16話 レコット村
鼻を突く酷い悪臭が、辺りに充満している。
それは、こびりついた鉄錆の匂いと、拭い去れない排泄物のアンモニア臭、そして死を待つ者たちが垂れ流した、粘りつくような恐怖の汗が混ざり合ったものだ。時間の経過と共にその臭気は熟成され、肺の奥にねっとりと絡みつくような、逃げ場のない不快感へと昇華していた。
ガタゴトと、檻を乗せた馬車が揺れるたび、肌を削るような鉄格子の冷たさと、重い鎖が擦れ合う耳障りな金属音が響く。
その隅で泥に汚れ、膝を抱えて小さく震える少女は、これから自分に訪れる運命を想像し、ただ底なしの絶望に沈んでいた。
檻の中にいるのは、彼女だけではない。瞳から光を失い、家畜のように項垂れる者。濁った虚空を見つめ、泡を吹く者。馬車の前後には、肉の詰まった檻がいくつも連なり、大陸の街道を醜い列をなして進んでいた。
「……クラン……」
少女は、今は隣にいない、引き剥がされた妹の名を、割れた唇から血を滲ませながらそっと零した。
◇
『チュンチュン、ピピピ……』
のどかな鳥のさえずりが、新緑の隙間から零れ落ちる。
窓の外、朝露に濡れた巨樹の葉が風に揺れ、宝石のような光を散らしている。その柔らかな木漏れ日が少女の頬を撫で、瞼の裏側に穏やかな夜明けを告げた。
「ん……う、うーん……」
ゆっくりと瞼を開く。
視界に映ったのは、継ぎ接ぎだらけだが温もりのある、見慣れた我が家の天井だった。そのことに、少女――フランは、ほんの少しだけ胸をなでおろす。
顔を横に向けると、自分よりもさらに幼い妹のクランが、色褪せたキツネの人形をぎゅっと抱きしめ、幸せそうな寝息を立てていた。
「ふふっ」
きっと、花畑で駆け回るような楽しい夢でも見ているのだろう。フランは妹を起こさないよう、音を立てずにベッドを抜け出した。
「おっ、今日は少ない気がするね。ラッキー」
水面に映った自分の顔を確認し、跳ね上がった赤毛をそっと撫でる。
小熊猫族特有の、少し硬くて艶のある髪質。頑固な寝癖を水で濡らし、手でわしゃわしゃと整える。鏡はないが、水に写る自分を見つめながら、「なんだかお母さんに似てきたかな」と、ふと寂しさと誇らしさが混ざった感情が胸をかすめる。
バケツを持って外に出ると、空気の匂いが変わっていた。
肌を刺す冬の寒さが和らぎ、柔らかく、どこか湿り気を帯びた春の気配。
レコット村の朝は、命の匂いがする。
村を取り囲む原生林からは、湿った土と針葉樹の清々しい香りが流れ込み、川のせせらぎが絶えず耳を癒してくれる。人口三百人ほどのこの小さな村は、峻険な岩山と深い森に守られた、獣人たちの隠れ里のような場所だった。
「うーーん!」
両手を空へ伸ばし、全身で日光を浴びる。
かつて父が庭でやっていたのを真似し始めてから、もう何年になるだろうか。これをやっている間だけは、どこかで見守ってくれている父と母と繋がっているような気がした。
「あら、おはようフランちゃん! 今日も早いのね」
「おはようございます、ジーナさん!」
隣の家に住むジーナおばさんが、庭先のハーブに水をやりながら笑いかけてくる。
「これから水汲み? 気をつけてね。最近、暖かくなって魔物も冬眠から覚め始めたみたいだから。特に川辺の茂みは危ないわよ」
「はい! 大丈夫です、いってきまーす!」
村から歩いて十分ほどの川へ向かう道中、フランはふと足を止めた。
頭頂部の、丸い耳をぴんと立てて周囲の音を探る。瑞々しい草木の揺れる音、小鳥の羽ばたき……その中に、微かな『シュルリ』という摩擦音が混ざった。
「……あーぁ。起きちゃったか。ブラッドスネーク……蛇はいやだなぁ」
がっくりと肩を落とす。彼等は耳が良く、鼻も利く。だが、戦闘力は獣人族の中でも最弱に近い。森の豊かさは、それだけ危険な捕食者が多いことの裏返しでもあった。
手早く水を汲み、新緑のトンネルを駆け抜けて家へと戻る。
帰宅後、朝食の準備に取り掛かった。今日は、猟師からもらったピッツバードの肉と、裏の畑で採れたばかりのシャキシャキした葉野菜、チャタスのサンドウィッチだ。
「うん!良い感じだね!」
肉は村の猟師が、野菜を分けてあげるお礼に届けてくれたもの。自給自足の、小さな絆で成り立つ生活。
フランは再び寝室の扉を開けた。部屋はすでに、温かな日光で満たされている。
「はーい、クラン。起きてー、朝だよー」
「う、うーん……あさぁ……?」
「そうだよぉ。起きないと、こちょこちょしちゃうぞぉ? いいのかなぁ?」
「おき……たぁ……」
妹のクランは九歳。フランより五歳下で、まだまだ甘えん坊だ。
「あと十秒で始まるよ。十、九、八……三、二、一……うりゃぁ!」
「ひゃあぁぁ!? おき、おきようとしたのにぃ! キャハハハ!」
結局、逃げようとしたクランにダイブして、朝のスキンシップ(強制)が始まる。
「誰が重たいだってー? 女の子に『重い』は禁句なんだぞー!」
「いって……な……いっ! クランも、おんなのこぉっ! くるしいっ、ヒッヒッヒ!」
笑い声を響かせながら、二人は連れ立って食卓につく。
「今日はルルーニャ先生が来る日だからね。しっかり食べてお勉強しないと」
「あ! そうだ、今日だ! 忘れてた!」
猫人族の行商人、ルルーニャ。いわゆる全獣型で、見た目は猫そのものだが、知能が高く、人族の街とも取引ができる彼は、村に物資と「外の知識」を届けてくれる唯一の窓口だ。
「……勉強は好き?」
「(もぐもぐ)ふん!ひゅき!ふぁってふぃんふぁとふぃっひょにふぃふし!るるーふぁふぇんふぇいのひゅぎょうも(ごくん)面白いから!」
「……うん。飲み込んでから喋ろうかクラン……」
「ん?わかった!」
クランの満面の笑顔を見ていると、フランの胸に、かつての母の表情が重なる。
母に言われてとりあえず返事をしていた自分。今の私の顔は、あの時の母と同じ「困ったような、でも愛おしいような」顔をしているのだろうか。
平和な日常。これがずっと続いてほしい。
東の果てには、獣人たちの理想郷「ガルザバハム」という国があるという。そこなら小熊猫族も安心して暮らせるらしいが、徒歩で五ヶ月。村全員で移動するにはあまりにも遠く、危険すぎる。彼らはこの 人族の領土の端に留まるしかなかった。
「……あ、外が騒がしい。ルルーニャ先生かな?」
クランが椅子から飛び起きる。
「ちょっと待った! 外に出る前にすることがあります」
「手を洗う?」
「違う」
「ごちそうさまでした?」
「その前に……お皿に残ったチャタス、食べてから言おうか!」
「バレたぁーー!!」




