弱さではなく優しさだった。
「……リヴは強いよ」
「強くないよ?」
リヴはすぐに否定した。
「街が動き始めたのに、その続きが見られないって思ったら……胸がぎゅってするもん」
「そっか」
「でも、また戻ってくるからね。戻ってきて……街が今日よりもっと明るくなってたら、きっと嬉しいよね」
リヴはそう言って、ナオキの袖をそっとつまんだ。
やがてリヴがそっと言った。
「戻ろう。寝ないと明日が大変だよ」
「そうだね。早起きしないと」
二人は静かに歩き出し、宿舎の廊下を歩く。
暖炉の火はもうほとんど消えかけ、赤い残り火が弱々しく揺れているだけだった。




