夏は夜。
【恋も文学も、さらなり】
夏は夜。月のころはさらなり。
清少納言はそう書いた。
──だが、彼女はたぶん蚊に刺されたことがない。
六月の夜。
東京帝国女学院寄宿舎の三号室。
藤己澄子は、布団の上で寝返りを七十二回ほど打っていた。
理由は、暑さ。うるささ。そして、胸の奥でざわつく得体の知れない心持ち。
「澄子、寝なさいよ……」
隣のベッドから愛子がうめく。
「寝ようと思っておりますの。でも、夜が詩的すぎて眠れませんの」
「夜のせいじゃなくて、あなたの性分よ」
「文学少女は、夜に育つものですのよ」
「蚊もね」
ぱちん、と音がした。愛子が蚊を一匹仕留めたらしい。
澄子は少しうらやましくなった。自分も何か仕留めたい気分だった。できれば、胸の中でぐるぐるしている“この気持ち”を。
春が終わって、夏がきた。
澄子、十五歳と半年。恋を少し知り、手紙を書きすぎて親に注意されたばかり。
それでも、書きたい。恋したい。眠れない。
夏は夜。月のころはさらなり。
──ただし、寝不足の翌朝は最悪である。
【理系男子と文学的化学反応】
七月。
帝国女学院に珍しく男子の影が差した。
とはいえ、恋愛ドラマ的な登場ではなく、「理化学実験の助手として短期派遣」された理科専門学校の学生だという。名前は鮎川秀雄。
白衣、眼鏡、静かな笑い方。まるで人間版・顕微鏡。
だが、藤己澄子は見逃さなかった。
──白衣のすそからのぞく、文学的な手首。
「澄子、それ理系男子だからね。文系のあなたとは住む世界が違うの」
「でも、月だって太陽の光を借りて輝くんですのよ」
「意味がわからない」
理科実験の日、鮎川が試験管を振るたびに、澄子の胸もふるえた。
「反応してるのは試薬じゃなくて、あなたのホルモンね」と愛子。
「違います、文学的化学反応ですの!」
「つまり恋」
「違います!」
とは言いつつ、その晩、澄子はノートにこう書いた。
夏は夜。白衣の袖が月光のように見えました。
化学の炎よりも、わたくしの心が赤く燃えております。
つまり恋だった。
【愛と硫酸の境界】
理科室での実験授業。
テーマは「酸化と還元」。
だが澄子の頭の中では「恋と冷静の化学式」が暴走していた。
「藤己さん、試薬の分量は?」と鮎川。
「えっ、はい、愛情を少々──じゃなくて、えっと、硫酸をたっぷり!」
「硫酸は少しにしておきなさい。危険ですよ」
「いいえ、愛は惜しみなくですわ」
愛子が頭を抱えた。「澄子、あなたの脳みそが酸化してる」
だが、鮎川は笑った。
「面白い人ですね」
その一言で、澄子は爆発した。
比喩ではなく、試験管の中で泡が噴き出したのだ。
実験終了後、理科室は軽く修羅場となった。
澄子は反省文を書く羽目に。
そして澄子が気合を入れて提出した反省文は──
題名:「愛と硫酸の境界について」。
── 学院長から反省文の追加が澄子に言い渡された。
【提出書類としての恋文】
その夜、澄子は机に向かった。
「鮎川秀雄様」
──手紙の宛名を書く手が震える。
だが、投函する勇気はなかった。
封をせず、枕の下に隠した。
月の光が机を照らしていた。
翌朝。
「澄子、昨日あなたの机にあった封筒、出しておいたわよ」
「えっ!?」
「“提出書類”だと思って職員室のポストに──」
愛子の声がフェードアウトする間に、澄子の顔色は月より白くなった。
「提出書類」扱いされた“恋文”は、当然、職員室で開封された。
そして理科主任の机の上で鮎川の手に渡った。
その日、放課後。
廊下で鮎川が声をかけてきた。
「お手紙、読みました」
「…………!」
「月がきれいですね」
まさかの夏目漱石リスペクト。
澄子の頭の中では花火が上がった。
「ええ、ほんとうに……さらなり、ですの」
「さらなり?」
「清少納言です!」
「……理系なので、そのへんは」
「愛に理系も文系もありませんの!」
その晩、澄子は“恥ずかし死”寸前で日記を書いた。
本日、恋文が提出書類扱いされる。
それでも月はやさしかった。
【恋は燃焼系】
愛子が珍しく真面目な顔で言った。
「澄子、あなたの恋は燃焼系すぎるの。そろそろ冷却水を入れなさい」
「恋は熱量ですのよ」
「でも燃えすぎると灰になる」
「灰になっても書きますわ」
「そこが面倒くさいの」
澄子は夜ごと月を眺めながら、鮎川に続きそうで続かない手紙を書いた。
──結局、出さない。
恋の手紙は“書くこと”そのものが目的になっていた。
ある夜、鮎川が寮の前を通りがかり、ふと立ち止まった。
「夜更かしですか」
窓越しに見上げると、澄子が月を見ていた。
「ええ。月のころは、さらなり、ですの」
「詩人ですね」
「ええ。理科室を爆破した詩人です」
鮎川は笑って、「君みたいな人、嫌いじゃないです」と言った。
──その瞬間、恋の成分は「水素」から「花火」に変わった。
【月と花火と】
八月のある日、女学院で夏祭りが開かれた。
浴衣姿の女生徒たち。屋台の綿あめ。
澄子は金魚すくいのポイを握りしめながら、ひそかに鮎川を探していた。
見つけた。月明かりの下、白衣の代わりに浴衣。
まるで理系が一瞬だけ文系になった瞬間。
「こんばんは、藤己さん」
「こんばんは、鮎川さん」
「金魚、捕まえました?」
「ええ、一匹。恋の象徴ですの」
「また文学的だ」
「あなたは?」
「僕は……観察してるだけで満足です」
「つまり、わたくしの金魚を観察なさっているのですね」
「いえ、あなたを」
どーん、と花火が上がった。
恋の比喩が現実の光に負ける夜。
──夏は夜。月も花火も、さらなり。
【恋の光】
夏休みの終わり、鮎川が帰る日が来た。
理科室の前で、澄子は封筒を差し出した。
「これ、最後の手紙ですの」
「また爆発しませんよね?」
「今回は安全です。中身は言葉だけですもの」
鮎川は笑って受け取った。
「東京の月を見たら、あなたを思い出します」
「わたくしも、実験用の白衣を見るたびに」
「それはちょっと怖いですね」
「愛の化学反応ですの」
汽車が動き出す。
澄子はホームで手を振った。
月がまだ残っていた。
──夏は夜。
恋は、光っては消え、でもまたどこかで灯る。
【恋も文学も】
九月。夏の終わり。
寄宿舎の部屋で、澄子は机に向かっていた。
「ねえ、澄子。もう新しい恋の準備?」
「違いますわ。恋の記録の整理ですの」
「つまり総集編」
「ちがいます! ……たぶん」
ノートにはこう書かれていた。
夏は夜。
月も恋も、さらなり。
書くことは、恋すること。
恋することは、生きること。
愛子がため息をついた。
「あなた、将来どうなるのかしら」
「きっと、文学で誰かを爆発させますの」
「それ、物騒な夢ね」
笑いながら、澄子はペンを置いた。
夜風がカーテンを揺らし、月が机の上に小さな光を落とした。
──夏は夜。
澄子の青春は、まだ途中。
けれど、その光は確かに“書く少女”の中で燃えていた。
そして彼女は、そっと呟いた。
「秋は夕暮れ、春はあけぼの……そして夏は夜。
──恋も文学も、さらなり、ですの」




