21.『夜に泣く絵』
※ ※ ※
そのころ、ひとつの絵の噂が国じゅうに広まっていました。――
それは、花束の絵でした。
ただ、花瓶に生けられた花が描かれているだけの、ごく普通の油絵だと言われていました。
特別にきらびやかなわけでもなく、名のある画家が描いたわけでもありません。
けれども、人づてにこう呼ばれていたのです。
『夜に泣く絵』
──と。
「花の絵が、泣く?」
王様がそう言ったのは、この噂を耳にしたときでした。
家来は、答えました。
「はい。どうやら女の子の魂が乗り移っているのだという噂です」
「バカバカしい。そんなものを、国民は大金で買っているというのか?」
※ ※ ※
王様の言葉は、事実でした。
『夜に泣く絵』は、オークションに何度も出品され、そのたびに、とんでもない高値で競り落とされていたのです。
そのオークションは年に三回。国ができてすぐに始まった由緒ある催しで、ときには王様の代わりに、家来が参加することもありました。
そうして絵を手に入れた人たちは、口をそろえてこう言うのでした。
『絶対に、女の子が泣いていた』
けれども、だれ一人として女の子の姿を見たことはありませんでした。
泣き声が聞こえるのは決まって夜おそく、誰も見ていないとき。
しかもその声が聞こえはじめたら、持ち主の体はピクリとも動かなくなってしまうのだそうです。
『ちゃんと目は覚めているんだ。けれども、体がうごかせなくなるんだよ』
『意識だけはあって、けれども、まるで知らない世界に入り込んでしまったみたいになるんだ』
そんなふうに、みんな証言しました。
それから必ず、こんな話を付け加えるのです。
『まわりから、色がすうっと遠のいていって、部屋じゅうの空気がエメラルドグリーンにきらめきだす』
『すべてが、深い海の底のように静かになって、時計の針の音までやんでしまう』
『時間が止まっていた』──だれもが、そう語るのでした。
もちろん、話を聞いたみんなは怖がりました。
けれども、絵のせいで、誰かが病気になったり、事故にあったりという不幸は一度も起きませんでした。
それどころか、泣き声を聞いた人たちは決まってこう言うのです。
『怖くはならないんだ。ただ、かわいそうになる』
『胸がしめつけられて、寂しくてたまらなくなるのよ』
怖いよりも、かわいそうでたまらなくなる。
その、理由の分からない悲しさと寂しさのせいで、みんなは絵を手元に置いていられなくなってしまうのでした。
ですから絵は、すぐに手放されました。
オークションのたびに、その絵は並び、とんでもない値段で落とされ、また短いあいだで手放されて、次の持ち主のところへ渡っていく……。
そんなことが、何年もつづいていたのです。
※ ※ ※
その年も、国じゅうの商人や金持ちたちが、
『次の競りにはあの絵が出るらしい』
と、ささやき合っていました。
しかし当日、絵は現れませんでした。
王様が、出品予想額の倍で前夜に買い上げていたのです。
理由は、気まぐれからでした。
『それでは私が買って確かめてみよう。もし本当に泣くのなら、その理由をその絵に聞いてやるのもいいだろう』
その一言をきっかけに、その絵はお城の一室に飾られることになりました。
王様がこんなふうにお金を使うのは、とても珍しいことでした。
ですから、その噂はすぐに国じゅうへ広がりました。
『王様が、『夜に泣く絵』を買ったらしい!』
※ ※ ※
しばらくの間、絵は、ずっとそこに飾られていました。
けれども城はあまりに広いのです。
たとえある夜、その絵が本当に泣いたとしても、その声が誰かの耳に届くことなど、まずありませんでした。
そもそも王様は、その絵の飾られた部屋に足を運ぶことさえしていなかったのです。
眠れない夜、王様はふと寝室を抜け出し、廊下を歩くことがありました。
絵の部屋の前を通ることもありましたが、扉の前を素通りするだけ。
そんな時は必ず、王様の後にお供の衛兵が、一人か二人はついていました。
ひとりきりには、させてもらえませんでした。
煩わしさを感じながらも、あきらめて歩き、思索にふけるのでした。
昼間は人の声で満ちているはずの城も、真夜中をすぎると、廃墟のような静けさに包まれます。
自分と衛兵たちの足音、装具の軋む音だけが、姿のない生き物のようにまとわりついて、石の廊下に響き渡ります。
「死んだら無だ。何も残らない」
王様は、こう呟きました。
「神など信じないし、あの世だって信じない」
それは、王様の心に立ち込めた靄が、言葉になってこぼれた溜め息のようでした。
“少女の魂が乗り移った絵”など、まして『夜に泣く絵』など、初めから一切信じていません。
ですから、飾る場所など、どこでもよかったのです。
長い廊下の石壁には、等間隔に壁龕が設けられ、燭台の灯がゆらゆらと揺れて、ほの暗い廊下の先まで、小さく金の筋を描いていました。
淡い光に照らされながら、王様は目を閉じて、誰にともなく囁きました。
『生きるとは、なんて虚しく、寂しいことなのだろう……』
小さすぎるその声は、誰にも届きませんでした。
※ ※ ※
──絵は、ただ静かに、息をひそめていました。




