2.エマ
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城のある山の中腹、南に突き出した高台に、大きな資産家の屋敷がありました。
足元には街並みが広がり、その向こうには海が見え、潮風がいつも心地よく吹き寄せてくるのです。
そこには、継母と幾人かの召使たち、そして一人の少女が暮らしていました。
少女の名はエマ──十歳になったばかりの、可愛らしくて優しい子でした。
お父さんを亡くしたばかりで、胸の奥は深い悲しみに包まれていましたが、エマはそんな様子を人前で決して見せませんでした。
学校では勉強がいつもいちばんで、友達もたくさん。先生たちからも愛され、いつも明るくニコニコしていました。
七歳から習い始めたピアノも上達し、油絵にいたっては、もっと幼い頃から屋敷に先生を招いて習っていましたので、大人も感心するほどの腕前を見せていました。
そう、エマは小さな頃から、絵が大好きでした。
まもなく三歳になろうとしていたときのこと。
お父さんの描きかけだった絵に、落書きをしてしまった出来事が、その「大好き」の始まりだったのです。
お父さんはエマが生まれるずっと前から、屋敷の片隅に、趣味の絵を描くアトリエを設けていました。
エマは優しいお父さんが大好きでした。だから、お父さんが屋敷にいる日は、ぴったりくっついて離れませんでした。
まだ三歳にもならないエマは、その日も絵を描いているお父さんの横で、人形遊びをしていました。
お父さんは、大人しく遊んでいるエマを置いて、ちょっとだけアトリエを離れ、用事を済ませ、戻ってきて驚きました。
なんとエマが、真面目な顔つきをして、その絵に落書きをしていたのです。
その姿を見たお父さんは、怒るどころか、うれしそうに微笑みました。
「この子も、やっぱり絵が好きなんだ!」
さっそく次の日には、絵の先生を屋敷に招いて、一緒にエマにも絵を習わせ始めました。
おかげで、五歳になる頃にはもう、しっかりとしたデッサンが描けるようになっていました。
絵を描くのが、どんどん好きになっていったのです。
けれど、絵よりも、もっと好きな人がいました。
それは、お父さん。
でも、本当は、そのお父さんよりも、ずっとずっと好きな人がいたのです。
まだ一度も会ったことのない、お母さんでした。
エマのお母さんは、エマが生まれるとすぐ、病気で亡くなってしまいました。
だから、エマはお母さんのことを知りません。けれどもお父さんがいつも、エマにお母さんの話をしてくれていたのです。
それに、お墓もすぐ近くにありました。
お母さんのお墓は、屋敷からいちばん離れてはいましたが、庭の隅にあったのです。
そこからは海がよく見え、心地よい潮風がいつも吹き寄せていました。
まわりは花畑に囲まれていて、とてもよい香りが漂い、そこに寝転がっていると、まるで『別の世界』にいるように感じるのです。
エマは、お母さんのお墓に行くのが大好きでした。
それなのに、一人で行くことを固く禁じられていました。
そこへ行くのには、ギシギシと軋む、揺れる縄梯子を渡らなければならなかったからです。
広い庭のなかに、裏の山から流れ込む川が、深い谷を作っていたのです。
ですから、お父さんが仕事の無い日に、連れて行ってくれるときにしか、お母さんのお墓へ行けませんでした。
でも屋敷には、お母さんの絵がいたるところに飾ってありました。
お父さんが描いた絵です。
お父さんとお母さんは、まだ二人共、とても若い頃に知り合ったのだそうです。
お父さんはその頃にはもう絵が大好きだったので、お母さんの絵をたくさん描いたそうなのです。
「お母さんは今も、これからも、ずっーと、天国からエマを見守ってくれているんだよ」
お父さんはお母さんの絵の前で、よくそう言ってくれました。
そのおかげでエマは、いつもお母さんを身近に感じながら育ちました。
「お母さんって、どんな人だったの?」
そう尋ねると、お父さんは決まってこう答えるのでした。
「いつもニコニコしていて、明るくて、とっても優しい人だったのだよ」
ですからエマも、いつもニコニコとまわりの人たちに笑顔を振りまいていました。
お母さんみたいになりたかったからです。




