閑話:続 街がざわめいた日
朝日がまだ昇りきらない薄明かりのころ、
工房予定地の前にはすでに十数人の男たちが立っていた。
棟梁ケルドが腕を組み、
古びた倉庫を見上げて鼻を鳴らす。
「……見た目はボロだが、骨組みは悪くねぇな。
床を組み直せば、なんとかなる」
隣で木工職人のドランが首をかしげた。
「本当に“縫い子の工房”になるのか?
この倉庫、冷えるし暗ぇぞ」
「だから暖炉を二つ増やすんだ。
あとは天窓だな。光が入れば気持ちも変わる」
ケルドはそう言うと、背後を振り返る。
そこには……
昨日の夜に列を作っていた人々の一部がいた。
年配の女性、子どもを抱えた母親、
幼い兄妹を連れた少女、
細い腕をした少年……
みんなが控えめに倉庫の前に立ち、
期待と不安が入り混じった顔をしている。
ケルドは眉を上げた。
「……なんでお前らがここに?」
すると年配の女性が、
手をぎゅっと握りしめながら言った。
「その……働けるようになる前に、
“場所”を見ておきたくて……」
隣の母親も続ける。
「わたし……裁縫なんてしたことないけど……
働ける場所ができるなら……信じたくて……」
少年が恥ずかしそうに一歩前に出る。
「オレ……読み書きできないんだけど……
ここで……勉強できるんだろ……?」
ケルドの喉の奥が少しだけ震えた。
「……まだ形にもなっちゃいねぇのに、
よくこんな朝から来たな」
年配の女性が笑った。
「形なんてなくても……
“ここで生きられるかもしれない”って思ったら、
来たくなっただけさ」
ケルドは照れくさそうに頭をかいた。
「そんな目で見られたら、手を抜けねぇな……」
そこへヴァルターが商会の者を連れてやってきた。
「ケルド、今日から全工程を同時進行で進める。
昼までに床、午後は壁の補強。
明日は窓と暖炉。それで三日目には屋根だ」
「ずいぶん急だな」
「列を見たろ。
一人でも早く働かせてやりたいんだ」
ヴァルターの視線が、工房の前に立つ人々に向く。
母親たちは会釈し、
子どもたちはぎこちなく頭を下げた。
ヴァルターは穏やかに言った。
「工事は危ない。
今日は見学だけにしておけ。
もう少ししたら、中も案内する。
安心して働けるように、必ず整える」
人々の顔に、ほっとした影が浮かぶ。
その様子を見て、ケルドは小さく呟いた。
「……おめぇが“親父みたい”なんだよ、商会長」
「茶化すな」
「茶化してねぇよ。
あの列の顔見たろ? あれは“頼ってる顔”だ」
ヴァルターはわずかに目を伏せた。
「……頼られるなら、応えるだけだ」
ケルドは笑う。
「なら、俺らが全力で建てるだけだな」
そのころ商会本部では――
事務長グラーベルと数名の部下が山のような書類に囲まれていた。
「裁縫台二十台、台座の木材はケルドに回したか?」
「回しました。
あとは領主館から“読み書きのできる者”の名簿が届きました」
「よし、教師候補として面談する。
孤児院側とも調整を急げ」
「はい!」
「募集者の名簿は?」
「こちらです。昼で二百五十名を超えました」
「……全員は雇えんが、
優先は“子どもを抱えた者”と“働き口のない者”だ」
部下が恐る恐る確認した。
「賃金は……日払いで本当に良いんですか?」
「良い。
明日食べられない者が、今の街には多すぎる。
まずは“今日を生きさせる”。
それが工房の第一義だ」
「……本当に……商会の仕事なのですか?」
グラーベルは書類から顔を上げ、
静かに笑った。
「これは商売じゃない。
だが、商売より大きく街を豊かにする。
だから商会がやるんだよ」
工房建設の現場では、
子どもたちがケルドに声をかけていた。
「棟梁のおじさん! 手伝ってもいい?」
「危ねぇからダメだって言ってんだろ」
「ちぇー」
「でもな……
床ができたら“ここがあんたらの場所だ”って、
胸張って言えるようにしてやるよ」
少年はぱっと顔を輝かせた。
「本当に?!」
「ああ。本気だ」
母親たちは手を合わせて頭を下げる。
「いつか……働ける日を、楽しみにしてます……」
ケルドは苦笑しながら大声を上げた。
「おい! 床材持ってこい!
この街の女と子どもが歩く床だ!
板一枚にも手を抜くな!」
職人たちが「おうッ!」と声を返し、
次々に板を運び込む。
倉庫の中には、
金槌の音、木を削る音、
男たちの掛け声が重なり、
温かい熱気が満ちていた。
その様子を少し離れた場所から眺めていたのは――
ギルド受付嬢ミーナだった。
昨日、ギルド前にできた“果てしない行列”だけでなく、
こうして工房建設が進んでいくのを見て、
胸がじんわり温かくなる。
(……街中が……動いてる……)
(ギルドが、商会が、職人さんたちが……
まるでひとつの大きな手みたいに、
誰かを支えてる……そんな感じ……)
ミーナの隣で、同僚の受付嬢サーシャが呟いた。
「なんか……いいよね。
誰も怒鳴ってないし、
誰もズルしてないし……
こんな建築現場、見たことないよ」
ミーナも笑った。
「うん……
なんだか“街が育つ音”がしてる……」
二人はしばらく、
木槌の音に耳を澄ませていた。
夕方。
ケルドが汗を拭い、ヴァルターのもとへ歩み寄る。
「商会長。
今日で床の半分は仕上がる。
明日で全部いける。
そのあと壁と天窓と暖炉……
予定より早く進むぞ」
「理由は?」
ケルドは豪快に笑った。
「街の連中が……
“あんたが作ろうとしてる工房で働きてぇ”って言って、
昼飯を差し入れしてくるんだよ。
その勢いで、職人の手が止まらねぇんだ」
「……そうか」
ヴァルターは小さく息を吐いた。
「街が……動いてるな」
「動いてるどころじゃねぇ。
まるで“新しい橋”を作ってるみてぇだよ。
渡るのは女と子どもだが、
橋を作るのは街の全員だ」
ヴァルターは頷いた。
「……この街に必要なのは“支え”だ。
踏み外した者を責めるのではなく、
もう一度歩ける場所を作ること」
「それをやるのが、あんたで……
その相棒がナオキってわけか」
ケルドは腕を組む。
「……あいつ、普通じゃねぇな。
言ってることは未来すぎて理解が追いつかねぇのに……
やってることは妙に“人間くせぇ”」
ヴァルターは苦笑した。
「十年早いどころじゃない。
百年早い。
だが……だからこそ価値がある」
ケルドは木屑を払いながら呟いた。
「……いい街になるぞ、これは」
倉庫の入口付近では、
また別の母親たちが集まっていた。
「うちの娘……やっと働けるかもしれない……」
「子どもを預けられるなんて、初めて聞いた……」
「読み書きなんて……夢のまた夢だったのに……」
彼女たちは、
職人たちの作業を泣きそうな顔で見つめていた。
その背中を、ミーナがそっと見守る。
胸があたたかくなり、
同時に少し涙がにじんだ。
(……街が、変わるんだ……
ほんとに……)
夜が来るころ――
ケルドたちは作業を終え、倉庫の前で焚き火を囲んでいた。
「明日は壁だな」
「天窓も開けるんだろ?」
「暖炉も二つ作るってよ」
「なんか……楽しみになってきたな」
ケルドは頷く。
「……工房が完成したら、
街の“冬の風”まで変わる気がするな」
職人たちが笑う。
「変わるのは街だけじゃねぇ。
俺たちの仕事も変わる!」
「女も子どもも働ける街なら……
治安もよくなるだろうな」
「子どもが読み書きできるようになったら……
未来が違ってくる」
焚き火に照らされた彼らの顔は、
どこか誇らしげだった。
工房予定地の前では、
今日も母親たちが静かに祈っていた。
「どうか……明日も工事が進みますように」
「娘が……ここで働けますように」
「子どもが……文字を読めるようになりますように……」
その声は小さく、かすかだったが、
確かに夜の空気を震わせていた。
そして――
その祈りを聞くように、
工房の骨組みは少しずつ形を見せ始める。
まだ壁もない。
まだ屋根もない。
ただの作りかけの建物。
それでもそこには――
街の誰もが知らなかった“希望”が、
ゆっくりと息づいていた。
明日になれば、
また木槌の音が響くだろう。
あさってになれば、
窓から光が差し込むだろう。
そして一週間もすれば、
“初めて働く誰か”が笑顔を見せる日が来る。
街の中心に、
まだ名前すらない小さな工房が立ち上がろうとしている。
その工房は――
未来への入口になろうとしていた。
夜風が静かに吹いていた。
工房予定地の前には、仮の垂れ幕が張られ、
昼間は職人たちが土埃を巻き上げながら作業していた場所も、
今は焚き火の赤い光で揺れている。
木枠だけだった入口は、
もう扉がつきかけており、
暖炉も一つ目がほぼ完成している。
天窓からは、夜空の星がのぞいていた。
工事が終わってもなお、
街の人たちは帰らなかった。
母親、子ども、少女、少年、老人。
様々な人が、工房の前で座り込み、
明日を待つように火を囲んでいる。
ケルドが作業台を片づけながら、
ため息のような笑いを漏らした。
「……家に帰らねぇのか、お前らは」
年配の女性が、膝を抱えたまま答える。
「帰ったって眠れやしないよ。
ここが気になって仕方ないんだからねぇ」
母親が続ける。
「工房ができたら……
本当に……働けるんでしょうか」
ケルドは肩をすくめる。
「働けるように“作ってんだよ”。
心配すんな」
少女が火の前にしゃがんだ。
「……ここで、字、覚えられる……?
本当に?」
「覚えられるさ。
先生を商会が探してる」
少女は焚き火を見つめながら、
夢を見ているように笑った。
「字がわかれば……
旅の本も……読めるのかな……」
母親が娘の肩を抱いた。
「読めるよ……きっと読める」
ケルドは目を細める。
「……そうだな。
本を読めるガキが増えりゃ……
街も変わるだろうよ」
夕暮れからずっと工房の前にいたミーナは、
控えめに人だかりのそばに座り込んでいた。
制服は汚れてひざが冷えているのに、
帰る気になれなかった。
(……不思議だな……)
(わたし、ギルドの人間なのに……
工房の完成が……こんなに嬉しいなんて)
ミーナは焚き火に手を伸ばしながら、
胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。
(きっと……
この場所に関わる人はみんな……
なにかを取り返したいんだ)
仕事を失った母親。
読み書きのできない子ども。
夫に先立たれた女性。
弱い体で外仕事ができなかった男の子。
この街では“生きること”がいつもギリギリだった。
だけど今、
そのギリギリを支えるための場所ができようとしている。
(……ほんとに、いい街になりそう……)
そう思った瞬間、
ミーナの目に涙が浮かんだ。
サーシャが気づいて、そっと肘で突く。
「ちょっと、ミーナ。泣いてるの?」
「な、泣いてない……!」
「泣いてるじゃない。ほら、ほっぺ濡れてる」
「……これは……違うの……」
「どう違うの?」
ミーナは少しだけ笑った。
「……なんか……
街が、いいほうに動いてるのが……
うれしいだけ……」
サーシャは優しく頷いた。
「ミーナは優しいね」
「違うよ……
ただ……この場所で働きたいって
必死に列を作ってた人たちの顔……
忘れられないだけ……」
ミーナはこぼれる涙を袖で拭いた。
その頃――
商会本部では、グラーベルが紙束を机に叩きつけていた。
「書類が終わらない!!」
若い事務員が崩れ落ちる。
「店主さまぁ……
これ……今日中に……全部確認……ですか……」
「当然だ。工房は“明日”だぞ。
働く者の名簿、託児希望者、学びの部屋の希望者、
全て分類して、部署ごとに振り分けるんだ」
「店主様……寝てください……
もう、夜です……」
「眠いが寝る時間がない!
街中が動いてるんだぞ!
商会が止まるわけにはいかん!」
その勢いに、食堂の職員が鼻をすすった。
「明日の給食……
何人分作ればいいんでしょうか……」
グラーベルは書類をめくりながら答える。
「見込みは三百だが、
万が一足りなくても困る。
五百人分作れ」
「ごひゃ……!?」
「スープでなんとかなる!
味は後から改善する!」
食堂全員が泣きながら頷いた。
「あんなにも……
子どもたちが列を作ってたんです……
食べさせてあげたいですよね……」
「その意気だ!
明日は戦場だぞ!」
街のあちこちでも、
工房の噂が広がっていた。
井戸端では、水を汲む女性が語り合う。
「見た? 工房……明かりついてた」
「うちの子、働けるかな……
字も読めないから……」
「読み書き教えてくれるんだってよ」
「ほんとに?
嘘じゃない?
そんな場所、この街に一度もなかったのに」
「嘘をつく人じゃないらしいよ。
あの異国の青年」
「ああ……ナオキさんだっけ……
あの人、ほんとに……名前は内緒だったね」
洗濯場では別の会話が生まれていた。
「あんたのとこ、明日工房に行くの?」
「行くよ。
働けるかどうかなんて後でいいんだ。
まず“並びたい”んだよ」
「気持ち分かるわ……
とにかく行ってみたいよね……」
孤児院でも、
子どもたちの声が明るかった。
「ねぇ、ねぇ、絵本読めるようになるかな!」
「ぼくも字読めるようになったら……
冒険者の手記……読める?」
院長は涙を隠すように目をこすった。
「……誰かが……
こんな未来をくれるなんて……
本当に……ありがたい……」
そして――
工房の前では、ヴァルターがひとり残っていた。
夜空を見上げながら、
静かに呟く。
「……ナオキ。
お前が言った通りだな……」
街の人々が、
昼も夜も関係なく工房の前に集まり、
未来を待っている。
「支えるべき相手が……
こんなにいたとはな……」
ヴァルターは煙草の火を踏み消し、
暗い空に向かって目を細めた。
「……お前となら……
本当に街を変えられるかもしれん……」
そのすぐ近くで、
リヴとナオキが火のそばに立っていた。
「……ナオキ」
「ん?」
「工房って……
こんなに……人を動かすものなんだね……」
リヴは焚き火を見つめながら続ける。
「森でひとりで生きてたとき……
こんな光景、想像もしなかった……
“工房ができるだけで街が変わる”なんて……」
ナオキはリヴの頭を軽く撫でた。
「変わるよ。
人が“生きたい”って思うだけで、
街は動き出す」
リヴの目が、焚き火の光で揺れる。
「……ねぇ、ナオキ」
「ん?」
「明日……最初の“縫い子さん”が来るんだよね?」
「たぶんな。
たくさん来ると思う」
「そっか……
だったら……
わたし……工房の入口を掃除しておく」
「今からか?」
「うん。
だって……
ここから“未来”に入るんだからさ」
ナオキは少し笑い、
リヴとともに工房の入口を歩いた。
星空の下、
まだ完成していない工房の前に立つと、
心の奥で何かがざわりと動く。
(……ここから、始まる……)
ナオキはそっと扉に手を置いた。
「明日……良い日になるよ」
リヴも同じ場所に手を重ねた。
「うん……
みんなの……
“最初の一歩の日”だから」
二人はしばらく、
工房の前で静かに立ち尽くしていた。
あたりは夜の静寂に包まれ、
遠くで夜鳥が鳴くだけ。
――それでも、
その静けさの奥には、
確かに“明日のざわめき”が眠っていた。
街全体が、
明日を待っていた。
工房が、
街の人の“明日”を変える日を。




