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10.エメラルドグリーンの輝き──『時のない世界』

                 ※ ※ ※


その日、エマは少し熱っぽく、体が重いと感じていました。

それでも遅い夕食のあと、いつものようにひとりで絵筆を握りました。


「先生の風邪が伝染ったのかしら?」


つぶやきながら、鏡に自分の姿を映すと、


「これが……私?」


自分でも別人かと思うほど、曇った顔をしていたのです。

改めて、鏡の中の自分をじっと見つめました。

月のしずくを思わせる白い肌。その滑らかな肌の上を、揺らめくロウソクの影が淡く踊っていました。

どうしたことか顔の輪郭がどこかぼやけて、今にも光に溶けて消えてしまいそうに見えます。

それなのに不思議と瞳だけは、ひときわ澄みわたり、みずみずしく輝いていました。


エマの瞳はサファイアの青。

その輝きに誘われるように、思わず瞳の奥をのぞき込みました。

明度の高い海のように、明るい青色が深度を増すにつれ濃くなり、少しずつ暗くなって……。


どのくらい見つめていたのでしょうか?

気づけば意識までもが、次第に暗い底のほうへと沈み込み、吸い込まれて行きそうになっていました。

あまりに長く見つめ続けていたせいで、胸が詰まるように息苦しくなり、エマは慌てて鏡から目をそらしました。

頭がくらくらと揺れ、思わずぎゅっと目を閉じました。


それからゆっくり目を開けると――部屋の様子が一変していました。


まわりの色彩は跡形もなく消え失せ、世界は白と黒だけのモノトーンに沈んでいたのです。


エマは、自分の目がおかしくなってしまったのかと驚きました。

もう一度鏡をのぞくと、そこに映る自分の姿は変わらぬまま。

ただひとつ──その肌だけが、ほんのり透きとおり、淡い光を帯びて輝いていたのです。


ふいに、透き通ったグリーンの涙が一筋、まるでエメラルドが溶け出したかのように、煌めきながら、静かに頬を伝いました。


とっさに頬へ手をあてましたが──涙など、どこにもありません。

驚いて手のひらを見つめ、もう一度鏡をのぞくと、そこには信じられない光景がありました。


鏡の中のエマは絵のように動かず、先程と同じ姿勢のままでいたのです。

ただ、悲しげな瞳でじっとエマを見つめ返していました。

恐ろしくなり、思わず悲鳴をあげようとしたそのとき──


「待って!」

 

心の奥で、誰かの声がはっきりと響きました。

あまりに切なく、哀しい響きだったので、エマは声を呑みこみ、もう一度鏡を見つめました。


視線が重なった瞬間、不思議と怖さは消えていました。

わかったのです。鏡の中の自分が、何かを必死に訴えようとしていることに。


エマは、さっきよりもしっかりと、鏡の中の自分を見つめました。

すると、涙がキラキラと輝きながら唇の端をかすめ、尖ったあご先を伝ってぽたりと落ちました。


その一滴が床に触れるや、灰色のじゅうたんが見る間に涙の色に染まり、その色彩が空中に溶け出しはじめたのです。

やがて空気までもがエメラルドグリーンに輝きはじめ、その光に包まれていくにつれ、体が少しずつ動かなくなって行きました。


──『時のない世界』。 


部屋から時そのものが消え、淡い光に満ちた静かな潮溜まりのような場所へと変わっていったのです。 


けれども、エマは少しも怖くありませんでした。

それどころか、どこまでも自由になったような気分でした。

体は動かなくても、部屋の隅々まですべてが手に取るようにわかります。

まるで心だけが体を離れ、世界を見渡しているかのようなのです。


エマは鏡の自分と向き合いました。

鏡の中のエマも、もう泣いてはいません。

ただ静かに、まっすぐにエマを見返していました。


(あなたは何を、私に伝えたいの……?)


エマは心の中で、鏡の中の自分に問いかけました。

問いかけても、鏡の中の自分は答えません。

けれど、確かに気持ちは伝わってきました。

なぜなら鏡は、エマの心の裏側を映し出していたのですから。


エマは気が付きました。

自分の心が、砕けて壊れてしまいそうなほどつらく、苦しんでいたことに。


鏡の中のエマは、その苦しみを──エマ自身に伝えたかったのです。


エマは、一人ぼっちになってしまった不安から、苦しい気持ちや悲しみを、誰かに知られてしまうのが怖かったのです。

隠そうとするあまり、心を押さえつけ、もっともっと苦しい思い、悲しい思いをしていたのです。

あまりに我慢して、もう自分でも、心の痛さが分からなくなりかけていたのです。


「泣いてもいいんだよ……」


今度はやさしい声が、心の奥でそっとささやきました。


途端に視界がかすみ、頬の上を柔らかい温もりが伝いました。

涙があふれ出していたのです。


エマは声をあげて、しばらくの間、泣き続けました。


                 ※ ※ ※


……やがて気がつくと色彩はすべて元に戻り、鏡の中には現実の自分が映っていました。

体も動き、壁時計の針もまた刻みをはじめています。


エマは鏡を見つめながら、思いました。


──心が『この世界』ではなく、『別の世界』に触れていたのだと。


お父さんの言葉が蘇ってきました。


「お母さんは、今も、これからも、ずっーと、天国からエマを見守ってくれているんだよ」


胸がふっと温かくなり、首に掛けていたロケットを開いて見つめました。


(『別の世界』があるのなら、『天国』だってきっとある……!)


そう思うと、胸の奥から喜びがこみあげてきました。


                 ※ ※ ※


それからはもう、鏡の中のエマは現れませんでした。

それでも絵筆を握る度に、あのエメラルドグリーンに輝く世界が胸の奥に蘇るのでした。

エマは、鏡の中のエマの心、涙を流していたエマを描く事に決めました。

 

心が、前よりも少し軽くなっていました。


ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!

第1話から第10話までは平日に毎日更新してきましたが、ここからは【平日1日おき】の更新となります。

引き続き、夜18:15頃に投稿していきますので、よければブックマークしてお待ちいただけると嬉しいです。


この先も、物語の続きと、その中に潜む小さな奇跡を、どうぞ楽しみにしていてくださいね。

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